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   穂国幻史考の概要

 

A5判縦書197P

 

目次

 

本書の内容

 

電子書籍版1,944円(税込) 電子書籍版購入頁

 

目次

 

はしがき 9

第一話 『記紀』の成立と封印された穂国の実像 13

 序 穂国とは 15

 第一章 『記紀』の成立過程と穂国 18

  第一節 『記紀』の編纂はいつ始められたか 18

  第二節 皇祖神アマテラスの創造と伊勢神宮の創立 26

  第三節 アマテラスの誕生と持統三河行幸 31

 第二章 穂別の祖・朝廷別王は、悲劇の皇子・ホムツワケノミコトだ 36

  第一節 『記紀』開化条の系図を復元する 36

  第二節 穂別の祖・朝廷別王と日下部氏 41

  第三節 朝廷別王と穂国 49

 第三章 彷徨うアマテラス 50

  第一節 ヤマトヒメの巡幸 50

  第二節 穂国とヤマトヒメ(かぐや姫をめぐって) 51

  第三節 虚構のアマテラスと『書紀』の斎王 55

 第四章 虚構の万世一系と持統の生い立ち 60

  第一節 易姓革命から逃れるために姓を棄てた持統 60

  第二節 『書紀』の著述はなぜ雄略紀から始められたか 62

  第三節 天智の出自を隠すために編纂された『書紀』 63

 終章 穂国造・菟上足尼と丹波道主王の末裔たち 65

(拾遺一) 砥鹿神社考 71

  第一章 神主・草鹿砥家 71

   第一節 縁起と草鹿砥氏 71

   第二節 草鹿砥と日下部 72

   第三節 草部明神と饌川水神旧社地 73

  第二章 社家・戸賀里氏 75

   第一節 穂国造と戸賀里氏 75

   第二節 戸賀里名称考 75

   第三節 穂国造と蚕影神 78

   第四節 蚕影神とかぐや姫 79

  第三章 彦狭島の東遷と日下部氏 81

   第一節 日下部氏と日本武尊の系譜 81

   第二節 大碓命と美濃国造 82

   第三節 虚構の日本武尊東征 83

   第四節 三島神の東遷と砥鹿神社 84

  終章 砥鹿神社旧社地考 88

  (拾遺一補遺) 菅江真澄とアラハバキ 90

    第一章 真澄の出身地 90

    第二章 穂国のアラハバキ社 92

    第三章 薬師如来・白山権現とアラハバキ 94

    第四章 朝熊山の桜大刀神 95

 (拾遺二) 丹波伝承考 100

  第一章 丹波の間人伝承 100

   第一節 丹波と穂国 100

   第二節 間人と土師 101

   第三節 厩戸皇子の祖母・小姉の正体 103

  第二章 守屋と馬子 109

   第一節 勝海殺害 109

   第二節 崇仏・排仏 109

   第三節 三輪君逆の殺害 111

   第四節 押坂彦人皇子 112

  第三章 穴穂部殺害事件考 115

   第一節 麻呂子伝説 115

   第二節 宣化の皇女たち 117

   第三節 日祀と推古 118

  終章 東漢直駒 120

 (拾遺三) 天武の命日をめぐって 124

  第一章 吉野の盟約 124

  第二章 川嶋皇子考 124

  第三章 天武と草薙の剣 127

 (拾遺四) 人麻呂考−−元明即位をめぐって133

第二話 登美那賀伝説 139

 第一章 野田城主富永氏 140

  第一節 首無の冨永 140

  第二節 夭逝千若丸 141

  第三節 石座神社と富永氏 144

 第二章 神武東征考 146

  第一節 神武東征の出発地は対馬だ 146

  第二節 大和の攻防 149

  第三節 磯城県主家系図を復元する 151

  第四節 大田田根子は磯城県主だ 152

 第三章 三河大伴考 155

  第一節 大伴直と倭宿祢 155

  第二節 三河大伴直と石座神社 157

  第三節 安日伝承の原像 159

 (拾遺) 富永系図と木地師 162

   海倉淵の椀貸伝説 162

   惟喬伝説と六歌仙 163

第三話 牛窪考 168

 第一章 牛久保の地名由来譚と牧野氏 169

 第二章 古名・常寒 169

 第三章 若宮殿建立と常荒 170

 第四章 牧野氏の出自 171

 終章 牛窪と八尻 172

 (拾遺一) うなごうじ祭の起源と豊川流域の笹踊 173

 (拾遺二) 牛久保と山本勘助 175

あとがき 180

主要参考文献 195

 

 

本書の内容

 

