第四章・2
ミイラの人類学的観察、第5号〜



第5号 女性。
仰臥伸展位であって身長は159センチ、肩峯間距離32、3センチ、腸骨前上棘間距離
22、2センチである。頭長幅指数は、7、65センチでで中頭である。顔は高くはない、鼻も低いが顔全体としては整っている方でミイラ5例の女性の中で第一の美人である。
眼は半開し、口は上唇を穿き剥きて上門歯を露はす。前額は広からず、頭髪甚だ多くして、之を顱頂部で結んでいる。歯は中等大にして白く、美しい。鉗子状咬合である。
鼻根部広からず、又陥没していない。鼻は低いが格好が良い。全身の肉好きも佳良で第九ミイラなどと比較にならない。両手は自然に垂れていて、把握状態を示している。麻布で巻いた部分なし。絹布の肌着の上に、絹の衣服を着ている。乳以下の部分には赤い紐を附したる絹袴を穿き、又紫色の羅の肩掛けを附けている。足は別に絹製の足袋を穿いている。
 衣服の完全なること本例が第一であって、副葬品の女子土偶殊に前掲スタイン氏所蔵のものと酷似し、唐代の服装を知るには貴重な材料である。年齢は熟年と思われる。最長趾は拇指である。
第6号 男性。
 仰臥伸展位であるが左を向いている(左枕)身長は150センチで男性としては大きくない。肩峯間距離は28,7センチで腸骨前上棘間距離は19,7センチであるからこれ等も狭い。頭地平周径は51センチであるから短い。頭長幅示数は7,78センチで中頭であるが、頭高が低いから幅耳高示数や長耳高示数は小さい。顔高も低い方である。
顔は菱形で、口を開放し、下門歯を露出している。鬚なきも陰毛あり。頭髪は短く理髪してある。第4例の如く剃髪したものが延びたのでない、鋏で散髪した跡を留めている。眼は多少釣眼である。
 筋肉は一般に薄弱であって、両足の尖を寄せている。両手を不自然に垂れて右は小指を屈し他は指を伸ばしている。左手は半開したまま臀下に敷いている。歯の咬耗は1〜2度であるから年齢は30歳までであろう。咬合は鋏状である。
 黒色化した麻布片が顔に附着している。体幹に着衣が無い。然し胴の諸所に荒めの麻布の断片が附着している。麻紐で組み合わせて造った靴が一足付属している。
最長跡は拇指である。
第7号 男性。

関東廟博物館収蔵
 博物館の階下ミイラ室に陳列されているもので文官の死体と呼ばれている例である。(口絵参照)身長は163,3センチで中等大、肩峯間距離28センチで男性としては狭い方である。腸骨前上棘間距離22,8センチで中等幅である。頭長幅示数は7,61センチで中頭であるが、頭高が高くないので長耳高及び幅耳高示数はそれぞれ6,79センチ及び8,93センチで小さい。然し顔高が高いので形態的眼示数は9,86センチでである。
 顔は楕円形で開口、開眼している。顴骨は突起して髭がある。頭は右枕す。年齢は熟年らしいが、頭髪は茶色になっていて且つ白髪を混ずる、そして之を後頭部に於いて結髪している。鼻根部は陥没せずして広い、鼻背も広くして扁平に見える。前頭部の膨満が少ない。筋骨の発育は中等度であって、両手を自然の姿勢で垂れ、両手共に半開している。爪は長く延びて爪垢が多い。両足は踵を接して足劣を開いている。腹部の陥没甚だしくて恥骨縫際が隆起する。歯牙咬粍は3度であって咬合は鋏状であり、歯は稍々大である。
 陰毛は粗である。外陰部を見るに陰茎及び陰のう共に浮腫したまま乾枯している。殊に陰のうは手拳よりも大きくなっている。生前陰のうの腫大する疾病(象皮病、脱腸等)に罹っていたのかもしれない。

 上半身には賢牢な麻布を纏い、下半身にはズボン上のものを穿いている。足袋を穿いているが左足の足袋にはウイグル語が墨書されている。(この文字は漢字では派親と云う字に当たると言う)。上記の服装の上に少し細目の麻布で造った袖無し外套を着ている。そして外套の上から真田紐の帯を結めている。
 この服装はミイラと同時に発見された所の文官土偶と類似しているが、土偶の着ているような合わせ目がない。ミイラの外套は正中線に縦に縫い目があるのみであって前方から脱ぐ事が出来ない。
第8号 男性。

