追想の山々1001  up-date 2001.02.01

飯豊山(2128m) 登頂日1990.9.23 妻・長男 晴れ
前夜米沢市泊〓〓小国駅==タクシー==飯豊山荘(8.30)---梶川峰---門内小屋泊(14.30-6.00)---梅花皮岳−−−御西小屋---大日岳---御西小屋---飯豊山−−−切合小屋泊(15.00-5.20)---種蒔山−−−三国岳−−−地蔵山−−−飯豊鉱泉(9.30)===タクシーで山都駅
所要時間 1日目 6時間 2日目 9時間 3日目 4時間
                  日本百名山最後の山(53歳)

それは癌との戦いでもありました。
1987年9月の大菩薩嶺からスタートして、まるで憑かれたように日本百名山を登りつづけ、ちょうど満3年目となる1990年9月に100山目として登ったのが飯豊山でした。

(完登記念のテレカ、背後は飯豊山)

台風一過、まだ風は台風の名残りをとどめて強かったが、好天に恵まれた登山日和となりました。
100山目と言う特別な山行でもあり、妻と長男が同行、無人の山小屋2泊、自炊の荷物に加え、完登祝いの缶ビール、ご馳走などで重さがぐっと肩にこたえる。25キロは私には始めての重荷でした。

米沢市のホテルで人工肛門の排便処理を済ませた。うまくいけば山を下りる明後日までは排便が無くて済むかもしれない。
初日、長い梶川尾根の急登を30〜40分間隔で一本立てながら、妻のペースで登って行く。汗が目にしみる。

5時間半かかって、稜線の扇の地神に着くと、飯豊山地の大パノラマが展開する。登りの苦労が吹き飛ぶ。
目指す飯豊山は、草紅葉がキツネ色に染めた草原の彼方に美しく聳えていた。明日はあの頂きに立って、日本百名山完登の喜びを味わうことが出来ると思うと、年甲斐もなく胸の高まりを押さえられない。
第一日目は門内小屋へ宿泊。9月も下旬だというのに満員だった。

2日目は、餅入りの雑炊で朝食を済ませてから6時の出発でした。
この日の行程はかなり長い。軽荷なら問題はありませんが、荷の重い今回は少し気合を入れないといけません。
黄金色に光り輝く草紅葉のすがすがしい道を、北股岳、梅花皮岳へと向かった。北股岳のピークに立つと、今日のこれからの行程がはっきりと見とおせる。妻の目にはとてつもなく長く映ったことだろう。
梅花皮岳を越え、烏帽子岳へと歩を進めると、目指す飯豊本峰はぐっと近づいてきた。
眺望に恵まれた稜線コースを、約4時間かけて御西小屋へ到着。ここで妻と長男を残し、一人で大日岳を往復することにした。二人をあまり待たせたくないので、駆け足まじりで歩く。コースタイム2時間40分を1時間半で往復した。
御西小屋に戻ると、食べられるように温めてくれたお汁粉があった。家で食べるお汁粉と同じものだが一味もふた味も違う。気力をよみがえらせて二人の後を追って飯豊本峰へと足を急がせる。霧が漂いはじめた。乳白の霧を透かして雪田がいくつか見える。チングルマ、ウラシマツヅシが深紅に紅葉している。

待望の飯豊山の頂きに立った。日本百名山完登。ついに癌に克った。なぜか思い描いていたような激情する喜びは湧いてこない。ただ、大きな仕事をなし終えた満足感というのか、安堵感のようなものが静かに胸の中を広がって行くのを感じとりました。
癌手術から4年8ヶ月、登山を始めて満3年。1年先の保証がなかった体だったが、これまで生き長らうことができた。生きた証が出来た。
妻と長男は、私に内緒で「おめでとう 日本100名山達成」という布で作った幕を持参していた。
飯豊頂上小屋泊の予定だったが、切合小屋まで足を延ばして、ここを2日目の泊りとした。
担いできた祝いのご馳走を準備し、ビールで乾杯。満員の小屋の人々が祝福の言葉を次々とかけてくれるのを聞きながら、ようやく完登の喜びが体いっぱいに広がって行くのを感じた。
この喜びは≪五年生存率50パーセント≫つまり、二人に一人しか生き残れないと言われた難関を、無事クリアできた喜びでもありました。

3日目、目覚めて冷気の外へ出てみると、一夜の冷え込みで、飯豊山から御西岳にかけての紅葉が一気に進んでいた。私の念願成就を祝うかのように、山はまさに満艦飾に彩られていた。
大仕事をなし終えた充足感に包まれ、数々の思い出を残した山を下った。足は軽かった。