 第一話「『記紀』の成立と封印された穂国の実像」の序から終章は、東三河の文献初出、『古事記』開化條に記載される三川の()(わけ)の祖・朝廷別王を軸に、東三河が最初に正史に登場する持統三河行幸を絡めた論考です。

 『日本書紀』は、一般に天武が編纂を始めたといわれていますが、実は持統の時代に始められており、それも卷一から順に編纂されたものでもありません。

 皇祖神アマテラスが創造されるのは、持統三河行幸の後のことです。

 そもそもアマテラスを容れる器が出来上がったのは、七世紀末のことです。

 その持統三河行幸は、東三河の制圧を目的にしたものでしたが、持統の目論見は見事に外れ、帰還後まもなく持統は病に臥せ、亡くなります。

 『日本書紀』の編纂は三十年ほどかかっていますが、これは母系で伝えられていた本来の伝承を男系に書き直し、万世一系という虚構の世界の創造に時間と労力を費やしたからです。

 そして、「記紀」の崇神――垂仁の出雲の出来事は、実際には、丹波の出来事であり、朝廷別王は、ホムツワケノミコトのことだと考えられます。

 上記のように、アマテラスを容れる器が完成したのが七世紀末。ゆえに、『日本書紀』に記載される斎王など、すべてが嘘。皇祖神アマテラスが想像される以前の太陽神は天火明命で、朝廷別王もこの系譜に連なるものです。

 また天孫降臨逸話には、持統から文武への権力移譲が投影されているといいますが、『竹取物語』の舞台も文武の時代です。そして垂仁の妃には、かぐやひめの名が記されています。

 「記紀」が母系ではなく、男系を重視するのは、儒教の思想によるものですが、この思想には、皇帝が徳を失なったとき、天は徳がある一族(「有徳者王」)を皇帝に命じ(「天命思想」)、その姓を()え、「天命を革める」という「易姓革命」という考え方があります。『隋書(ずいしょ)』卷八一列傳四六東夷の倭()(こく)條に、「倭王姓阿毎字多利思比孤 號阿輩鶏彌」と見え、倭王には阿毎という姓があった旨が載っています。持統は「易姓革命」から逃れるため、姓を棄てたと考えられます。

 また持統と元明は、男系でいえば天智の娘になりますが、その天智はどこの馬の骨とも分からない韓半島に出自を持つ者です。『日本書紀』は、それを隠蔽するためのものだったのです。ただ、持統も元明も、母方の祖父を天智に殺されています。そうした複雑な心境も、『日本書紀』から読み取ることが出来ます。実際の持統及び元明の即位の正当性の根拠は、倭王阿毎=蘇我氏の血を引くことです。

 朝廷別王に話を戻せば、穗別の別とは、後の國造等に与えられた姓です。「天孫本紀」には、朝廷別王系の穗國造が記載されていますが、「國造本紀」では、菟上足尼系に替わっています。菟足神社の祭神は、この菟上足尼ですが、その例祭「風祭」は、遷座の様子を現しているといいます。かつては荒々しいもので、あたかも攻め込んでいるように見えました。アイヌ語ウタリには、同朋の意味があります。そして菟足神社のある小坂井の北の、宿の氏神・多美河津天神は、祭神を朝廷別王とします。

 朝廷別王の父は、丹波道主王です。大江山の鬼・酒呑童子(天火明命の子・香具山命を祭神とする越後彌英彦山で生を受けたという)なども、この系譜に属するものと思われます。

 

 拾遺一は、三河一宮・砥鹿神社についての考察です。

 神主の草鹿砥氏は、日下部を日下戸と表記し、クサカドと訓ぜられ、草鹿砥の漢字を当てたといわれています。縁起では、大寶年間に下向した草鹿砥公宣を草鹿砥氏の祖としますが、正史には、草鹿砥の名は見えず、草鹿砥氏は、朝廷別王=ホムツワケの後裔と考えられます。「記紀」がホムツワケの伯父とするサホヒコは、日下部連の祖です。

 また、クサカベは、アイヌ語で解釈出来、縄文の流れを汲む名称と考えられます。

 社家のトガリ氏は、草鹿砥氏と同族と考えられ、トガリの地名やトガリを関する神社は、水辺にあり、トガリの名称は、アイヌ語で「舟で運ぶ・岸・川」の意味を持つ「kusakabet」と通底するものがあります。

