追想の山々1211  up-date 2001.120.05


1990年、マイカー2200キロ、日本百名山の旅

荒島岳
(1524m)伊吹山(1377m)大山(1711m)蒜山(1200m)大台ケ原(1695m)八経ケ岳(1915m) 
1990.04.28 荒島岳・・・妻同行
自宅(3.30)===多治見IC===大野市勝原スキー場銀嶺荘(9.45-10.00)−−−シャクナゲ平(11.50)−−−荒島岳812.40-55)−−−銀嶺荘(14.10)幕営

 
 荒島岳山頂
多治見ICで高速道路を出て可児市、美濃加茂市、関市、美濃市、白鳥町と早朝の街を走り抜け、九頭竜湖が見えて来るとようやく目的地の勝原(かどはら)スキー 場が近くなった。
走りつづけてほぼ7時間、登山口となるスキー場銀嶺荘に到着した。
早速支度をして出発。第一リフト沿いに登り、そのあとは青い第二リフトの終点を目指しLて行く。歩きはじめて間もなく自動車の消灯確認を忘れたことに気付いて引き返す。
これで大丈夫、さあ登るぞとふたたび勢い込んで第一リフト終点近くまで登ったところで、先程消灯確認の際にキーをドアに差したままにして来たことに気づいて、またもや引き返す。

殺伐としたゲレンデを直登して第二リフト終点を過ぎると、やっと樹林の登山道に変わる。小鳥の囀りが初夏の風に乗って森の中を流れる。妻もまずまずのペースで頑張っている。 緩急の傾斜を繰り返して支尾根を直登、シャクナゲ平までは1時間50分、荒島岳が手に取るように見通せる。
妻の意向もあって、シャクナゲ平からは私一人が山頂をめざした。
前荒島、中荒島と乗り越えて頂上に立った。山項には無粋なコンクリートの建物が何とも目障りだった。一等 三角点が祠の近くにあった。
眺望は霞んで、残雪に覆われた加賀白山が確認できただけだった。

銀嶺荘に下り着いたのは2時10分。途中から下った妻とほとんど一緒だっ た。
銀嶺荘でキャンプの許可をもらって幕営。夜半から激しい雨になった。 (この日、荒島岳で、女牲が遭難死と いうニューースを聞いて驚く)
1990.04.29 伊吹山・・・妻同行
 
 濃霧の伊吹山頂上
荒島岳山麓銀嶺荘の朝は雨て明けた。午前4時、テントを畳んで伊吹山へ向かう。
長浜ICを出て登山口上野に向かった。
3合目から歩く計画だったが、この道が通行止め。仕方ないから山頂までドライブウエイで行ってしまえ、そう考えてゲートへ行くと開門は8時。
今日中に大山まで移動しなくてはならないので時間がない。
開門を待って山頂へ自動車を走らせた。ひどい濃霧で視界は30メートルあるかないか。山頂駐車場に着いても、三角点はどっちへ行ったいいのか皆目わからない。乳白色のミルクの海に沈みこんだようだ。
右、左と適当に移動して山頂表示のあるところへ登った。
これで伊吹山へ登ったというには、後ろめたさが残るがしかたない。(後日=1999.09.19日=、3合目から妻と一緒に登りなおしました。)

伊吹山をあとにしてすぐに鳥取県大山へ向かった。
蒜山国民休暇村着は夕刻4時30分。テントでの洗腸(人工肛門の排便処理)を始めて行った。

1990.04.30 伯耆大山・・・妻同行
大山駐車場(6.15)−−−5合目(7.10)−−−大山弥山(8.20-40)−−−5合目(9.30)−−−大山寺見学(10.10)===蒜山国民休暇村

 
 大山(弥山)から三角点峰をのぞむ
前夜は「蒜山国民休暇村」に幕営、夜半降るような星空だった。
5時にキャンプ場出発、蒜山大山スカイラインは早朝で料金所無人、そのまま通過。快適なドライブウェイを清澄な大気を裂いて突っ走る。眼前に峨々として天空を画す屏風ような絶壁が目に飛ひ込んで来た。大山である。
大山寺下山キャンプ場着5時45分。支度を整え、大山登山口の標識を確認して登山にかかる。2合目、3合目と各合目ごとに表示がされている。一合をほぼ10分のペースで登って行く。スカイラインから眺めた岩肌剥き出しの姿からは想像できないブナ林が、自然のままの姿でだ残されている。登山コースは北面のために寒い。
岩や木の根を足掛かりにした急登がつづくが、ゆっくりしたベースで高度を上げて行く。今日のコースは高度差1000メートル、それなりの登りだ。弥山から剣ケ峰にかけての険しい山肌や、三鈷峰を目にしながら避難小屋の建つ6合目に立つと、日本海からの北風が冬のような寒さだ。雨衣の上下を着て風を防ぐ。
休憩も早々に頂上に向かう。岩屑の歩きにくい道となり、傾斜がきつくなってきた。7合目から先は登山道を残雪が覆っている。完全に氷化しているため、妻は怖がって足が前に出ない。この残雪は登りより下りのほうが心配だ。
寒風に晒されながらもようやく傾斜が緩み、天然記念物、大山キャラボク純林を保護するための長い木通が弥山の頂に延びている。風が弱くなった。
8時20分頂上着。弥山山頂は風もなく気持良い日差しが降り注いでいた。剣ケ峰への稜線はナイフリッチとなり剃刀の刃のように殺がれていた。大山の最高峰はその剣ケ峰ながら、危険のため通行禁止、今日はここまでである。氷の山、蒜山三山が見える。山頂展望案内板には、四国の剣山、石鎚山も記されているが見ることはできなかった。

