HOME

 

  牛窪考増補改訂版の概要

 

A5判縦書404P

 

目次

 

本書の内容

 

電子書籍版1,944円(税込) 電子書籍版購入頁

 

目次

 

はしがき 11

 第一章 牛久保の地名由来譚と牧野氏 22

 第二章 古名・常寒 22

 第三章 若宮殿建立と常荒 23

 第四章 牧野氏の出自 24

 第五章 牛窪と八尻 25

 (拾遺一) 「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」 26

   「うなごうじ祭」は「蛆虫祭」ではない(26) 豊川流域の「笹踊」と朝鮮通信使(28 「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と寶永の大地震(28

  (補遺一)「うなごうじ祭」名称考 29

    平田派国学者・羽田野敬雄の牛久保観(29

     反骨を貫く若宮殿の縁起(30) 国学の核心は中華思想にあり(31) わが国本来の神祭とは乖離した国学思想(32) 上若の唄う「梅ヶ枝節」も異国起源(32) 遠州灘近海にも多くの外国船が航行(33

    田中緑紅主宰『ク土趣味』の功罪(33

     地面に寝転ぶ姿態からの連想には疑問(34) 稻垣豆人著『三河引馬神社の奇祭』の本当の著作者は誰か(36 引馬天王社の「出し豆腐」(37) 稻垣豆人が「出し豆腐」以上に興味を示した「七福神踊」(38 『牛久保私談』『東三河に於ける御神事笹踊』等の地元近時代資料の検討(39

    大正一〇年の「若葉祭」(41

     『下中祭礼青年記録集』が記す「祭礼紛擾の件」(41 「祭礼紛擾の件」が緑紅に与えた影響(41

    「うなごうじ祭」という通称についての仮説(45

     梅村則義著『奇祭 牛久保のうなごうじまつり』の「虫封じ説」の検証(45) 卯月八日の「紙下げ虫」と『救民妙藥』の「小兒舌胎」(48)『牛窪密談記』等に見る「若葉祭」の由来(50 縄文に由来する灰塚野の祭りが「うなごうじ」の語源(51 「うなひ髪」由来は疑問(53

  (補遺二)豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察 55

    豊川流域に分布する「笹踊」の概要 55

      「笹踊」に関する先行研究の概略(55

      「笹踊歌」をテーマとする研究の限界(58) 間宮照子著『三河の笹踊り』の功績(63

     豊川流域の「笹踊」の分布と天王社(64

      間宮照子著『三河の笹踊り』収録以外の社で「笹踊」を行っていた可能性(64) 天王信仰と「笹踊」発祥の直接の関係は疑問(67

      「笹踊」の所作及び囃子方他(69

      「笹踊」の特徴及び「笹踊」と呼べる芸能の範疇(69) 豊川流域の「笹踊」の類型(72) 囃子方の役割等及び過去においての踊り手の選考(73

      「笹踊」の起源に関する諸説の検討(74

    豊川流域の各社に奉納される「笹踊」の個別検討 79

     吉田神社(80) 牛久保八幡社(82) 三谷八剱神社(83) 新城富永神社(84) 豊川進雄神社(85) 御馬引馬神社(88) 菟足神社(90) 当古進雄神社(91) 大木進雄神社(92) 上千両神社(93) 富岡天王社(94) 式内石座神社(95) 上長山(白鳥・素盞嗚・若宮)(98) 豊津神社(100) 伊奈若宮八幡社(100) 老津神社(101) 大村八所神社(102) 石原石座神社(102) 各笹踊の具体的起源と伝播(104

  (補遺三)「隠れ太鼓」考 110

      「隠れ太鼓」が奉納される祭礼(110 「隠れ太鼓」とは(110 「三つ車」の詳細と「若葉祭」の大山車の役割等(115

    『帝都物語外伝 機関童子』に見る「若葉祭」の「隠れ太鼓」(117

     機関童子と「駱駝の葬禮」(121) 歌舞伎の「人形振り」と「若葉祭」の「隠れ太鼓」(124

    「若葉祭」の「隠れ太鼓」と尾張の山車からくり(127

     東三河の山車からくりと三谷祭の山車の概略(127) 東照宮祭に始まる尾張山車からくり(132) 「若葉祭」の「隠れ太鼓」は、山車からくりの「人形振り」か(134

    豊川下流域の大山車と尾張型山車(137

     山車と屋台はどう違う(137) 尾張型山車の分類と伝播(160) 昼間から提灯を飾る東三河の囃子車と遠州の屋台(169 尾張の「大山」及び「車楽」と豊川下流域の大山車(174