 そのトガリ氏が多く住む穂の原の中心部には、蠶影神を祀る社が三つありますが、蠶影神の総本社ともいえるつくば市の蠶影山神社は、その縁起にかぐや姫の名が見えます。『竹取物語』の舞台となったのは、持統三河行幸があった文武の時代です。また、「記紀」が朝廷別王の姉妹を后妃にしたという垂仁の妃の一人は、迦具夜比賣(かぐやひめ)命です。

 『神社を中心としたる寶飯郡史』は、穗別が穗國へ入國した理由を,日本武尊東征に求めていますが、「記紀」におけるヤマトタケルの系譜は錯綜したものであり、とても信じられるものではありません。むしろ、ヤマトタケルの双子の兄・大確との関係が深いように思えます。

 そもそも、ヤマトタケルの東征自体が虚構に満ちたものであり、砥鹿神社は三島神の東漸と関係があるように思います。というのは、三島神を奉祭した越智氏の移住地には砥鹿を冠する神社があること、また朝廷別王の姉妹には、姉妹婚姻譚がありますが、三島神=大山祇神の娘も天孫ニニギとの間で姉妹婚姻譚が語られるからです。

 

 補遺は、東三河出身の菅江眞澄についての考察です。

 眞澄自身が語っているように、眞澄は吉田宿札木の植田義方に手習いを受け、牛窪村の喜八を父母の住む近隣の者としています。

 また久保田藩士が書いた『伊頭園茶話』には、「三河國熱海郡雲母莊入文村白井氏某之二男菅井眞澄」とあります。

 いずれも、近隣に白山権現を祀る集落があります。

 眞澄は本名・白井栄二。白井と白山権現ということになれば、『千郷村誌』に載る徳定の地に白井姓の人が住み、白山権現が祀られています。さらに、この徳定の白井姓の氏神・熊野権現には、アラハバキ社が勧請されています。眞澄自身も、東北のアラハバキ神について、砥鹿神社のアラハバキ神との関係に言及しています。アラハバキというと東北をイメージしますが、東三河には五社のアラハバキ神を祀る社があります。

 砥鹿のアラハバキ社は、元々祠はなく、神木を神体としていました。

 白山権現の本地は十一面観音ですが、アマテラスの本地も当初は十一面観音でした。そのアマテラスを容れる器である伊勢神宮創建以前は、みあれ木が神体であり、それを掬い上げるのが潜り姫=白山の女神・菊理媛でした。

 そして、伊勢の奥宮といえる朝熊山には、櫻宮が鎮座していました。櫻は「記紀」ではハハカ木の名で語られます。アラハバキも、みあれ木である櫻樹に基づくものではないかと思います。

 加えて置けば、サクラという音には、韓国・朝鮮語で鎮魂の意味があり、櫻地名とセットの笠地名は瘡の意だと思います。

 

 朝廷別王の父は、丹波道主王。拾遺二は、その丹波の伝承についての話です。

 その伝承は、後に聖コ太子といわれる厩戸の母・間人穴穗部が、丹後(当時は丹波)に逃げて来たと。

 厩戸の時代といえば、物部と蘇我氏の争いがありました。一般には排仏派と崇仏派の争いといわれますが、そんな単純なものではなく、次の天皇を誰にするかの指名権をもっていた推古を巡っての争いであったと思われます。その推古の母は、蘇我氏の娘といわれますが、実際には、宣化の血を引き、蘇我氏は、この宣化の血を引く娘を引き取ることにより、天火明命の系譜に連なったと考えられます。間人穴穗部は、この争いを避けるために丹波に逃れたという伝承が生まれたと考えられます。

 そして、物部と蘇我氏の争いの中で、守屋殺害の謀略を知っていたのが、東漢直駒であり、東漢直駒は、口封じのために、稻目に殺されたと考えます。

 

 拾遺三は、その幼名から、海人=阿毎氏と関係が深い、天武の死因の疑問を検証するものです。

 最初の不思議は、吉野の盟約といわれるものです。

 盟約の場に集まった中には、天智の子も含まれているにもかかわらず、『日本書紀』は、天武の息子・草壁が「われら兄弟」だの、天武が「我が子供たち」だのわけのわからぬことを記述している点です。

 もっとも、天智の息子の二人のうちの川嶋は、海人に連なる系譜に属すると思いますし、芝基は天武の娘婿になります。

 川嶋は、天武が亡くなった五年後の、天武の命日九月九日に亡くなっています。川嶋の甥の弓削皇子は、文武の即位に反対しています。川嶋も、『日本書紀』の編纂を始めた持統の方針に異議があり、抗議の自殺などをしたのではないかと思います。

