山のエッセイ3001  up-date 2001.02.01 山エッセイ目次へ

日本百名山志向ということ

いま、深田久弥選定の日本百名山(以後百名山と呼ぶ)が過熱とも言えるブームだという。書店へ行けば登山書コーナーには百名山に関するガイドブック、写真集、エッセイ、ビディオなどたくさんの種類が並んでいる。最近では大手新聞社が百名山の週刊誌(?)まで刊行、まさしくブームと呼ぶにふさわしい。

私が百名山を目標として山へ向かったのは13年前のこと、当時は百名山関係の著書と言えば、深田久弥の「日本百名山」と、佐古清隆さんの書いた「ひとりぼっちの百名山」くらいのものだった。 「ひとりぼっち・・」が私には百名山踏破へのバイブルとしてたいせつな存在だった。必要な資料は一般的な登山書の中から、該当する山の情報を集めて登ったものである。
今は1冊の本にきめこまかいガイドが集約されていて、確かに便利になったと思う。

さて私がここで書きたいのは、そうしたことではない。
百名山を目標として登山を楽しむ人々を、皮肉をこめて「百名山病]と呼んだり、あるいは「ブランド志向」、「物まね登山」、「錯誤の登山」「意味のない行為」等、蔑視をにじませて書いた投稿などが、著名誌や山行記などに載っているのを何回か目にしたことがある。

山小屋に同宿した登山者が、百名山を目標にして山へ登っていると察しがつくのに、なぜか隠したがるのを感じる。それは前記のような蔑視的背景があるからだ。 「自らの意思で登る山を選び、“名山”は各人のポリシイによって決まるもの。他人の選んだ山を、金科玉条のように崇め奉って、それに固執するのは、およそ登山を趣味とする者の取るべき態度ではない」 蔑視する側の彼らの中には、そのような趣旨のことを書いている、いわゆる山にどっぷりタイプの山屋がいたのを思い出す。

そもそも登山という行為に、一つのパターンや決まりがあるわけではない。そこにはさまざまなパターン、楽しみ方がある。蔑視的な考えを持つ人は、登山のベテランと言われる人々に多いように思われる。彼らは何十年という年月をかけて、登山の奥義(奥義があるかどうか知らないが)を極め、先人として多くの知恵とノウハウを持っている。だからと言って、彼らが行きついた登山スタイルがすべてではない。
誤解を惧れずに言えば、いわゆる山男といわれるような人、山しか趣味のない人、登山だけが人生、そうした人々はえてして視野も狭く社会性にも欠けることがあるのではないだろうか。自分だけが本物と、優越に満ちた自意識過剰はないだろうか。
むしろ何十年と会社を勤めて来た人や、社会の波にもまれてきたような人たちが、自分の人生を豊にするために、遅ればせながら、登山という世界に目を開いた。その人たちこそ、バランス感覚に優れた良識ある一市民として、確かな自分を形成していると考えるのです。普通の登山愛好者にとって、登山は人生の中の一部分でしかない場合が多いのです。山しかない人たちと価値観が異なっていて当然なのです。 山歩きの楽しみかたは、何十通りあるかわからない。いや10人十色、仮に登山人口が500万あれば、500万通りの楽しみ方があっていい。 その中の一つが百名山志向であっても少しもかまわない。

それが証拠に、登山に関する書籍は驚くほど多い。自然に親しむだけでいい人もいる。健康のために山に登る人もいる。高山植物を愛する人、写真、岩登り、藪山、沢登り、マラニック、山小屋の憩、キャンプ、雪山、山スキー、山のスケッチ、野鳥観察、山麓トレッキング・・・・いくらでもある。
自らの意思で登る山を選ぶという人々は、地図だけで山を選んでいるのだろうか。いや数多あるガイドブックなどを参考にしているケースがほとんどであろう。それは「百名山を登りたい山として選ぶ行為」と、根本においてたいした変わりはないように思う。

私は思うのです。 今や登山の世界は中高年が圧倒的多数を占めるという。中でも定年、または定年を控えて趣味の世界を模索する過程で山へ向かうケースも多いと思われる。私の周りにもそうした人は多い。 その方々は、この先登山を楽しむ年月は長くとも20年そこそこである。つまり遅れて登山という世界に足を踏み入れた人たちには、やはりみんなが登って良かったと言う山へ登ることを薦めたい。多くの先人が推奨する山、その中に百名山も当然含まれて良いのです。

百名山から山の世界へ入り、やがて山歩きの楽しさに魅入られ、次第に奥深さを理解しながら、自分流の登山スタイルを身につけていく人もたくさんいるでしょう。
私は「日本百名山志向おおいに良し」と推奨したいのです。
(これは私見であり,議論をするための意見開陳ではありません。その旨ご承知ください)