    豊川下流域の大山車の起源とその亜型 178

     「若葉祭」大山車の「再興」が意味するもの(178) 小坂井の大山車は西若組の旧車(182 「豊川庄屋文書」に載る山車は大山車ではない(187) 吉田祇園祭の車樂と「隠れ太鼓」(189) 三谷祭の山車の原型は「若葉祭」にあった(197

    化政期の寄席芸能が「隠れ太鼓」に与えた影響(208

     豊川流域の「笹踊」と豊川下流域の大山車の祭礼における位置付け(208 「若葉祭」の「隠れ太鼓」が「人形振り」になったのは大山車再興の際か(216 コレラの流行と張子の虎、首振り人形の起源も文政期(220 「隠れ太鼓」の起源の検討(222

 (拾遺二) 牛久保と山本勘助 224

   勘助は実在したか(224 『牛久保古城図』の描く山本勘助養家・大林勘左ヱ門屋敷(226) 遺髪塚は養父・大林勘左衞門の屋敷に建てられた(227

 (拾遺三) 『牛久保古城図』考 230

   聖圓寺はいつ廃寺になったか(230) 善光庵の建立時期と移転再建(231) 光輝庵が牛久保に移転したのはいつか(231) 養樹寺の創建はいつか(232) 大聖寺の移転と牛久保城築城の関わり(233) 淨福寺の移転と西三河の一向一揆(233) 長谷寺の再建と移転時期(234) 上善寺と載る矛盾(234) 東勝寺を載せる矛盾(235) 了圓寺が古城図に見えない理由(236) 榊原澁右衞門の出奔と法信寺の建立(237) 庚申寺の建立、及び『牛久保古城図』の作成経緯(239

 (拾遺四) 善光庵の創建と再建 240

   善光庵の創建と善光寺如来 240

    古記に見える善光寺如来の由来(240) 善光寺如来が上善寺に安置された経緯(241) 善光寺池と善光寺川(242

   善光庵の再建者・潮音道海と「大成經弾圧事件」 242

    『大成經』とは(243) 潮音道海と『大成經』(243) 長野采女と京極内藏之助(245 「伊雑宮事件」(246) 忌部澹齋と『大成經』(247) 長野采女と廣田丹斎(忌部澹齋)(249) 高野本と山鹿素行(250) 高野本と鷦鷯本の関係(251) その後の潮音道海(252

 (拾遺五) 検証 東三河の徐福伝説 255

    山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』が独り歩きした小坂井の徐福伝説(255

     徐福伝説とは――伝説の定義を中心に(258 徐福と始皇帝――徐福の姓・始皇帝の姓(260 徐福の子孫が秦氏を名乗るのか――徐福伝説成立の下地(261 秦氏と徐福――弓月君と百濟の国姓(262

    菟足神社の徐福伝説説明板を検証する(265

     日色野と秦氏――淵源は銅鐸埋納地を秦氏関連とする大口喜六か(266 『牛窪記』等に載る徐氏古座侍郎――長山熊野権現神主・神保氏の本姓は惟宗(271 菟足神社を創設したという秦石勝について――姓氏家系の大家・太田亮氏の著作から(276 生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事(279

    山本紀綱に小坂井の徐福伝説を紹介した近藤信彦と渥美郡の幡多ク(286

     橋本山龍運寺と船町文庫――大口喜六、近藤信彦は、幡太ク比定地の住人(287 羽田八幡宮と幡太ク――近藤信彦と羽田野敬雄(289 蓬?島と築嶋弁天社――山田宗偏により秦御厨に造園された蓬?島(290 御衣祭と上佐脇の八社八苗字――『大神宮諸雜事記』と日下部姓波多野氏(292

  (補遺)非農耕民はなぜ秦氏の裔を称するのか 296

    非農耕民と秦氏――東三河を中心に(296

     彈左衞門家と渥美郡出身の車善七――側近を三河出身者で固めた家康(297 彈左衞門と伊奈本多家――臨川山本龍寺の開基を巡って(299 牧野氏と鶴姫伝説――信長の世に廃寺となった豐川村東光寺(300 車善七の敗訴と大岡忠相――豐川村矢作と彈左衞門(305 牛頭天王の本地と播磨、そして秦氏――祇園感神院及『野馬臺詩』が記す日本の国姓(308

    ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者(313

     ひょうすべと椀貸伝説――三河大伴を例にして(314 ひょうすべと三島神――三島神が降臨した攝津三島江と上宮天満宮(317 三島神と鳶澤甚内――火明命を中心とした海人の世界(321

  附録一 相撲雑話 328

    序 『穂国幻史考』における野見宿禰論 328

    第一章 節會時代の相撲 339

    第二章 神事から見た相撲 343

    第三章 吉田追風家と弓術吉田流 352

    終章 私と相撲、そして弓 358

  附録二 三州吉田の怪猫騒動 361

    はじめに 361

    吉田城沿革 363

    天球院の怪猫退治 366

    結びにかえて 369

  附録三 県道三一号線物語――古代から現代まで  369

    鎌倉街道と県道三一号東三河環状線 369

    東三河平野部の古代の地名と交通路 373

    律令時代における東三河平野部の官道と鎌倉街道 377

あとがき 391

主要参考文献 401

 

本書の内容

 

 第一章から第五章(「牛久保の地名由来譚と牧野氏」、「古名・常寒」、「若宮殿建立と常荒」、「牧野氏の出自」及び「牛窪と八尻」)は、牛窪という地名と、それ以前のトコサブという地名から、牛窪という地域の概要を説き起こしたものです。いずれの地名も縄文系の地名で、牛久保八幡社の実際の祭神も國津神であったと考えられます。

 本書タイトルを『牛久保考』ではなく、『牛窪考』としたのは、寶飯郡時代の牛久保町の大字牛久保は、北は現在の金屋西町、金屋橋町、諏訪町、代田町に及ぶ広い地域であり、現在の豊川市牛久保町とは比にならないくらい広い地域だったからです。

 

 次に拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」及びその補遺(「「うなごうじ祭」名称考」、「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」及び「「隠れ太鼓」考」)は、牛久保八幡社の祭礼「若葉祭」についての論考です。

 俗称「うなごうじ祭」は、蛆虫との説は全く根拠のない妄説であり、その淵源は羽田野敬雄(一七九八〜一八八二)にあったと思われます。

 また「笹踊」の囃子方が寝転ぶ姿は、戦国時代に牧野氏が城に招き、酒を振る舞った帰路を再現したものといわれますが、戦国時代に不特定多数の者を城に招けば、間者が入る確率が高く、牧野氏は戦国の世を生き抜くことなど叶わぬことでした。寶永の大地震の際、当時吉田藩を治めていた牧野氏が故地・牛久保にも地震見舞の酒を振る舞ったことを、越権行為ゆえ、過去のこととしたに過ぎません。

 次に「若葉祭」を始め、豊川下流域で奉納される「笹踊」は、唐子衣装を着て、笠を冠った三人の踊り手が胸に太鼓を着けて踊るという点のみが共通点で、踊りの振りについては千差万別。とても一ヶ所から伝播したものとは思われず、江戸時代、何度も招聘されていた朝鮮通信使の影響と考えられます。平板で発音される「ささおどり」という名称は、三人戯を意味する韓国・朝鮮語の「ses saram nori」が訛ったものと考えられます。

 次に「隠れ太鼓」については、中世の鞨鼓稚児舞の伴奏に過ぎなかった太鼓の打ち手が唐子衣装に笠を冠ったことから、独立した芸能になったことを起源とするものと私は考えます。その「隠れ太鼓」が演ぜられる大山車は中世の車樂の系譜を引くものです。

 また「神兒」についても、男児が巫女の格好をして舞う祭礼は、「若葉祭」のみならず、豊橋の鬼祭り、三谷祭など、東三河平野部では、ごくごくポピュラーなものです。加えて神幸に随伴する獅子頭も「若葉祭」に限ったものではなく、上記の豊橋の鬼祭り、三谷祭を始め、豊川下流域では比較的ポピュラーなものです。この獅子頭については、拾遺五で検証してありますが、猪犠を起源とするもので、巫女の格好をした男児も、鹿を供犠とする諏訪大社の「おこう」に類似したものだったと思われます。

 