 その天武の死因ですが、『日本書紀』は草薙の剣の祟りだと記します。ところが、天武は発病した後も、宴を催していますし、占いで草薙の剣の祟りだと出て、草薙の剣をその日のうちに熱田へ送ったというのに、亡くなっています。草薙の剣の祟りは怪しいものです。そもそも天武は、天火明命の血を引く海人に出自を持ちます。熱田神を奉る尾張氏もこの同族です。草薙の剣の元々の名は天叢雲剣ですが、天火明命の孫に天村雲命の名も見えます。こうした天武にゆかりの草薙の剣が、天武に祟るというのも妙な話です。祟るならむしろ天智でしょう。

 熱田神宮の八剣社には、元明が平城京の造営祈願のため、天武の命日に、剣を奉納しています。元明は、草薙の剣及びその剣の正当な継承者・天武の祟りと感じたのではないかと思います。それを、「天武紀」という物語の中で、天智に祟るのではなく、天武に祟ると話をすり替えたのではないでしょうか。具体的な真相は分かりませんが、あり得る話です。

 

 拾遺四は、萬葉の大歌人・柿本人麻呂に関する論考です。

 梅原猛や作家の井沢元彦は、人麻呂は文武の即位に反対し、刑死したとの的外れな説を提示しています。何が的外れかといえば、人麻呂は、文武の即位後の文武四(七〇〇)年四月に死亡した明日香皇女の挽歌を詠んでいるからです。明日香皇女は、天武の息子・忍壁の妃です。現在でいえば、国葬に参列し、弔辞、それも挽歌ですから長い弔辞を述べたようなものです。死刑囚がそんなことを出来るわけがありません。

 梅原や井沢は、和銅元(七〇八)年を人麻呂が刑死した年だとしますが、その直近の出来事を『續日本紀』から拾って見ますと、景雲四(七〇七)年六月一五日の文武の死、それに伴う同年七月一七日の元明の即位が、最大の出来事として挙げられます。

 祖母から孫の皇位の継承は、「記紀」という虚構の世界で、持統により創作された「天壌無窮の神勅」により、担保されますが、子から母への皇位継承は、「天壌無窮の神勅」にも反するものです。

 子から母への即位(譲位)、こんなものがまかりとおれば、聖武からその母へという即位もあり得ることになります。聖武の母は、不比等の娘・宮子です。宮子は、皇女でもなく、男系を遡ってもニニギに辿り着くわけではありません。天武の息子・草壁に仕えていたといわれる人麻呂が一番許せなかったのは、天皇の母であれば、藤原氏の娘でも即位出来るという点だったのではないでしょうか。人麻呂は元明即位に反対した。このように考えるのが妥当だと思います。

 

 第二話は、母方祖父から聞いた話を検証したものです。

 母は豊川下流域の豊橋市長瀬町の出身です。旧姓は冨永。祖父の話は、この長瀬の冨永は、野田城主富永氏の後裔であり、お家を乗っ取られ、城主の近親者は首を刎ねられ、それを忘れないように、富から「ヽ」を取り「首なしの冨永」としたといいます。また冨永の名の由来は登美那賀須泥毘古の「登美那賀」にあり、野田館垣内城主になる以前は、式内石座神社の神主だったというものです。

 まず、「首なしの冨永」については、野田館垣内城を乗っ取った菅沼の菩提寺・宗堅寺に、菅沼の家老が富永の位牌と墓石を寄進していますが、その理由は菅沼の男児が夭逝するからというものです。つまり、富永の祟りにより菅沼の男児が夭逝するから、その鎮魂のために位牌と墓石を寄進したと考えられます。

 次に 富永の名の由来となった長髄彦は、三輪山付近の先住民であり、縄文の流れを汲む者であったと考えられます。長髄彦が登場する「記紀」の神武東征條は、河内湾ないし河内湖があった当時の地形に基づいているため、何らかの資料を基にして創作されたと思います。

 また『古事記』の記載等から神武は韓半島に出自を持つと考えられます。神武には天智が投影されているのでしょう。

 この三輪山付近の先住者として「記紀」は、磯城縣主を載せ、闕史八代の天皇は、この磯城縣主の娘を娶っています。実際には、女系で伝えられていた磯城縣主の系図を男系に直したものであり、闕史八代の天皇に血縁はなかったと思われます。

