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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第四章 「生者達の舞踏」】


 「ファルシオン様、ファルシオン様。どうぞ扉をお開けください」
 昼間から何回も、ハンプトンが寝室の扉を叩いていった。
 その度に、ファルシオンは彼女の入室を拒否し、扉に鍵を掛けたまま絶対に中に入れようとはしなかった。当然ハンプトンは合鍵を持っていたが、さすがにファルシオンの許可なく扉を開ける事はしないようだ。
(ハンプトンもきらい)
 だってファルシオンを、どこにも行けないようにしてしまったのだ。窓の外に見える庭園には、昨日の二倍の警護官が立っていて、ラナエに会いに行きたくても部屋を出た途端に見つかってしまう。
(口をきかないんだ)
 ハンプトンは何度かまた扉を叩き扉を開けるよう呼び掛けていたが、今度もファルシオンは一生懸命唇を結んで返事をせず、やがて諦めたのか足音は遠ざかった。
 ハンプトンが困り切って落とす溜息の音も、一緒に聞こえるような気がする。けれどファルシオンは、寝台の柔らかい枕に顔を伏せ、ぎゅっと目をつぶって聞こえないふりをしていた。
「兄上に会うんだ」
 父王にも、レオアリスにも、もう頼まない。
 自分一人でラナエに会って、彼女から兄の居場所を聞いて、会いに行くつもりだった。
「兄上をたすけるんだ」
 今は無理でも、もっと夜中になったら、きっと抜け出す機会があるだろう。
 そう思ってファルシオンはじっと、夜が更けていくのを待っていた。



