追想の山々1085  up-date 2001.08.15

トムラウシ山(2141m) 登頂日1990.08.09 単独
トムラウシ温泉野営場(4.20)−−−カムイ天上(6.15)−−−前トム平(7.50)−−−南沼分岐(8.50)−−−トムラウシ山(9.00-10.15)−−−南沼分岐(10.25)−−−トムラウシ公園(10.55)−−−前トム平(11.20)−−−カムイ天上(12.50)−−−トムラウシ野営場(14.10)
所要時間 8時間35分(山頂休憩を除く) 1日目 ***** 2日目 ****
   1990年・北海道の山旅(その4)=(53歳)
前トム平からトムラウシ山を見る

キャンプ場はまだ寝静まっていた。北海道最後の百名山、トムラウシ山登頂の日である。しっとりとした大気があたりを包み、目覚めも爽やか。小鳥の囀りもすがすがしい。

今回の北海道山旅4座のうち、トムラウシ山だけはぜひともいい天気であってほしいものと願っていた。仰ぐとキャンプ場の空は曇っている。

キャンプ場からトムラウシ山往復はコースタイム13時間20分のハード行程である。ここ4日間の連続登山(羊蹄山、幌尻岳、十勝岳)で、それぞれ体力的にはかなりハードな登山を続けてきた。その上での今日の強行軍、少しこたえるかもしれない。 

百名山を指向する登山者にとって、アプローチの不便さ、行程の長さ等で後回しになってしまうのが光岳、宮の浦岳、利尻岳、幌尻岳などと共にこのトムラウシ山だと言われる。私も昨年の夏トムラウシ山を目前にして退却を余儀なくされた。あのとき、台風が襟裳岬に接近していた。しかし何としても登頂を果たしたい一心で、悪条件の中での挑戦。強風雨の中を天人峡から登りはじめ、化雲岳まで強風と戦いながら登りつき、その先ヒサゴ沼へ分岐までは達した。あと1時間半もあればトムラウシ山頂上というところで、横殴りの雨と風には抗しきれず、ついに登頂をあきらめて退却せざるを得なかった。

 

昨日は十勝岳から美瑛岳を歩いて、彼方に見えるトムラウシ山をしっかり目に焼き付けてきた。大きな山塊の中にがっしりした牛の角のような姿をしていた。
振られた恋人に一層恋心を募らせながらも、昨年はついにその姿を望見することさえ叶わずに立ち去ったトムラウシは、止めようもなく燃え立っ気持ちをさらに強くしている。いまその恋人を前にして、思い出に残るような山歩きにしたかった。天候はそんな私の気持ちを知らぬげた。 

妻をキャンプ場に残しての一人旅、420分出発。
林道をしばらく歩いてユウトムラウシ川にかかる緑雲橋を渡った先で、国民宿舎からの登山道に合流、登山口の表示がある。
樹林のゆるやかな道もつかの間で、突然鼻のつかえそうな急登が待ち受けていた。長丁場をのんびり歩いているわけには行かない。ぐんぐん高度を稼いで行く。いったん急坂が緩み平担道が延々と続く。登山道は思いのほか手入れがよく、笹は刈り払われて歩きやすい。ルートの不安もない。笹の葉にバラバラという雨粒のような音、ついに雨か・・・曇り空を見上げる。雨露が風に落ちたらしい。ヤレヤレ、心配させる。

 

霧に見え隠れするトムラウシ山山頂

静か過ぎて気味が悪いほど。ザックにつけた熊除けの鈴は、平坦道では鳴り憎いのでわざとザックを揺すって響かせる。
再び勾配がついてきて、ひと登りしたところがトドマツに囲まれたカムイ天上だった。立木に“カムイ天上”のプレートが打ち付けてある。キャンプ場から約2時間、1時間の短縮だった。これで今日の長丁場に目処がついた。疲労もなく体調は良好。

樹林の先は霧にぼやけ、梢の上には雲が覆っている。期待感のためか、雲に青味が感じられる。気のせいかなと思うがよく見ると確かに一部薄くなった霧を透かして青空が見える気もする。
カムイ天上から岩の露出した堀状の下りがつづく。せっかく稼いだ高度を失うようで一歩一歩が勿体ない。下りついたところがカムイサンケナイ川の源頭部、コマドリ沢だった。地図には水場の表示があるが、渇水期のためか沢は涸れて一滴の水もない。大小の白っぽい岩石が累々としている。
涸れたコマドリ沢を右岸左岸と渡り返し、何回目かに伏流水が湧出しているところがあった。冷たい水がまた活力を生み出してくれる。岩石が埋め尽くした涸れ沢から突然緑の草が目に染みるような源流に変わった。 