 拾遺二「牛久保と山本勘助」は、戦国の世、武田信玄の家臣であった牛久保ゆかりの山本勘助についての論考です。一時は実在しない人物とまでいわれた勘助ですが、山鹿流の軍学者・松浦(しげ)(のぶ)(一六二二〜一七〇三)が書いた『武功雜記』が勘助の実在を否定しないことから、実在説が証明されます。松浦鎭信は牛久保の牧野康成(一五五五〜一六一〇)の外孫になるからです。

 また(ちょう)(こく)()(豊川市牛久保町八幡口)には勘助の遺髪塚がありますが、勘助が亡くなった当時、長谷寺は現在の牛久保駅前にありました。遺髪塚は、勘助養家の大林家が勘助元服の折に保管していた総角を屋敷に埋めたのが起源と思われます。

 

 拾遺三「『牛久保古城図』考」は、拾遺二の勘助遺髪塚は養家の大林家の屋敷に埋められた総角が起源との私の説を証明するために光輝庵(豊川市光輝町二丁目)が所蔵する牛久保城下の町割を描いた古地図の信憑性を検証したものです。

 まず古地図に掲載された寺院をその縁起等から検証して行きました。

 結果、地図自体は、江戸時代になってから描かれたと思われますが、地図に描かれた屋敷に榊原澁右衞門、眞木又次郎の名が見えることから、永祿八(一五六五)年から永祿一二(一五六九)年の牛久保の町割りを描いたものと推定されます。

 

 拾遺四「善光庵の創建と再建」は、光輝庵所蔵の古地図に描かれている善光庵についての論考です。この善光庵は、武田信玄(一五二一〜一五七三)により牛久保が焼かれたときに焼失し、江戸時代になって再建されました。

 前半では、『牛窪記』の「善光寺池寶譽和尚結縁阿彌陀與助事」の善光寺如来と善光庵との関係を、後半では再建者の潮音道海について採り上げました。一般に潮音道海は『大成經』の偽作者といわれますが、偽作に最も関与していたのは、山鹿素行(一六二二〜一六八五)。また善光庵の再建には、牧野成貞(一六三五〜一七一二)が関わっていたと思われます。

 山鹿素行が関与する以前の『大成經』の原本は、土師氏=出雲臣の伝承が多く含まれていたと思われます。

 

 拾遺五「検証 東三河の徐福伝説」は、四半世紀前に突如として顕れた、まるで都市伝説のような、小坂井の徐福伝説の成立過程を検証したものです。ありもしない徐福伝説が流布した一番の責任は、菟足神社に説明版を設置した当時の小坂井町教育委員会にあります。

 そもそも徐福の子孫が、自国を滅ぼした秦を名乗ることなどあり得ません。東三河の羽田野、波多野氏などの秦氏関連といわれる氏族は秀ク後裔で、実際には土師氏とも近い関係にある日下部姓になります。

 長山熊野権現の徐氏古座侍郎の話は、長山熊野権現の神主で本姓唯宗の神保氏が、一七世紀末ごろに創作したものと考えられます。

 また幡多の地名は渥美郡にあり、羽田村が有力とされていますが、羽田野敬雄辺りが痕跡を消し去ったと思われます。

 

 拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を称するのか」の前半では、秦氏を出自に持つともいわれる彈左衞門家についての論考です。側近を三河出身者で固めた家康。非人頭の車善七や品川の非人頭の松右衞門も三河出身。一人・彈左衞門のみが、鎌倉由比ヶ濱の出身というのも、妙なものです。しかも初代の存在さえも疑わしく、江戸時代以前に関東にいた痕跡すらありません。

 また関八州及びそれに隣接する地域のみならず、遠く離れた東三河の設樂郡の一部を支配地とするのもおかしな話です。

 豐川村には、信長の時代に廃寺になった東光寺がありました。この東光寺の信者が牧野氏に従い武田との最前線に行き、さらに家康の関東移封に伴い、関東に進出したのが彈左衞門家と考えられます。また江戸時代の寺格が高くもない妙嚴寺が豊川稲荷として全国区になるのも大岡忠相(一六七七〜一七五二)らとともに、彈左衞門の故地隠蔽に尽力したことが大きいと思われます。そして被差別を考える上では、白山権現や東光寺以上に牛頭天王が重要である旨も指摘しました。

 後半は、秦氏とともに渡って来たといわれる兵主神の眷属で河童のルーツの一つでもある「ひょうずべ」についての論考です。

 河童は相撲好きといわれ、本姓大枝の毛利氏が神主だった肥前の潮見神社では、「ヒョウスヘは約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原」との水難防止の呪文を伝えます。大枝氏、菅原氏ともに相撲の祖・野見宿禰の後裔になります。