下山後、大山寺を見学してからキャンプ場へ戻った。
1990.04.30 蒜山・・・単独
上湯船登山口(12.00)−−−牧舎(12.10)−−−上蒜山(13.20)−−−ユートピア−−−中蒜山(14.00)−−−塩釜冷泉(14.40)===蒜山国民休暇村

 
 中蒜山頂上
大山を下山して、テントに戻ったのが12時少し前、絶好の登山日和である。欲が出てこれから蒜山を登ることとにした。
とりたてるはどの特色もない平凡な山ながら岡山県を代表する山である。観光客で賑わう国民休暇村を後に、上湯船の登山口まで妻に自動車で送ってもらう。上、中、下蒜山の3ピークを踏み たい所だが、コースタイム7時間40分はちょっと無理だろう。下蒜山をカットして、コ−スタイム約4時間半に短縮して歩くことにした。  私の足で一応3時間と踏んで、妻には下山先の塩釜冷泉へ迎えを頼んで一人出発した。
午前中の大山が高度差約1000メートル、蒜山が約700 ノートル。合わせると1700メートルは一日のコースとすればかなりのものだ。『上蒜山登山口』の抗標識を見て蒜山の裾野を登り始める。
雲ひとつない紺碧の空、目に染みる牧草の緑、 薫る五月の風。目の前にカヤト覆われた上蒜山が鎮座している。
牧柵の中の樹幹に『登山道』と書かれた札が打ち付けてあった。若木の杉植林帯へ入るとかなりの勾配をもつ登りが待っていた。丸太階段を一段一 段休まずに足を運んで植林を抜け出す。牧場がもうかなり下になった。丸太の階段はさらにつづいている。
5合目であろう。大山が顔を出して来た。好展望の槍ケ峰まではコ−スタイムの半分だった。
槍ケ峰を後に緩くなった道はブナ林の中に入り、これもワン ピッチ20分で上蒜山への分岐となる。薮っぽい下笹の踏み跡を辿るとすぐ上蒜山の山頂だった。蒜山三座の最高峰、三角点に手を触れてすぐ次の中蒜山へ向かう。
200メートル余の下りを鞍部へ駆け下る。鞍部はユートピアというにふさわしい、一面チガ ヤ(=白茅)の原が広がる明朗な高原であった。原は中蒜山の頂上へと続いている。鼻歌も出て来そうな浮き浮きした気分で、チガヤを分けて登れば、中蒜山山頂まではわけなかった。

塩釜冷泉には2時40分に下山、予定よりだいぶ早かった。迎えに来ていた妻と国民休暇村へと帰ったのはまだ日の高い3時半だった。  
キャンプ場の第二夜、夕闇の迫った空には、相変わらず雲ひとつなかった。
1990.05.01 大台ケ原・・・同行
山上駐車場(11.25)−−−大蛇(12.19-20)−−−正木ケ原−−−日出ケ岳(13.30-40)−−−山上駐車場(14.10)===吉野山竹林院旅館へ

 
牛石ケ原 
夜明け前の午前4時、蒜山キャ ンプ場から大台ケ原へ向かう。吹田ICから近畿自動車道、西名阪道を乗り継ぎ、大台ドライブウェイを駆け上がって、11時15分ようやく大台山上駐車場に到着した。7時間15分の長駆だった。
早速山頂周回コースでしおから谷、大蛇ーへ。観光用の良い道がつづく。観光客に混じって1時間弱で岩の突き出した大蛇ーに着く。西方に長々と横たわるのは、一目で大峰山地であることが知れた。ただ馴染みがないので個々の山名を指すことができない。一番高いのが八経ケ岳だろうか。
さらに整備された道を牛石ケ原、尾鷲辻を経由して正木嶺のピークに至る。熊野灘を望む好展望台で、眼下は尾鷲湾である。いったん下ってから登り返せば、大台ケ原最高点の日出ケ岳である。
三角点のある山頂は、駐車場から私達とは逆回りで3〜40分で来られるので、軽装の観光客が多い。
周回コースを一周して駐車場に戻り、大台博物展示場を覗いてから、 再び大台ドライブウェイを走って、今日の宿泊地吉野へ車を向けた。
いかにも由緒ありげな宿、竹林院群峰園。桜の時期には大変な人出だろうが、今日は宿泊客も少なくて静かだ。久しぶりに風呂で汗を流し、ふかふかの布団に体を伸はした。
明日の予定は八経ケ岳である。