関東廟博物館収蔵
  之も旅順博物館の階下ミイラ室に出陳されて武官と呼ばれているミイラである。
(口絵参照) 仰臥伸展位で身長163,6センチで長大である。肩峯間距離33,5センチで肩幅が広い。然し腸骨前上棘間距離は20,8センチで之は狭い。筋骨逞しくて頭髪長く、髭がある。然しこの髭は第3号及び第4号の如く美髭でない。腋毛が多い。頭髪は後頭部で結んでいる。頭には紙張り黒塗りの帽子様のものを被っていたものらしく、之が諸所に附着残存している。
 頭長幅示数は7,90センチで中頭である。頭高が割合に低いので長耳高示数6,45センチ。幅耳高示数8,16センチは小さい。顔も割合に低いために形態的顔示数は8,96である。眼は閉じている。顴骨は隆起し鼻根部は割合に高い。鼻梁も高いほうである。口裂の間には舌を噛み出し、口を尖らしている、其のために相貌は異様に見える。鼻孔には何か詰めてあるようだが枯着していて何物であるか判明し難い。上肢は両側共に肘及び関節に於いて屈しているので、弓状に彎曲し、手劣は腰に向かっている。

そして指を曲げて把握の状態を示している。下肢を伸直し、足は両踵を接して伸ばしている。体毛はかなり著明である。裸体であるが季助部に黒化せし麻布片を附着している。獣皮製の靴がある、白色の晒し革で今日の運動靴に似た形のものである。
腹部は陥没して陰阜は隆起している。上門歯は不明であるが、下門歯は整然と並列している。但し歯石は附着している。
第9号 女性

関東廟博物館収蔵
 本例も又旅順博物館のミイラ室に陳列してある。(口絵参照)伸展位であって右枕、頭首を少し前に屈している。身長147,2センチで小さい。然し腸骨前上棘間距離は21,5センチで女性としては狭い。頭長幅示数は7,86センチで中頭に属する。全頭高は22,7センチで中等高であり、形態的顔高は11,8センチ、形態的上顔高は8センチである。これ等は中等高といって良い。鼻高は5,2センチでこれまた中等高である。
 顔は楕円形で眼を閉鎖し、口は半開であって前歯を少し露出している。前髪を顎頂で結んでいるが、紐を用いず、自己の毛の一部で結んでいる。前額は可なり膨満していて、頭髪は生え上がっている。前額幅は狭い方であって、最小前額幅は9,1センチである。顴頂や後頭は膨隆が強く、眼裂は中等幅で、鼻根は普通であるが鼻背は他例に比して割合に高い。顴骨の額位をとる度はかなり強く、顔の肉附きは全身と同様甚だしく不良で、生前著しく鼠著していた事が分かる。歯は中等大で整然たる配列を示し、噛合いは鋏状である。歯の色は白いが粘液が固著している。この粘液は歯牙のみに留まらず唇粘膜面など口裂一帯に附着している。
 粘膜や皮膚の色は生前の状態を窺知し得難いが、

