第三章
ミイラの埋葬状態其の他に関するスタイン氏の報告



 上章述べるが如く、日本側の中央アジア探検に就いては西域考古図譜上下二巻がでた外にはまとまった探検記事及び学術上の研究報告は遂に出版されなかった。
 然るに英国から派遣されたスタイン氏を主任とする探検隊は橘氏等の発掘した高昌国の墓地を近年頗る大規模に発掘して、多数の墳墓から幾多のミイラ及び副葬品を採集して詳細なる報告を発表している。
 「即ち最近(1928年)出版された極央アジア(Iunermost Asia)第二巻を参照されたい。」
 この高昌国墓地は新疆省トルファンのアスターナ(Astana)云う所に近い平盤な砂丘上に在る。墳墓の存在面積は頗る広く、東西6キロぐらい、南北2キロぐらいです。
そして墳墓はこの地に或る場所では散在性に存在し、或る場所では群集して存在する。
 所々に砂礫で積み上げられた高さ数フィトの土墻(どぞう)がある。この土墻は短形或いは正方形の地形を囲み、一側に土墻に切れ目があって、これが入り口を成している。
この土墻で囲まれた地域の広さは種々であって10平方ヤード位の小さいものもあれば
150ヤード平方に及ぶものも或る。そしてこの土墻に囲まれた地域内に墳墓があるが、一地域内の墳墓の数は一定しない。或いは二三個の事もあるし、或いは10個以上の墳墓があることがある。
 墳墓には封土があって高くなっている。多くは5〜6フイトの高さで、封土の上は棘ある
叢(くさむら)になっていることもあるし、粗い自然石が封土上に敷かれていることもある。
そして古墳形は破壊されているものも多いため明らかではないが、底面四遍形のピラミッド形の盛り土があったようだ。
 この古墳は捜査が容易で在る為に古代から荒らされた。即ち古代では盗掘して貴重品だけを盗む宝探しの目的であったが、近代では古物捜査の意味で発掘されている、又この地方に木材が少ないために木棺を探し出す目的で発掘されている。
 

アスターナ高昌国墓地に於ける石槨の平面図
(スタイン氏極央アジアより転載)簡単なる構
造の石槨と稍や複雑なる構造の石槨とを示
す。後者の玄室にテンテンで示す部分は一段
高く造られた床である。
 スタイン氏は1918年1月にこの古墳の多数を発掘した。墳墓の多くは既に以前発掘されていたが、未だに盗掘されていない古墳もあった。

 封土の下には槨(かく)がある。そして槨(かく)の一側から早iい)道が造られている。簡単な場合いには巾3〜4フイト、長さ12〜16フイトくらいの早iい)道がある。
この早iい)道は入り口から進むに従って深くなって遂に奥室に達す。槨(かく)の底部は早iい)道よりも1〜2フイト低い。形は短径である。そして槨(かく)及び早iい)道共に粗磚末なで築かれている。

  早iい)道の槨(かく)に入らんとする前に壁の縊(くび)れ目のあるものが多い。時とするとこの部が拡大されて稍々前室の趣を為し、奥室の底部には一段高い床が造られているものもある。
 槨壁に絵が描かれている事がある。又奥壁に人首蛇体神像を描いた絹が掛けられていることもある。
 

スタイン氏極央アジアより転載
 死体は全ての例に於いて木棺中に在ったと思わ
れるが、木棺材の盗み去られているものが多い。
簡単なのは木釘で打ちつけられた木棺で
(此種木棺は京城総督府博物館に大谷氏将来品
がある。)木綿及び絹の布片が棺上に覆ってあ
る。但し後者には人首蛇身神像の描かれている
事がある。

 少数の例外を除けば一槨中には二人ないし三
人の屍が置いてある。そして死体と共に埋められ
たる墓誌によって明らかになる如く二人は夫妻で
ある。三人の場合には夫と妻と妾である。
死体は足を延ばして両手に独鈷(どっこ)の形を
模した杵形小木片を握っている。

 死体の上には平織り絹或いは木綿の經帷巾又
は覆ひ物がそせてある。
そして絹帷巾の死体顔面部を覆っている処には
死者の顔面よりも小さな大きさで二個の横向きの
顔が描かれている。スタイン氏はこの顔面も人首
邪身神像を意味するものだと考えた。

