第四章
ミイラの人類学的観察




アスターナ(阿斯塔那

 トルファンのアスターナは古代高昌城の近くに
広がる大墓域で、西晋から唐代までの高昌城に居住した人の墓が集中している。
其の多くは漢人で、一部少数民族の人も含まれている。其の為の墓の造りや副葬品は中国の伝統を踏襲している。
墓室には壁画を描いたり紙、絹に絵を描いて副葬したり、死者のために食品を盛った器を埋葬したりしている。特に640年、高昌国が唐に滅ぼされてから後は、この傾向がいっそう顕著になってきた。
連珠孔雀文錦面衣 長さ21 巾14
 トルファンに5世紀の初め建国され140年続いた
麹氏高昌の上流士人(漢族)は、亡くなると埋葬に当たって、このような錦を真ん中に置いて其のぐるりを平絹や羅で取り囲んだ”面衣”で、その顔面が覆われていた。この錦が出土した墓からは高昌建国4年(558)の紀年を記す文章が出ていて、製作年代は6世紀の前半とみなす事が出来る。この錦の際立った特色でもある連珠円文意匠は本来ササン朝ペルシャ錦のものであるが、織り方は中国伝統の経錦技法である。文様を詳しくみると、孔雀、瓶、忍冬唐草、鹿、天馬などペルシャ錦文をモデルにしている。
もはや漢錦の錦文とは異なる六朝錦文というべきであろう。赤、白、藍の美しいこのような錦は”蜀の錦”と言われている。

