追想の山々1307  up-date 2002.03.19


風越山(1535m) 登頂日1990.03.31 妻独行
東京(4.40)===飯田IC===登山口(8.20)−−−灯篭のある小社(8.40-50)−−−秋葉大権現碑(9.15)−−−比丘尼庵跡(9.40)−−−白山社(10.20-25)−−−風越山(1040-11.20)−−−狗賓の碑−−−白山社(11.35)−−−比丘尼庵跡(12.15)−−−虚空蔵山(12.25)−−−灯篭のある小社−−−登山口(13.15)
所要時間 4時間55分 1日目 ***** 2日目 **** 3日目 ****
飯田市の後背、信州百名山=54
風越山頂上にて


『風越山』=ふうえつざん・・・・優雅で気品溢れる響きが耳に大変心地いい。伊那谷と木曽谷に挟まれてそそり立つ、中央アルプス前衛の山である。風が吹き越える地形になっているのだろうか。中央アルプスには、空木岳(うつぎ)とか恵那山という美しい名前の山もある。

分かりにくい飯田市内を、見当をつけて何とか風越山登山口に着いたのが8時20分。標高600メートルの登山口から頂上まで高度差900メートル、車も楽に通れそうな広い道を歩き始める。梅林はいま満開。土手にはタンポポが群れ咲いている。なだらかな登りを20分も歩くと、二基の石灯篭と小社が構える白山神社里宮からの参道に合流する。参道には石仏が一基、また一基と現れる。『日夏耿之介風越山句碑道』と刻まれた石碑がある。カラマツはわずかに芽吹いてほんのりと薄みどりが兆している。小鳥の囀りがしきりである。いのち目覚める春、野鳥たちも大忙しで営巣の準備だろう。山はいっペんに活気がみなぎってきたようだ。

秋葉大権現の石碑着が9時15分。 道は二又に分かれる。一つは戻り加減に登る道、もう一つは直進。戻るのもおかしいので直進をとって、松林の広い道をゆっくりと行く。息を弾ませるような急な登りはない。
樹林がまばらになったところに出て、南アルプスが展望できる。立ち止まって北から山座を確認する。春霞に大気の澄明度は良くないが、それでも甲斐駒から茶臼あたりまで素晴らしい パノラマが展開。
比企尼庵跡というところでは、いつの頃か尼僧が庵を結んで住んでいたそうだ。そしてすぐ先には金花草原という場所があり、 尼僧がここで野の草花を道行く人々に売っていた所という説明が書かれていた。この山上で尼一人、どのように暮らしていたのだろうか。思いを馳せると興味は尽きない。

延命水の水で喉を潤す。その先も相変わらずのいい道がつづく。前方に見えて来たのが風越山だ。大きな木製の矢形の立つ“矢立木”というところで道は右に鋭角カーブし、道幅も狭まって普通の登山道に変り、勾配も急になる。戻り寒波の昨日の雪がほんの少し消え残っている小径を、ときに南アルプスを振り返り見ながら高度を上げて行くと、朱塗りの大鳥居がある。このあたりから参道は自然の岩盤 を削った階段がつづき、最後に急な階段を昇り切ったところに立派な白山神社奥の院が建っていた。こんな山中に不釣り合いと思われるほどの社殿だった。風雪幾星霜、年月の傷みはあるが、そのたたずまいは荘厳であった。 『国宝』と墨書されている。寿命、禄宝、福財を司る神様だそうだ。ずいぶんと欲張っている。
ここが風越山のピークのように思えるが、樹間の先にもうひとつ ピークが見える。神社の裏から踏み跡がつづいている。それを辿りいったん急下降 して小鞍部に立つと雪山が見える。奥念丈岳だろうか。再び勾配が急になり、木の根にしがみついて登りきると頂上だった。南北に細長い頂上の南側に山名表示が立っていた。草書体の真新しい表示板は昨年立てられたものだった。
頂上はブナ、ミズナラ、モミなどの高木に遮られて眺望はきかな い。少し先の三角点測量の崩れた櫓の日だま りで昼食にする。恵那山の馬の背のような山稜が春霞の中にぼやけている。まだらに雪を残した摺古木山から安平路山などがうかがえる。

頂上から“狗賓の碑”の矢印について踏み跡を少し下ると、巨岩の積み重なりのなかに小さな祠が忘れられたようにぽつんとあった。 そして高さ数メートルの巨岩に目夏耿乃介の句碑が彫ら れていた。
    秋風や 狗賓の山に  骨を埋む
帰ってから調べると、日夏耿乃介はここ飯田市の出身であることを知った。そして彼は東京での住まいが、私のいま住んでいる大田区山王と同じであった。

帰りも同じ道を引き返したが、登りで秋葉大権現から左手の山腹道を歩いたところを、今度は尾根通しに虚空蔵山を経由する。虚空蔵は好展望台で南アルプス眺望には絶好である。  あいにくの霞が残念だが、北からひとつひとつ山座を確認 していく。
鋸岳、東駒、北岳、仙丈、農鳥、塩見、荒川三山、赤石、聖、上河内。茶臼から光岳あたりまでのりぞめた。