露を含んだ草斜面に、登山道から川底へ向かって一筋なぎ倒されたような痕がついている。痕跡は真新しい。直観的にヒグマと推測、好物のハクサンボウフウなども多い。緊張して周囲を見回す。
そのまま沢を詰めていくと突然女性の甲高い悲鳴。すわっ!クマ、戦慄が走る。静寂が戻る。しばらく静止して様子をうかがう。不安を抱きながらゆっくりと登り始める。二人の女性が下山して来る。『何かあったのですか』と尋ねると、別のグループが枯れ木をクマと勘違いしての出来事だったことが判明、ヤレヤレ、胸をなでおろした。恐怖心が幻影を呼んだのだろう。

沢の源頭部が明るく開け、白く輝くダケカンバの斜面の上に、緑濃い稜線が見えて来た。そして待望の青空も見えるようになった。天気はいい方に向かっている。老夫婦に追い付く。悲鳴の主だった。二人は 夜明け前に出発して来たのだろう。
森林限界を越えた明るい登山道を、しばらく老夫婦の歩調に合わせて歩く。累々とした岩石帯を2箇所通過、小鳥の囀りにしては少し変わった鳴き声が耳に届く。ちきっ・・ちきっ‥ちきっ・・・そうだナキウサギだ。声の方角に目を凝らすと、小気味いい動きの小動物を見つけた。生きた化石といわれるナキウサギに会えた幸運に感激。岩と同じ保護色で、動いてくれないと確認は困難。じっとこちらの動向を注視している。驚かせないように岩石帯を通過すると、ハイマツ帯の中の砂礫台地に登りついた。ここが前トム平、出発してから3時間半、2時間短縮している。この先はそんなに急がなくてもいい。ようやくゆったりした気分を取り戻した。 

トムラウシ公園

あとは厳しい登りはほとんどなく、青空の広がった稜線を楽しみながら足を進めればいい。
前トム平で老夫婦と別れてハイマツの中を漫遊気分で歩き、もう一段登るとそこは岩屑の台地。多くのケルンがルートを案内してくれる。
そのまま平担部を少し進むと、もう一度巨岩の折り重なった岩稜にぶつかる、踏み跡とペンキが目印だが、ガスの濃いときは分かりにくそうだ。岩稜を乗り越えた先の高みではっとして脚をとめる。眼下に目を吸い寄せるような景観が広がっていた。池塘と無数の奇岩が点在し、ハイマツの緑が彩りを添える。トムラウシ公園だった。しばし立ち尽くして見とれる。足元では早くもウラシマツツジが深紅に染まり始め、コケモモの実が赤く色付いている。 

トムラウシ公園に向けて急坂を下りかけると、眼前の山の頂あたりを覆っていた雲が切れて、二つの残雪を陽に晒した山体くっきりと出現した。トムラウシ山?下山して来た人に尋ねると紛れもなくトムラウシ山の南面だった。本峰はその奥にあってここからは望めないらしい。感激のシャッターを切る。
岩の間を縫ってトムラウシ公園へと下る。深い池塘が澄明な水をたたえ、紺青の空を映しこんでいる。冷水が喉に染みる。池塘を縫い、奇岩を仰いで高山植物の草原を行くと急坂を下山して来る登山者が小さく見える。この急坂がトムラウシ山の肩、南沼への登りである。イブキトラノオが風に揺れている。昨年の北海道山旅より時期的には早いのに、なぜか花は少ない。今年は雪が少なく夏の訪れが早かったため、既に花季の盛りを過ぎてしまったらしい。

左手にゆったりとした緑の山稜が大波のように起伏している。急坂を過ぎてしばらく進むと、二張りのテントが乳白の霧の中に見えてきた。南沼の野営場でここが美瑛岳方面からの縦走路との合流点、指導標にしたがって岩場を攀じ登る。風が冷たくなって来た。
霧が切れ、巨大な城塞のような岩峰がうかがえる。トムラウシ山の本峰だ。ついにその懐に入ってきた。 

