追想の山々 1008    up-date 2001.03.17


丹沢山(1567m) 登頂日1988.2.27 単独
大倉−−−塔ノ岳−−−丹沢山 1988年 丹沢主脈縦走 の記録はこちらへ
無知無謀の山行=51才
 
《PART−1 》 

登山関係の雑誌に、丹沢主脈縦走(塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳)を一日で踏破という稿を読み、同じコースを同タイムで歩いてみようと考えた。
山登りを始めてほぼ半年、他の人が歩いたならば、自分に歩けないことはないという過信、驕りがあった。

冬山に必要と思われる防寒衣をそろえたりして準備を進めた。
登頂は2月27日(日)とした。
前日の26日は、珍しく都心でも朝から湿った雪が降り続いてかなりの積雪があった。夜半まで降り続いた雪はようやくにして上がったが、山の積雪が気になる。しかし積雪は覚悟の上。

高い山ではないが、雪の山を歩くのは実質初めての経験である。不安がなくはない。あるいはラッセルがあるかもしれない。
万が一を考え、防寒衣、食糧、燃料等にも私なりに配慮した。一晩くらいのヒバーグだったら何とか頑張れる態勢を整えた。(今振り返れば、間違いなく100パーセント遭難の装備であり、千数百メートルの山中で到底しのげるものではなかった。まさしく無知無謀だった)

バス終点の大倉を後にしてただちに塔ノ岳へ向かう。主脈縦走はコースタイム9時間30分の長い行程となる。日の短い時期、少しの時間も無駄に出来ない。
最初は10センチ程度の雪でたいしたことはない。べた雪が歩きにくい。登るに従い積雪が増してゆく。
体調が悪い為か汗がひどい。急登の連続に疲労感も強い。この疲労感は山歩きを始めて以来、初の体験だった。途中何回も立ち止まっては呼吸を整えなければならなかった。
これまで人に追い越されるようなことは殆どなかったのに、3人に越される始末だった。どうもおかしい。登りついた最初のピーク塔ノ岳頂上はガスと強風にさらされ、吹き溜まりは70センチ以上の積雪となっている。
風と寒さに追われるようにして尊仏山荘に転がり込み、缶ジュースを飲んで生き返った。衣類は汗でびっしょりに濡れている。
山荘主人によれば今日は蛭ヶ岳は止めたほうがいいという。だれも入山していなし、ところによっては1メートルを越す新雪ラッセルを強いられるという。それを無視して強行する勇気はなかった。それにこの体調ではどうなるかわからない。

山荘から1時間の行程の丹沢山までは、7人パーティーが入ってラッセルしてあるから、途中の竜ケ馬場あたりまで行ってきたらという主人の勧めで、ザックを山荘にデポして出掛けることにした。
歩き初めてみるとやはり疲労感は強い。自分の体ではないような倦怠、無力感におそわれ息が続かない。腰まで痛む。ゆるいアップダウンがこたえる。どうしても体が言うことをきいてくれないのだ。なんとか竜ケ馬場まで到達する。こんな状態だったが、ここまできたのだからあと20分の丹沢山までという欲が出て再び前進する。最後の登りをようやく登り詰め、やっとの思いで山頂に立った。
雪は予想以上に深く、道標が半分ほど埋まっていた。

頑張って山荘まで引き返さなければならない。我慢出来ずに倒木の雪を払いのけてべったりと腰を下ろしてしまう。少し進んでは立ち止まって呼吸を整える。杖がわりのスキーストックに体を預けて又休む。そんな繰り返しで山荘までたどり着いた。雪山の遭難はこんな状況の中で起こるものかもしれない。
山荘の重い戸を開ける気力もなく外のベンチに座りこみ、しばらくして山荘に入ってお茶、ジュース、水等をどんどん補給し食事をして回復を図るが、疲労は激しく座って居ることも大儀だった。蛭ヶ岳は止めてよかった。強行していたら大変なことになっていた。
30分間の休憩でようやく生気を取り戻すことができた。(あとで気づいたがこれは脱水症状を起こしていのだ)               
鍋割山を経由して下山。自分の行為が無謀だったとは、まだ気がついていなかった。


《PAET−2》


前回の主脈縦走失敗は体調が悪かっただけ、もう一度やり直そうと機会を待った。
その間に、ガイドに指導されて雪の八ヶ岳赤岳を登頂した。たった1回のその経験で、もう何でも出来そうな錯覚に陥っていた。

二回目の丹沢主脈縦走は4月3日。 真冬に逆戻りしたような寒さで、彼岸をとうに過ぎたのに遅い雪や、冷たい雨の日が多く山は又、新たな積雪を見たようだ。
懲りもせずに、前回同様のプランで出かけた。天気予報は芳しくなかかったが日差しも見えてきて、どうやらそこそこの天気になりそうな気配がある。
今回は掘山あたりから少しづつ残雪が見えてきて、この様子なら大丈夫、そんな気分になっていた。
体調も頗る良い。疲労もなく塔ノ岳山頂へ到着。予定より30分早い。雲もかなり切れてきた。