追想の山々1005  up-date 2001.02.16

北穂高岳(3109m) 登頂日1987.7.26〜28 妻・長男 風雨
上高地−−−涸沢小屋(泊)−−−北穂高岳−−−穂高岳山荘(泊)−−−横尾−−−上高地
所要時間 1日目 ***** 2日目 ***** 3日目 *****
          癌手術後、はじめての本格的山行(50歳)

強風下の涸沢槍付近にて
癌の手術を受け、人口肛門となってから1年半、実質はじめての登山として記憶に残る山行でした。
登山が趣味とも言えもせんでしたが、以前にも槍〜穂高、白馬、越後駒、高妻山、大天井など、それらしい山をいくつか登ってはいました。その多くは人の尻にくっついての付き合い登山です。

手術後に家族で穂高登山を計画したとき、2回ほど丹沢の山へ出かけて軽いハイキングをしました。脚力、体力の状態を確認するためです。なにしろ手術から1年半、ほとんど運動らしいものはやっていませんでしたから、どの程度歩けるのか、皆目見当がつきませんでした。
手術の半年ほど前に次男と燕−大天井−槍−北穂と縦走したことがあります。入院中にその次男から「よくなったらまた穂高へ登って、月光に照らされた槍を見よう」という手紙をもらいました。そのこともあって穂高岳登山を計画したのでした。

次男は学校の関係で同行できませんでしたが、妻と長男が万一のサポート役として同行しました。
会社の仕事には復帰していましたが、それだけで完全な社会復帰といえるのか、ほかに何ができるのか、この登山はそれを確認するためのものでもありました。もし何の問題もなく3日間の登山が出来れば、私はもう他の方と区別されないで済む完全な社会人になれるという、気負いのようなものもありました。

一番の問題は排便処理です。出発日の朝、早起きして排便の処理を済ませました。しかしこれで下山のときまで排便無しというわけにはいかないでしょう。それは覚悟の上です。
梅雨明け10日と言われる夏空を見こんでの有給休暇でした。ところがいっこうに梅雨が明けません。その日も雨が降りだしそうな空模様です。日程の変更は出来ませんから、予定通り出発しました。
上高地から徳沢、横尾と足は順調です。横尾から涸沢への登りも何ら問題ありませんでした。
空の方も何とか持ちこたえて、雨の降り出す前に、予定より早く山小屋へ到着しました。

2日目、曇ってはいますが、まだ雨は降っていません。夜明けと同時に小屋を発ちました。南稜コースから北穂へと登って行きます。急峻な登りですがそれほど苦にはなりません。足は軽く動きます。いつしか南稜は濃いガスに閉ざされて、視界も悪くなる一方です。

北穂の山頂に立つと、滝谷側から冷たい強風がたたきつけるように吹き上げています。たちまち体温が奪われていきます。長くはいられません。視界のない山頂で、2年前に次男と登ったときのあの大パノラマをしのぶばかりです。はじめて3000メートル峰の頂きに立った妻ですが、ついていません。

北穂小屋に入ってひと休みしてから涸沢槍経由穂高岳山荘へと向かいました。
小屋の外は強風とともに、雨もまじって荒れ模様に変わっています。3000メートルの岩稜を、山に不慣れなわれわれ3人が、無事穂高岳山荘まで歩けるだろうか。不安がよぎります。吹きさらしの岩稜に立つと、強風という表現では足りない、それは猛烈な風です。体を垂直に維持するのが難しいほどで、下界でこの荒れ模様なら嵐と呼ぶでしょう。正面から襲う風に体を斜めに預けるような格好で前へと足を運びます。
視界はほとんどありません。黄色いペンキ印を見失わないように、慎重にルートをたどります。

涸沢槍の岩峰が突然目の前にあらわれました。見えるのは峨々としたその岩峰だけ、やけに高々とかつ険しく目に入ってきます。とてもルートがあるようには見えません。不安と恐怖心がピークに達します。手前小さなコル状の風衝帯を通過。3人とも四つんばいになり、岩にしがみついて一歩づつ前に進みます。烈風は耳元を間断なくうなりを上げて吹きすさぶ。
涸沢槍に取りつくと、案ずることもなく、しっかりとしたルートがありました。。
穂高岳山荘の赤い屋根がガスの中にほんやりと見えてきたときは、「ああ、助かった」というのが正直な気持ちでした。

2泊目の穂高岳山荘は悪天のために宿泊客も少なく、個室が取れてゆっくり出来たのはラッキーでした。人目を気にせずにパウチ(便を溜める袋)の交換も出来そうです。2泊目の夜、やはり排便が始ってしまいました。このあとパウチ管理など、煩わしいことになりましたが、それは予定のことでした。

翌朝も本格的な雨、風は前日より弱くなってはいましたが条件は良くありません。奥穂経由で岳沢、上高地という予定のコースは、山に素人の我々には少しきついし危険も伴いそうです。残念ながらザイデングラードから涸沢、そして上高地へと下ることにしました。

上高地では予約の村営ホテルに投宿、人工肛門にパウチを貼り付けた姿では、恥ずかしくて温泉にも入れません。これから先もこんな経験を何回もすることになるかと思うと、我ながら哀れでした。

会心の山行にはなりませんでしたが、二人のサポートという心強さもあって、曲がりなりにも山中2泊の行程を消化できました。どうやらこの体でも、もっともっといろいろなことが出来そうです。
身の不運を嘆くばかりだった毎日から、ようやく新しい世界へ目を向けるきっかけが、この登山のおかげで出来ました。振りかえって見たとき、そうした意味で、この山行が私には大変意味のある、忘れがたい山行と言えるのです。