絹地へ彩色せる畫(えがく)。左手には尺度を、右手には鋏
を、つかんでいる。周囲の円及び線は星宿を象っている。この
畫の類品は関東廟博物館にも収蔵されている。

 この覆ひものの下にある死体の著衣には二種ある。第一の場合は平絹、染め絹、木綿等各種の小布片を綴り合わせて造った襤褸様の布片で死体を巻いているのである。
第二の場合は普通の絹又は木綿の衣服を着ている。この古布の綴ぢ合わせについてスタイン氏は特に注意を払って、敦煌千佛洞発見の佛祭礼用布片の或るものも亦小さい布片を綴り合わせたものだと云っている。如何にも敦煌発見の佛具布片中には諸種の小布片を故らに綴り合わせて大布片となしたものがある。多数の人から少々宛布片を喜捨してもらって造ったものかも知れないが、旅順博物館のミイラは総て第一の場合の著衣のみである。
 スタイン氏発掘墓誌の年代は大体に於いて大谷氏将来品と等しく西暦600年内外のものが多い。然しこの墓地から発掘された墓誌中の最古のものは西暦571年であって、最新のものは西暦698年であった。それでスタイン氏はこれらミイラの着衣は同氏が楼蘭の古墳より発掘した布片よりも新しく、敦煌千佛洞より発見された布片よりも古く、丁度両者の中間の位するものだと云っている。
 死体には皮又は組糸製の実用靴を穿いたものが多いが、時としては紙製の靴とか、紙製の帯とか、紙製の帽子を着せてあった。いずれも実用品の模造である。
 ミイラの顔面は錦で覆われていおる。この錦の裂れは円形または卵円形であって、着色された絹で縁取られてあって、ササニアン式模様が織だされている。ミイラの眼上には眼鏡様のものが置かれている事がある。即ち多分銀と思われる金属製の薄板を眼鏡の形に切って、中央部に多数の子穴が穿つてある。眼鏡は多くは上記錦の顔覆ひに伴出するが、両者伴出しない事もある。そして多くの場合は眼鏡は顔覆いの下に置かれている。或る場所には両眼上にササニアン金貨が置いてあった事もあるし、又他の場合には丸く円形に切った樹皮(旅順ミイラの例で見るとこれは瓢皮である)が置いてあったこともある。
 死者の口中に銭が入れてあった事がある。ジャスチニアン、一世の発行した金貨をこの地で模造したことがある。この西域模造金貨が口中に入れてあったし、或る場合はササニアン銀貨が入れてあった。
 口以外に死体の近くから銭の見出された事も稀でなかった。六朝銭たる常平五銖だとか、唐銭たる開元通宝が出たし、又紙を銭の形に切ったもの、銀板に穴を穿つて支那銭を模したものだとか、木皮製(恐らく瓢皮製)小円板等がそれである。
 木棺中に死体と共に入れてあったものとしては開元通宝だとか、櫛、絹の小片を納めてあった小籠、木綿製の枕等があるし、死体の下には敷布がある。女の死体には鏡、小箱、鋏、装飾用ガラス玉、化粧具等がある。小さい漆器の箱、紙又は絹製の模型靴、模型服、模型帽等が入れてあった事もあるし、紙に描いた絵畫等もある。
 彩色土器、木製器具等も死者の頭部に近く木棺中に置かれていた。又木製の土器模造品もあった。これらは要するに死者の日常使用する器具である。但し其の中には実用品もあるし、葬儀の為の明器もある。又食品が棺外に置かれていた事も或る。例えば葡萄其の他の果物、穀粒、肉類、饅頭等の類である。啻に日用器具のみでなく、極めて広い範囲に於いて死者の生活と結び附く品物が槨内に置かれている。木製家屋模型、器具模型、幡の類である。又従僕家畜の類としては土製及び木製の桶がある。即ち男女の土偶とか、騎馬土偶とか、鞍置きし馬だとか、ラクダ等の獣類の模型が出るし、鵞(が)
等の類だとか、想像によって造られるデモンすら現れた。
 スタイン氏はミイラの着衣を調べてササニアン式のものが多いのを強調している。そして其の中の或るものは純ササニアン式である。或るものはササニアン式模倣の支那絹である。或るものは支那化せるササニアン様式(シノ、ササニアン式)である。或るものは純支那であると考えている。いずれにしても是等の布片は我国の法隆寺裂れ、正倉院裂れ等と強い類似を示し、西方文化の影響を考えるには貴重な材料である。
2004・2・29
第三章 終わり
次回は、第四章・ミイラの人類学的観察
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