 大物主神の祭祀に携わった太田田根子は、この磯城縣主の系譜に属していました。大物主神は、海照しやって来た神といわれますから、天火明命と同様の神格を有します。

 三河富永氏の本姓は、倭宿禰を祖とする三河大伴直と考えられ、東三河の在廳官人と考えられます。この倭宿禰も天火明命の後裔です。 

 ヤマト朝廷の成立により、奈良盆地の先住者が、東三河に逃れて来たことは十分考えられることです。

 石座神社は、その名のとおり、神体は、背後の雁峯山にある磐坐です。三輪山も山そのものを神体としており、在廳官人の三河大伴直が、そうした古い形態の祭祀に関わっていた可能性は十分にあります。また石座神社の分社の祭神が天火明命です。石座神社と三河大伴直の関係を示していると思います。

 付け加えて置けば、長髄彦の兄・安日彦を祖とする「安日伝承」を伝える系図の中で、確認される最古の系図・『藤崎系図』が成立するのは、永正三(一五〇六)年、奇しくも野田館垣内城主・富永久兼の子・千若丸夭逝の翌年です。

 

 拾遺は、まず野田館垣内城の対岸の、海倉淵にまつわる椀貸伝説についての検証から始めました。

 椀賃伝説は、漂泊の木地師と常民の間の沈黙交易で、河童の駒曳き等とも通底するものです。河童は相撲が好きだといわれますが、相撲の祖といえば、野見宿禰です。野見宿禰は、朝廷別王の姉・ヒバスヒメの葬送の際、埴輪の製作を提言した人物です。

 木地師には、唯喬伝承がありますが、六歌仙が、唯喬派だったとの説があります。その中の一人・大伴黒主に焦点を当てて、三河大伴の関係について検証したものです。

 

 第三話「牛窪考」の第一章から終章は、牛窪という地名と、それ以前のトコサブという地名から、牛窪という地域の概要を説き起こしたものです。いずれの地名も縄文系の地名で、牛久保八幡社の実際の祭神も國津神であったと考えられます。

 本論のタイトルを『牛久保考』ではなく、『牛窪考』としたのは、寶飯郡時代の牛久保町の大字牛久保は、北は現在の金屋西町、金屋橋町、諏訪町、代田町に及ぶ広い地域であり、現在の豊川市牛久保町とは比較にならないくらい広い地域だったからです。

 

 次に、拾遺一は、牛久保八幡社の祭礼「若葉祭」についての論考です。

 俗称「うなごうじ祭」は蛆虫との説は、全く根拠のない妄説です。

 そもそも旧寶飯郡で、蛆虫をうなごうじという方言などなく、また「笹踊」の囃子方が寝転ぶのは「若葉祭」だけではないからです。

 その「笹踊」は、唐子衣装を着て、笠を冠った三人の踊り手が、胸に太鼓を着けて踊るという点のみが共通点で、踊りの振りについては千差万別。とても一ヶ所から伝播したものとは思えず、江戸時代、何度も招聘されていた朝鮮通信使の風俗の影響と考えられます。平板で発音される「ささおどり」という名称は、三人戯を意味する韓国・朝鮮語の「ses saram nori」が訛ったものと考えられます。

 また、「笹踊」の囃子方が寝転ぶ姿は、戦国時代に牧野氏が領民を城に招き、その振る舞い酒に酔った領民の帰路を再現したものといわれますが、戦国時代に不特定多数の者を城に招けば、間者が入る確率が高く、戦国の世を生き抜いた牧野氏がそんな馬鹿なことをするはずもありません。寶永の大地震の際、当時吉田藩を治めていた牧野氏が、先祖の故地・牛久保にも地震見舞の酒を振る舞ったことを、越権行為ゆえ、かつての領主を慮って、感謝の意を過去のこととして伝えたに過ぎません。

 

 拾遺二は、戦国の世、武田信玄の家臣であった牛久保ゆかりの山本勘助についての論考です。一時は実在しない人物とまでいわれた勘助ですが、山鹿流の軍学者・(まつ)()(しげ)(のぶ)(一六二二〜一七〇三)が書いた『武功雜記』は、勘助の実在を否定していません。その松浦鎭信は、牛久保の牧野康成(一五五五〜一六一〇)の外孫です。

 また、(ちょう)(こく)()(豊川市牛久保町八幡口)には、勘助の遺髪塚がありますが、勘助が亡くなった当時、長谷寺は現在の牛久保駅前にありました。遺髪塚は、勘助養家の大林家が、勘助元服の折に保管していた総角を、屋敷に埋めたのが起源と思われます。

 

 本書論はタイトルのとおり、拙著『穂国幻史考』の概要を説明したものです。『穂国幻史考』を三割弱に圧縮してあります。

 当然、論証などは省いてあります。興味を持った方は是非『穂国幻史考』をお手に取って下さい。 

穂国幻史考の概要 著者・柴田晴廣