トムラウシ山山頂

霧は惜しむかのように見せては隠し、昂ぶる気持ちをけん制する。そしてついに山頂に立った。残念ながら霧で視界が閉ざされて楽しみにしていた眺望はきかない。ときどき薄れる霧の隙間から火口の外輪が見える。
外輪全体が岩だらけの山頂で、まるで岩窟城の中へ入ったようだ。10人余の登山者が登頂の喜びに浸っていた。全員ひざこ沼避難小屋に宿泊して、今朝発って来た人ばかりで、これからトムラウシ温泉へ下山するとのこと。
ひさご沼方面への下山口まで行ってみる。昨年大荒れの中、悪戦苦闘して引き返した化雲岳あたりが見通せればと思ったが、ガスで遠望は無理だった。わずかに雪渓とおぼしさものが見えるが、たぶん北沼の雪渓だろう。火口縁の斜面にはイワギキョウ、毛花となったチングルマ、ミヤマアキノキリンソ等が見られる。


前トム平から見たトムラウシ山

再び山頂へ戻って晴れるのを期待して待つ。ぼんやりと見えるのは南沼だろうか。
気がつくとエゾリスが何か拾っている。人を恐れる風もなく可愛いい姿でせかせかと動き回っている。ザックからピーナツを出して与えると頬いっぱいに詰め込んで岩陰へ消えた。するとすぐに引き返してきて、今度は手の平から前足を器用に使ってじかに受け取る。しばらくその可愛さに見とれた。かの老夫婦も到着した。今日夕方までにトムラウシ温泉まで下山するのだという。その年でこの長丁場を日帰り往復するのは大変なことだ。敬意を表する。

トムラウシ山山頂のエゾリス

山頂で1時間15分という長い時間を過ごしたが、ついに眺望を諦めて下山することにした。下山は楽だ。旧恋の想いを達した満足感で、足取りも軽くトムラウシ公園まで一気に下る。奇岩を前景に遠くに石狩岳と思われる山並みがのぞめる。その南がニペソツ山であろう。前トム平付近の岩屑の台地から、登りでは見えなかったトムラウシ山の本峰がはっきりと確認できる。頂上を辞したあと晴れてきたのだろう。道々振り返ると、カムイ天上あたりまでトムラウシ山が背後に見えていた。もし登りで見えていたならば、あの遥かに遠い頂に、いったいいつ着けるのだろうかという不安にかられたかもしれない。

今朝ほどの岩場で再びナキウサギに会うことができた。 コマドリ沢の源頭部では、登りでは見過ごしてしまった高山植物が彩りも賑やかに咲き乱れ、その主役は黄色のミヤマアキノキリンソウ、ほかにはイワブクロ、ミヤミシオガマ、チシマフウロ、タカネトオウチソウ、ナガバキタアザミ、ミヤマトリカブト、ハクサンボウフウ、ウスユキトウヒレン・・・・・

 カムイ天上からの平担道は長かった。いやになるほど長かった。東南の方角に見える定規で引いたような三角錐の山は、十勝岳から派生している“下ホロカメットク山”か。ボントムラウシ山は左側近くにあった。

頂上でゆっくりしたにもかかわらず、予定より早く14時丁度キャンプ場に帰着。洗腸をすませ、ひと休みしてから国民宿舎の温泉へ。広い浴槽に滔々と湯が溢れ、思い切り体を延ばして日本百名山95座目の登頂の喜びをかみ締めた。露天ぶろもまた気持ち良かった。吸い込まれそうな青空を見ていると、癌を乗り切って今生きてこうしていられる幸せが、しみじみと湧いてくる。
テントは昨夜の場所から、奥の方のいい場所に移動できて落ち着ける。隣に来た青年のバイクが“豊科”ナンバー、尋ねるとやはり信州からだった。不用となった缶詰などを進呈する。

北海道も今晩が最後、またいつの日この北国の山を訪れることができるか、少しばかりの感傷がよぎる。持って来た食料とワインで乾杯、ささやかながら充実した晩餐となった。台風が近づいているらしい。明日は北海道にもその影響がでるかもしれない。今日で予定の4座を登り終わることが出来てよかった。ひと仕事し終わった満足感でトムラウシ温泉野営場二晩目の夜を迎えた。

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