皮膚は枯燥して暗褐色を呈する。皮下脂肪織が乏しく、筋肉も著しく鼠著して皮膚が直ちに骨に附着するの観がある。助間腔は強く陥没して胸骨及び助骨が隆起し、腹部も著しく陥没して、腰椎が弓状に前方に隆起している。胸骨下角は鋭角を成している。
つまり本例は生前長い間慢性病に悩んで非常に窮痩して死んだものと思われる。但し慢性病が肺結核であったか、癌腫であったか、或いは他の疾病であったか分からない。
 歯の用粍度は2〜3度であるから年齢は40歳前後と思われる。外陰部は明視しえるが形態は判明しがたい。繊弱な陰毛を有している。
 毛は他のミイラ例共に一般に変色していてフイツシヤー氏標準毛髪色の4〜8に当たる色を呈する。頭髪は全ミイラ共縮れ毛が無く直毛であって、Iissotrichに入るべきものである。
 両手は自然に両側に垂れ右手は開放しているが、左手は半開である。物を把握していた形態がない。足を伸ばし、最長趾は第2趾である。手足の爪は伸びて爪垢が溜まっているが形態に変わりが無い。
 尚本例にも身体に絹製の着衣がある。可なり損じてはいるが、唐代土偶の女俑の服装に似ている。そして顔面は非常に美事なる錦の布片で覆われている。この錦裂は別に取り離してミイラ室中に陳列して在るが、ササニアン(ササン朝ペルシャ)式模様を織り出した非常に見事な裂れである
 一般にこのミイラ着衣は種々の点に於いて我国の法隆寺及び正倉院に保存されている古裂れ類と強い類似を示している。それでこの裂類と中央アジア敦煌発見裂れ類とに就いては更に特別な研究を行って報告する必要がある。
 元来ミイラの形成には二種類ある。第一は人為的にミイラを造ったもので古代エジプト人が其の最も著明なものである。即ち古代エジプトの宗教であは輪廻を信じて、死者は必ず後日生き返るものとして死体をミイラとして保存した。そして死体をミイラにする技術は僧侶の司る所であって、一定の手術を屍体に対して行った。第二種は偶発的に生ずるミイラであって乾燥する土地に屍体が置かれる時に、筋肉皮膚等の軟部が腐敗するに先立って、乾燥硬化するのである。
 この第二種のミイラは条件さえ具わった場合には日本内地にでも発生する。例えば冬季に死んだ鼠の屍体が屋根裏に於いて乾燥してミイラとなるが、夏季に腐敗してしまうのは其の例である。然し人間の如き大型の屍体は湿気の多い日本内地などでは中々乾燥せずに腐敗してしまう。土地が非常に乾燥している地に於いてのみ、例外的に人体のミイラが偶然的に出来上がる。
 斯かる土地として有名なのが南米の秘魯(・・・)と中央アジアとである。降雨のほとんど無く、且つ流砂万里連なって温度の頗る高い中央アジアには千年の久しきに、わたって布片やら紙が保存される。千年以上を経たる高昌国人の屍体がミイラとなって保存されたのは全くこの特殊事情がある為である。人工的に高昌国人の屍体を保存す可く試みたる形式は毫もない。唯中央アジアの大自然がこの稀有なるミイラを造ったのであって、当時の風俗習慣等を徴べき幾多の遺物はミイラと共に保存され、学界に貴重なる研究資料を給したのに他ならぬ。
附 記
 朝鮮京城に於ける総督府博物館にも二体のミイラがある。やはり大谷光瑞等が将来した高昌国ミイラであるが、著しく不完全で体と頭とは離れており、体部も又散乱し寄せ集められたものである。
それでこの二体は頭部のみを計測して第10号及び第11号として付録の計測表に加えた。そして10号及び11号の頭部所見のみは左に記しておく。
 最も第10号及び第11号の外に2個の頭蓋骨が朝鮮総督府博物館に保管されてあった。この中の一個は頭部に僅かに乾燥した皮膚を附着している。顔面の一部は破損しているが高昌国人たる事が疑いない。この外の一個の頭蓋骨はやはり高昌国から発見されたものだと言うが、白色に晒されてあって後世の物かも知れない。頭形も異なっている様である。この頭蓋骨は橘氏報告(人類学雑誌第30巻第6号第229頁及び230頁)のウイグル古文書と一所に出たものらしい。兎に角頭形といい、晒され工合といい、よほど高昌国人と異なっている。ウイグル人の体質がよく分からない今日に於いて、この一個の頭蓋骨の研究は大変興味がある。然し之は址に述べざる事とする。いずれにしてもウイグル人がトルファンを占領したのは宋時代であって、高昌国滅亡以後のことである。
第10号 女性
 頭長幅示数は7,75センチで中頭であるが、頭高は低い方である。顔は割合に高いので形態的顔示数は9,77センチで大きい。顔は楕円形である。眼を閉じ口を半ば開いている。鼻は低くして顴骨は額位をとること強く、鼻根部は扁平である。前頭部の頭髪は一部剃っているが、其の他の頭髪は顎頂で結んでいる。上下歯弓は抛物線状で、用粍1〜2度、歯列は整然としているが、歯頚部黒くして僅かの歯石が附着する。智歯は右上顎には不生であるが、他の部分は生えている。年齢は壮年であり、鋏状咬合である。
第11号 女性
 第10号同様頭のみである。頭長幅示数は8,72で広頭ある。下顎が半ば取れているので顔高不明である。眼は閉じ口は半開である。頭髪多くして眉毛は甚だ明らかで、三日月形をなし、長くして幅が狭い。鼻根部は扁平で広く、鼻も低い。全部の膨満が割合に強い。咬合は鉗子状で歯牙咬粍は1〜2度、年齢は壮年である。この例の特徴は後頭の著しく扁平な事と、又顔が不正四角形で、他例と著しく趣を異にする事である。
2004・5・2

次回は・・付 録  高昌国人骨の計測  清野謙次・金高勘次
5月中旬に掲載予定です。
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