2001.5.13の大台ケ原登頂記録はこちらへ
1990.05.02 弥山・八経ケ岳・・・単独
天川村役場・川合(6.00)−−−栃尾辻(7.50)−−−狼平小屋(9.05)−−弥山小屋(9.40)−−−八経ケ岳(10.00-20)−−−弥山−−−弥山小屋(10.40)−−−狼平小屋(11.20)−−−栃尾辻(12.20)−−−栃尾山−−−垣内丹生川上神社(13.25)−−−役場(14.00)

八経ケ岳山頂
未明の4時、吉野の宿をを出た。途中通行止めの表示があったりして、天川村着が遅くなってしまった。山小屋宿泊というスケジュールを変更して、私一人で八経ケ岳を日帰り往復することにする。コースタイム12時間は楽ではない。
天川村役場前から6時に出発、ここに戻るのは早けれぼ2時、遅ければ5時頃か。
川合集落から指導標を見て山へ向かうといきなり急坂が待っていた。やや早いペースを崩さずにこつこつと高度をかせぐ。展望も変化もない急登は高度を稼ぐには大変効率がよい。今日は自分でも驚くほど足が軽く、よく前に出る。連日の山歩きで足が慣れて来たことも原因だろう。
送電鉄塔まで1時間、 標高500メートル登ったわけだから快調だ。いくつか小ピークを越えて樹林中の小さな空間に出た。山小屋の建つ栃尾辻である。ここまでコースタイム3時間半を、1時間50分で登って来た。かなり早く山頂に着けそうだ。
右から坪の内からの道を合っして先を急ぐ。三角錐のピーク頂仙岳が樹間にちらつく。頂仙岳の巻道を過ぎると、弥山川に向けて道は大きく下って吊橋の河原まで降りると、ここが狼平、避難小屋もあって幕営に格好の場所と見られた。栃尾辻からここまで1時間15分、コースタイムが2時間だからこれも快調だ。
一服していよいよ最後の詰め、弥山への登りにかかる。右手に近づいて来たのが八経ケ岳。シラベ、トウヒなどの黒木に覆われた円頂が弥山と相対している。
急登を終った広い平坦部には、弥山小屋等しっか りした3〜4棟の建物がある。先ずは八経ケ岳山頂へ向かう。いったん鞍郡まで下る。白骨化した枯れ木立が目につく。一部崩壊のがれ地を急降下して、登り返せば八経ケ岳山頂だった。4時間の登 りだった。コースタイム7時間からすれば超ハイペースだったが、ほとんど疲労はなく、まだどこまでも歩けそうな感じだ。

一等三角点に触れてからザックを下ろす。山頂の展望は遮るものもなく、近畿一円の山がすべて見えるかのようだった。曇りながら空気の透明度は非常によく遠望良好である。奈良、和歌山がこんなに山深い国だったかと改めて思い直す。昨夜の宿で作ってもらった弁当を広げる。おや、雨かなと思って見上げると、それはあられだった。寒いわけだ。

20分程の休憩の後頂上を辞した。
せっかくだから弥山山頂にも足を延ばした。弥山小屋からほんのわずか登れば山頂だった。周囲は樹林に囲まれて展望は全くない。早々に下山にかかった。
栃尾辻着が12時22分。ここから登りのときの道をまっすぐ川合に下ると、2時前に着いてしまう。妻がまだ迎えに来ていないかもしれない。少し遠回りして、坪の内に下り、そこから自動車道を川合まで歩くことにした。真っすぐ下りるより倍近い3時間余のコースとなるが、2時間もあれば下れるだろう。妻と待ち合わせた時間にもちょうど良い。
どこまでも長い道を坪の内の集落へ向けて下りつづける。
ようやく車道に降りたつと坪の内の集 落だった。天川にかかる朱塗りの橋の先に丹生川上神社のがある。芸ごとの神様とか。

舗装道路を急ぎ足で、妻と待ち合わせの川合集落の役場へ着いたの、約束の2時、それにしても早かった。コース変更で13時間のコースを8時間で歩いてしまった。
天川温泉で入浴後、天川村の民宿に泊まってこの山旅の打ち上げとした。