べさはや第1話

「虹の立つ海」

2002/07/26

一日目(7/26日 金曜日 諫早湾白浜桟橋へ)

朝7時頃、羽田に向う電車の中、鹿児島の野元尚巳さんより電話が入る。 台風9号は通過したものの、次に向ってくる11号が行動日 に諫早を直撃するとのこと。

「この風では、シーカヤックをカートップして走ること は危険です。どうしましょう?」

との野元さんからの問い。

野元さんは、昨年、一昨年と、シーカヤックによる沖縄〜 鹿児島間の単独航海  を完漕した有名な冒険家だ。 余談になるが、鹿児島県内いや九州では、コンビニ で悪書を立ち読みできない(本人談)ほどの有名人なのだ!

2年に渡る海の旅で、台風に苦しめらた経験、台風の恐ろしさ を一番しっているシーカヤッカーといっても過言ではない。 そんな野元さんの声には、僕に気をつかってくれながらも、 今回の計画を見合わせを、薦める言葉のニュアンスがある。

人力では台風に勝てない。風が強い場合、野外での行動は ご法度なのだ。昨年のべさはや隊長で、アウトドア全般に精 通するライターの安藤眞さんからも出発前、無理をせぬように、 というメールを戴いていた。 

羽田に向かう電車の中で、よく考えてた結果、 羽田空港から、野元さんに、

「今回は、中止しましょう」

と電話で連絡した。残念だが、しかたない。羽田から長崎への 便は、引き返しの条件つきで飛ぶというので、一路、長崎へ 向かうことにする。 

例え、「べさはや」が中止でも、一度諫早の現状を自分の目 で見ておきたかった。安藤さんの言葉が、頭に浮かぶ。

「一度、見てみたら?それで、何をすべきか 心の声にしたがうのも、面白いと思うよ・・・」

飛行機は揺れながらも、思いの他、すんなり着陸した。 長崎空港では、風は強いものの、天気は良い。

頭の中で、何かが閃いた。ひょっとしてヤレるのではないか? もし、野元さんが別の計画を入れられてしまっていたら、 それはそれで、しかたがない。 けど、もし、入れられてなかったら、そして、もし、今、カートップで きるなら、、、祈るような気持ちで、野元さんに電話を入れた。

「そっち(鹿児島)の風はどうですか?車にシーカヤック、積め ませんか? OKなら、出発地点に集まるだけ集まりません?」

「今なら、なんとか、積めます。了解しました。いきましょう!」

の力強い返事。幸い有明海を横断するフェリーも運航している とのこと。今回、べさはやの「海の部」に使用するシーカヤックは、 すべて野元さんが主催する「鹿児島カヤックス  」のフネをお借り することになっていた。

野元さんの参加なしには、スタートは切れないし、事実上、す べて中止ということになるのだが、ここで、ぎりぎり首の皮一枚で 繋がった! もし、早朝、羽田空港からかけた電話で、鹿児島が暴風 域にある時に、強行に計画の遂行を主張していたら、おそらく 野元さんは、正確な判断ができない僕が隊長を務める 「べさはや隊」の旅から、魅力を感じなくなったことだろう。

下手をすれば、今回のボランティアとも言えるバックアップを 辞退することさえありえたのではないだろうか。 後で、再会した野元さんの言葉。

「あのあとの2時間で、好転しました。フェリーもギリギリで したが乗れましたし・・・」

何か見えない力が僕らに味方してくれている。。。そんな気 がした。でも、2度お会いしているのに、オイラの顔を忘れて いたなんて。。。

「僕は、おねーさんだけしか、記憶に残らないんです!」

きっぱり言い放つ海の達人に、心強いやら、楽しくなるやら、 やっぱり野元さんに声をかけてよかったと改めて思った。 長崎空港からバスで諫早駅へ。公衆電話で、小長井漁協 の森さん、有明漁協の松本組合長、島原漁協の中田さん に電話連絡。

森さんに森水産からの出艇の許可を頂いた。 潮受け堤防の北部排水門の外側の海で、赤潮が 発生していることを聞いて、有明海への諫早干拓が 及ぼす影響の酷さを改めて思い知る。 大潮、台風などの後だというのに。。。。 死の調整池を越えて、待ち受けるのは赤潮の海。 厳しい航海になりそうだ。 1日目の到着予定地の有明漁協の松本組合長からも上陸の許可をもらう。 しかし、松本組合長は研修で、上陸予定日不在とのこと。 松本部長に連絡を取る。中田さんの携帯にはつながらない。