 上記の如くミイラの服装は、その織模様其の他に於いて西方文明の影響を受けているが、大体に於いて支那式である、またミイラと搬出する遺物も概してし支那式のものが多い。そして歴史が示すように、高昌国は支那の殖民地であって、支那人の子孫がこの地に国をなしていった。然しながら漢から六朝を経て唐に到る間に、どれ程の程度に住民が西方の住民と混血したか、又高昌国人中に臣下として、或いは妻妾として如何程の度合いに迄、緑眼の西洋人が混入していったか、われ等の疑問とした虚であった。
 そこで金高君と私とは博物館の援助の下に旅順所在の高昌国ミイラ九体の計測を行った(小児のミイラ一体の計測は除外した。)
第一号乃至第九号は旅順博物館所蔵のミイラであって、第十号及び第十一号は京城博物館所蔵の高昌国ミイラである。統計的に論ずるには余りに例数が少ないのが残念ではあるが、これによりて学者は高昌国人の体質の大体を窮知し得ると思う。
 専門家に対して書いた者でないので、附表の計測数字の一つ一つに於いて論ずるには無味乾燥に失するのを恐れて、是を付録として記載し、此処で記述するのを止めることにする。然しこの表によって高昌国人は大体の於いて相似よったる体質の人民からなリ立つものであって、支那人の或る者と著しく似ている。勿論個人対個人の間には差があるが、是は割合に少差であって、体質の著しく異なる他人種の屍体が混入しているとは思われない。唯六朝から唐時代にかけて生存していたどの地方の支那人と体質上最も類似しているか、又この十一例の高昌人がどの程度まで西洋人と混血しているかは、今後支那内地の唐時代の古人骨が蒐集せられざる間は判明しない。
 左に旅順博物館所蔵ミイラ九体に就いて詳しく大要を記載する。但しこの番号は私たちが検査した順番によって便宜上附したものであって、九体中の三体(第七、第八、第九号)のみが、階下のミイラ陳列室に並べられて一般の縦覧に供せられ、其の他の六体は陳列室の狭隘なるがために倉庫内に保管されているのが残念である。
第一号 女性。
 首と胴とが分離している為に身長の計測が不能であるが、中等大の女性である。
肩峯間距離29、5センチは女性としての中等巾である。腸骨前上棘間距離26、6センチは甚だ広い方である。頭蓋の地平周径は53センチ、正中矢城状穹隆長は33センチで、いずれも中等長である。頭長副示数は7、44センチで狭長である。又頭長耳高示数は7、07。広耳高示数は9、7顱項前頭示数は7、46.形態的顔示数は8、74等である。即ち頭は狭長であるが、頭高は割合に高い。顔は中等高或いは稍や低いほうである。本例の口中には銅製の西域銭一枚を含んでいた。
 顔は楕円形で扁平であって觀骨高く、前額膨満し、鼻根部や鼻は低い。筋肉及び皮下脂肪組織の発育が佳良なので額部は豊満だが美人ではない。口及び眼を開き、上下の門歯及び犬歯を見せている。咬合は鉗子状で、歯牙咀爵面は水平である。
頭髪は黒褐色で密生しており、毛型は Iissotrich である。麻様の紐で毛髪を束ねている。四肢は計測できないが、上肢は自然に両側に垂れ、手は半開している。足は崩れて所見を記せない。顔に錦と絹布とを纏っていたらしく、其の一部が顔面に付着している。本例の着衣は甚だ立派であって、錦の絹布と羅をもって外を覆い、絹布で造った衣服を着けている。陰部及び顔面には綿花を当てて覆ってある。
第二号 男性
 身長1550センチ、肩峯間距離345センチで広い方である。腸骨前上棘間距離23センチ中等巾である。頭長巾示数は8センチで中頭であるが広い方である。長耳高示数7、24センチ広耳高示数9、6センチ顱項前頭示数7、33センチ。形態的顔示数9、79センチで高い。
 仰臥伸展で眼は半開し、口も半ば開いている、左頬部は腫脹して下顎部に及んでいる。口腔部は検査することが出来ないが、何か左下顎體に出来ていたものでないかと思う。栄養中等であったらしく、屈強なる男子である。咬合は鉗子状で咬粍は三度である。40歳以上らしい。
 顔は楕円形で眼は外背が上がっているから釣り目である。鼻根は低くして広く、鼻背の前反が弱い。顔面は概して扁平で髪が少ない。顴骨の突出は弱いが鼻翼は広い方である。身体は先ず荒目の麻布を以って纏絡し、手先にまで及んでいる。麻布の上には薄い絹布を纏い、其の上に羅を纏っている。顔面にも細目の麻布を纏っている。下肢も上肢と同様荒目の麻布を以って巻き、其の上にズボン様の薄絹を着ている。
そして之を足頚部で細い麻紐で締めている。最長趾は拇趾である。
 陰部は綿花で覆ってある。之を除いて調べると陰毛が認められない。頭髪は少し白色を呈しているが、之を顎頂部で白紐を用いて結んでいる。両手は両側に垂れているが、手指は麻布で巻いてあるので明瞭でない。
 要するに本例は逞しい男子であって、身体を麻布で巻いて居る点が女性と異なっている。そして上衣の袖無し外套はこの例以外の男子にも見る所のもので当時普通に用いられたものであるが、本例では絹で造ってある。尚本例では白色木綿で造った坊主枕を使用しているが枕の内容は枯れ草を使用している。
 第三号 男性
 仰臥位で身長171、4センチであるから丈高き方である。肩峯間距離は33、6センチで広く、腸骨前上棘間距離は22、5センチで男子としては普通である。頭長巾示数は7、81センチで中頭であり、長耳高示数6、77センチ。巾耳高示数は8、67センチで顱項前頭示数は7、13センチである。
 顔は楕円形で顴骨の突起は弱く、鼻根部は稍々高くして中等巾である。鼻梁の前反も稍や強くして外眼皆は上がっていない。立派なカイゼル髭を生じていて頤髪をも生じている。一見して上品な貌附きである。口を半開きにして上唇を挙げて上門歯を剥き出し、下唇を上門歯咬面に当て、鼻唇溝を深くしている有様は恰も微笑する如くである。そして半米粒大の真珠一個を下唇と門歯間に狭んでいった。歯牙の排列は正しくして缺歯が無いが、右のした第一小臼歯が蝕まれている。咬合は鉗子状であって、頤の突き出しが割合に強く、下顎は高い。顔は細目の麻布で覆い、其の上を尚絹布で覆っていたものらしい。
 体躯は巨大であって、筋肉及び皮下脂肪組織の発育も良い。躯体は荒めの麻布で巻き、其の上に絹の衣服を着ている。両手を両側に垂れているが手は杷握の位置にある(この杷握しているものは木製の杵形の品である。長さ三四寸の花瓶形のもので独鈷の模造品だと思われる。インドでは独鈷を握らせて埋めた事があるという。
簡単なる場合には自然の儘に木皮の附着した樹枝を四寸程に切って握らせたものも大谷氏将来ミイラ中に在った。)外陰部は皴襞(しわひだ)となって残存する。頭髪は後頭部で結び、足は少しは蹠側に屈している。
第四号 男性
 首と胴とが分離している為に身長が不明である。頭長巾示数は8、22センチで広頭であるが、頭高が割合に低いために長耳高示数8、11センチは小さい。又顱項前頭示数は6、62センチで、頭最大幅が比較的大なるに拘わらず前頭最小幅が狭い事がわかる。胸廓及び上腹部は浮腫状を呈し、顔面も浮腫している。下肢は骨格を現した部分もあって生前の形態が不明であるが、あまり強く浮腫はないようである。脛骨の露出する部分に於いて骨幹を検査する断面三角形であってあまり扁平で無い。
 顔は浮腫状であるが、眼の下約3センチの部分に丁度眼鏡の縁の当たっていた部分が半月状に凹んでいる(この眼鏡状物に就いてはスタイン氏極央アジア第三巻図版139に図が掲げてある。銅製品もあるし、銀製品もある。)口を開いているが、歯は中等大で上門歯2枚、右犬歯、右第二小臼歯を缺いているが、下顎歯は全部揃っている。カイゼル髭を生やし、頤に天神髭がある。頭髪は剃って坊主頭である。本例も身体は荒目の麻布で巻いて、其の上に薄い絹布の衣装が着せてある。
 本例の浮腫は生前のものであるか、又は死後に死体がミイラ化するまでに腐敗が進行した為の瓦斯腫れであるか明瞭でない。もし後者だとすると、他のミイラにこの事無きは、埋葬季節の温度の関係に基ずくものだと思われる。又本例のみ頭髪を剃っている所を見ると恐らく其の職に於いて僧侶だったものらしい。
2004・3・15
 次回は第五号〜第十一号まで掲載予定。
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