 ただ潮見神社の祭神は橘氏ですが、橘公業は伊豫橘氏ともいわれ、伊豫橘氏と関係が深い大山祇神(伊豫橘氏の本姓越智氏が奉じる)が降臨したという攝津國三島には、三島鴨神社(高槻市三島江)が鎮座し、近くには、野見宿禰の墓所と伝えられる地に建立された上宮天満宮(高槻市天神町)があります。

 大山祇神の娘の姉妹婚姻譚は野見宿禰とも関係が深い丹波五姫の姉妹婚姻譚と通じるものがあります。また三島神の東漸が砥鹿神とも関係していることは『穂国幻史考』の第一話「『記紀』の成立と封印された穂国の実像」拾遺一「砥鹿神社考」第三章「彦狭島の東遷と日下部氏」の第四節「三島神の東遷と砥鹿神社」で指摘してあります。

 さらには、木地師の椀貸伝説と河童伝説の共通点から、葬送関わっていた古着屋の話、さらには、兵主神とも関係する神農を祀る香具師の話から、火明命と、『穂国幻史考』の第一話での検証と同一線上の話を展開しました。

 

 附録一「相撲雑話」でも、拾遺五補遺の後半と同様に、野見宿禰の考察から始めました。

 『日本書紀』の編纂には、漢字に通じていた百濟人が、関与しておりました。野見という氏名は、韓国・朝鮮語で「奴の」の意の「nom-wi」に由来するものと考えられます。「記紀」の崇神――垂仁條での出雲の話は、元出雲ともいわれる丹波一宮・出雲大神宮を中心とする丹波での出来事というのが、『穂国幻史考』以来の私の考えですが、野見宿禰は出雲神寶献上事件で神寶の献上を拒否し、誅殺された出雲振根の後裔で、奴隷に落とされていたと考えられます。ゆえに殉死をやめ、埴輪を作ることを提言したと思われます。

 そして丹波地方を中心とした地域に伝わる神事相撲の考察から民俗としての相撲を考察し、さらに江戸の興行相撲に多大な影響を与えた相撲司の吉田追風家の実態をあぶり出し、弓術吉田流の吉田家との関係に言及しました。

 

 そして附録二「三州吉田の怪猫騒動」は、寛保二(一七四二)年に会津の浪人・()(さか)()(ろう)()(もん)春編(はるよし)(一七〇四〜一七六五)が選した奇譚集『(ろう)()()()』卷之三「女大力」に載る池田照政(一五六五〜一六一三)の妹・天球院の怪猫退治についての論考です。

 『老嫗茶話』は、照政が吉田城主だったころの話としていますが、残念ながら吉田城での出来事ではありませんでした。

 吉田城の歴史は、一色城(豊川市牛久保町岸組)の牧野成時(?〜一五〇六)が城を築いたことに始まります。桶狭間の戦い(一五六〇年)までは牛久保の出城のようなものでした。そんなことから、本書に収めました。

 

 最後の附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」は、彈左衞門の故地・豐川村矢作を横切る京鎌倉往還を中世三大紀行文から、その行程を推測するとともに、律令時代、さらには、現在の県道三一号線も同様のルートに近いものであることを検証したものです。

 京鎌倉往還では、宮路山中を進んでいますが、これは軍用道路の側面からと思われます。持統三河行幸は、東三河の制圧を目的としたものでしたが、宮路山に陣を敷き、持統軍を迎え討ち、持統の目論見をみごとに砕きました。宮路山中を通ることにより、これを避けることが出来ます。ゆえに京鎌倉往還は宮路山中をルートに組み入れたと考えられます。

 なお律令時代の官道は、実用性はなく、無用の長物であり、完成間もなくから荒廃しました。結局古代からの生活道路が多くの人々の足となりました。

 

 以上が本書に収録した各論での主張です。

 

 本書は、タイトルのとおり『牛窪考(増補改訂版)』の概要です。『牛窪考(増補改訂版)』を二割以下に圧縮してあります。当然、論証等は省いてあります。興味を持った方は『牛窪考(増補版)』あるいは『牛窪考(増補改訂版)』を手に取ってください。

 

牛窪考増補改訂版の概要 著者・柴田晴廣