愛の町の町議、原田敬一郎さんに電話を入れると、 会議が終わったら拾いあげてくれるとのこと。 渡辺さん、ビデオコンテントで世界一に輝いた佐藤巨匠からも台風についての、「慎重にね」 メールをいただく。うんうんうなづいた。

本明川の河川敷を強い風に向って歩いて、諫早湾へ向う。 はじめて目の当たりにするには、車で行ってぱっとみるのと、 少し時間をかけて到達するのでは、感じ方が異なるように 思える。1時間強歩くと遠くに北部排水門が見えた。 長良川河口堰のまがまがしい形と重なり、怒りが沸いてきた。

それから、原田敬一郎さんと合流。世の中は広い。 こんな素敵な人と出会える幸せよ。

原田さんの魅力が諫早干潟を守る会の人たちを結びつける 核になっているのだろう。僕も、そんな原田さんの人間的 魅力の虜になってしまった一人だ。

諫早干拓のいろんな事実を知る。干拓地で採れる米は、 5月を過ぎると不味くなるという。 昭和三十二年七月の諫早大水害では七百六十人の死者 行方不明者を出し、五千三百戸が全半壊した諫早大水害は、 高潮ではなく本明川にかかるめがね橋を流れてきた木材が ふさぎ、あふれ出たことによる水害、つまり鉄砲水の山津波 が原因であるなのだ。そして、米のつくり手がいないこと、 諫早湾の踊り牡蠣、ムツゴロウなどの海産物や、堤防外の タイラギ、クチボソ、ガザミなどの高級魚が壊滅的打撃を うけたことなどを聞く。

原田さんとの話に夢中で、駅のコインロッカーに預けた荷物 をピックアップするのを忘れ、原田さんに回収を、お願いする ことになってしまった。大変失礼しました。

白浜桟橋で、下草刈りを手伝う。暑さと飛んでくる茎の束と 格闘していると、時津さんがやってこられた。話をしていると、 北部排水門の上に、小さな虹がかかった。

「諫早の海は、別名、虹の立つ海と言うのですよ」

と時津さんが教えてくれる。 宝の海、そして虹のかかる海。・・・ どこかで、なにかかが僕に向って合図を送っているような気がした。

「がんばって!この海を助けて!」

と・・・、そのとき、やれる。この「べさはやの旅」はきっと成功し、 素晴らしいものになると確信めいたものが生まれた。

今までいろいろ所を旅したが、自然現象や野生動物との 偶然の出会いはなんらかの意味をなすことが多い。 僕は自分の生き物としての直感、地球を感じる力を信じている。

野元さんが、海の部の紅一点、小野ちゃまを、諫早駅で、 ピックアップしてから夕闇せまる白浜桟橋にカヤック満載で やってきた。ダブル艇3ハイ。シングル艇1ハイ。 これで7人までなら偶数奇数の漕ぎ手に対応する。

初めて会う小野ちゃまは、可愛くて、元気で、ちっこかった。

エイサー太鼓隊のバスも到着。こちらも元気で可愛い女性たち がワンサカ、降りてくるではないか!!いいぞ!いいぞ!

観客3人に総勢20名ちかい楽隊のコンサート。 なんという贅沢!!! 最後は廻ってきた太鼓を持って、踊りながら乱舞。 汗だくになったが気持ちの良いこと。 十六夜の月が笑いながら僕らを照らす。気持ちがいい。

終わってエイサー太鼓のみんなとかたらっていたら、熊本県人吉在住の 陶芸家、ちゃわんやさんと、ひらめちゃんが合流。

山崎まさゆきさんのぴりからカレー、原田さんの奥様作の 牛筋煮込みに舌鼓。 エイサー団長の奏でるサンシンの音色が心地よい体に染みとおった。

明日の航海のも調整池内と堤防突破に、山崎さんと、原田さん も同行することになった。心強い。 新聞社の取材のオファーは、長崎新聞、読売新聞の2社。 楽しい時間は早く過ぎるもので談笑していて気づくと午前2時。 慌てて就寝。明日いや、本日に備える。 雲仙が月光に浮かび上がり勇壮な光景だ。 ここが元気な干潟の海であった時代(とき)に想いを馳せた。