 噴水の傍に立っていた王宮警護官は、小さな水音に辺りを見回した。ぴちゃぴちゃと、水が石を叩くような音だ。
 背後の噴水からだろうかと首を巡らせて眺めたが、この時間水は止められている。音ももう静まり、警護官はまた顔を戻した。
 あと二刻もすれば、夜が明ける。庭園は月の光の中、眠ったように静かだった。
 王子の寝室の窓を見て、警護官は穏やかな気持ちで息を吐いた。
 昨日の昼からファルシオンの身辺警護が強化され、王子の身に何か問題でもあってはと落ち着かない気持ちが強かったが、今のところ全く問題は無さそうだ。朝、交替の折には何事もなく、ファルシオンの笑顔が見られるだろう。
 それを思い浮かべ、つられるように微かに笑みを零した瞬間――警護官の身体は、噴水の池から伸びた手に引かれ、水の中に落ちた。
 静まり返った庭園に、水の跳ねる音が響く。
 すぐに周囲の警護官達が気付いて、噴水へ駆け寄った。立っていたはずの位置に姿が無いという事は、噴水の池に落ちたのだ。
「オリバー!?」
 同僚の名を呼び、数人が覗き込んだが、月の光でさえ底まで見通せる程度の浅い水の中には、誰の姿も無かった。
「何だ、蛙か何か飛び込んだのか? ……オリバーのやつ、勝手に持ち場を離れやがって」
 眉をしかめ、覗き込んでいた警護官達が立ち上がろうとしたその時、彼等の影を追うように池の水面が盛り上がった。薄い布が多い被さるように、驚愕に立ち竦む警護官四人を水の膜が呑み込む。
 声が上がったのは、四人を巻き込んで戻った水面が、とぷんと揺れた後だった。
「な――何だ!?」
「気を付けろ、何か」
 得体の知れない恐怖を感じ、警護官達は噴水から距離を取りながらも、その回りを囲んだ。
 手に手に抜き放たれた剣が、月光を弾く。
 その白刃が取り囲む中、再び水面が盛り上がる。今度は円柱のように高く伸び、蠢きながら形を変えた。
 人の形に。
 驚愕の声が上がる。
 それは削り出された彫刻のように完全な人の姿を取り、足先まで姿を現して、まるで地面に立つが如く水面に立った。
 一見しては、人間だ。普通の、十七、八の少年。ただ、全身が発光しているように見える。
 その理由はすぐに判ったが、余りに信じがたい事だった。
 身体全体に、薄い水の膜を纏っているのだ。
 白に近い銀の髪が、月の光を吸い込んだ雫を滴らせる。
 イリヤは周囲を囲む警護官達の驚愕を余所に、噴水から芝の上に、足を踏み出した。
「――ラナエはどこ?」
 平然と、道を尋ねるようにそう聞いた。
「……な、何?」
「ラナエ・キーファー。どこにいる?」
 警護官達は答えなかったが、イリヤは彼等の視線が向いた先を見て、瞳を細めた。
 ぴしゃ、と濡れた足音が鳴る。そのままイリヤは、剣など見えていないかのように、庭園を歩き出した。彼の身体を覆う水の膜が騒めく。
「煩いな。ラナエが先だ」
 誰かに答えるように呟く。
「ま……待てッ!」
 警護官達が走り寄り、一人がイリヤの腕を掴む。イリヤが振り向く前に、身体を覆っていた水の膜が、警護官の腕をずるりと這い上がった。
「うお」
 腕を引く間もなく、警護官の身体が水の膜に包まれる。まるで水の中に落ちたように、警護官の口から空気の泡が漏れた。
「ヘイル!」
「貴様、止まれ!」
 別の警護官が踏み込み、手にした剣がイリヤに向けて振り下ろされる。
 向き直り、イリヤは切っ先を見つめた。
 右眼が、金色の光を帯びる。
 イリヤ自身自覚していなかったが、その光は今までとは比べ物にならない程の輝きを有していた。
 イリヤを捉える前に、剣は音を立てて砕けた。
 その金色の光が何を意味するのか――、判っていた訳ではないが、警護官達は息を潜め、退いた。彼等はその色を知っている。
 王の、黄金。
 イリヤの身体を覆っていた水が、足元の地面に流れ落ちた。光を嫌ったようにも見える。
 水は芝を張った土には染み込まず、ぶるんと震えて盛り上がった。
 ビュルゲルの使隷が、人型を取って身を起す。
「このっ!」
 振り抜かれた切っ先が容易く胴を真っ二つに断ち切り、ばしゃんと水音を弾かせて使隷の姿は崩れ、再び水溜まりに戻った。
 イリヤは気にした様子もなく、悠然と侍従達の宿舎へと向っている。それを追おうとして踏み出し、警護官達は呻き声を上げて後退った。
 水溜まりから、今度は二つの頭が、盛り上がった。
「――増えやがる」
「こいつ、何なんだ」
 不気味さに怯みかけた警護官達の背後から、叱咤の声が奔る。
「何をしている、守りを固めろ!」
 庭園を駆けて来る警護官長シルマンの姿に、たじろいでいた警護官達の間に束の間の安堵が戻った。
「シルマン隊長!」
 部下達の中に走り込んだシルマンは、揺らめく二体の異形と倒れている警護官、そして悠然と庭を歩く少年の姿に、唇を歪めた。
 ここは王の居城だ。この王都のどこよりも強固な防御陣が張り巡らされた場所――そこに、侵入者がある事自体、目の前にしても信じ難い事だった。
「――あいつは何者だ。これは」
 歯軋りしながらもシルマンは片手で合図を送り、ファルシオンの館を守る為の指示を出す。
 警護官達は剣の柄を握り直し、ファルシオンの館と人型の間に壁を作った。驚愕が僅かに冷め、自分達の目的を思い出した事で、彼等の間に漸く落ち着きが戻り始めた。
 彼等が守るべき者は、幼い王子だ。幸い侵入者はファルシオンの館とは別の方向に向っている。
「事情が判っている者は状況を報告しろ」
「噴水から侵入してきました。目的は判りません」
「噴水だと? 何だそれは」
「判りません。何らかの術ではないかと」
 術、とシルマンは口の中で呟いた。この居城の防御陣を破るほどの術など、それが本当なら今ここで起きている騒ぎなど比べ物にもならないほどの、重大な問題だ。
「――奴は何か言っていたか」
「ラナエはどこかと、そう言っていました」
「ラナエ――? まさか、あれはイリヤ・キーファーか」
 シルマンの知る限りでは、イリヤはちょうど今頃、王都から移送される為に司法の警備が付いた馬車に乗せられているはずだ。それが何故、こんな所にいるのか。彼の情報はシルマンの元にはあまり入らなかったが、その中に彼が術士だとは書かれてはいなかった。
 だが考えている暇はない。シルマンは戸惑いながらも、傍らの警護官の腕を掴んだ。
「アヴァロン閣下と――師団第一大隊に連絡しろ。王の剣士を」
「はっ」
「我々は殿下をお守りする。十名で、殿下を安全な場所へお連れしろ。残りはここで、侵入者を捕縛する」
「了解――」
 力強く頷き動きかけた彼等を嘲笑うかのように、背後で噴水がごぼりと鳴った。息を飲んだシルマン達の視線の先で、もう一体、同じ人型が噴水から這い出してくる。
 びしゃり、と手足を芝の上に付いた瞬間、人型は四つん這いのまま猛然と前進を始めた。シルマンが剣を抜き、迫り来る使隷とファルシオンの館との間に立ちはだかる。
 アヴァロンへの伝令を携えた警護官は、すぐそこにある邸内への扉へ飛び込み、そのまま駆けて行く。彼の後を追おうとした人型に数本の矢が突き立った。シルマンが叫ぶ。
「伝令と、殿下の護衛を先に行かせろ! 何があってもそれが最優先だ! 守れ!」

 背後は次第に騒がしさを増していく。それを聞くともなしに聞きながら、イリヤは廊下を歩き、目的の部屋に辿り着いた。
 見張りが立っている為に、すぐにそこだと判った。
 イリヤの足元から伸びた水の塊が、二人の見張りを包み、抵抗も許さず床の上に転がす。それを一瞥して、イリヤは扉を開けた。
 一睡もできないまま寝台の上で膝を抱えていたラナエは、突然開いた扉にびくりと身を縮めた。扉の所に立つ人影は、最初廊下の明りに邪魔をされて、顔が全く見えなかった。
「ラナエ」
 その瞳が驚きに見開かれる。
「――イリヤ……?」
 最初は信じられないように見つめ、それから喜びが頬を輝かせた。ラナエは寝台を飛び出し、イリヤに抱き付いた。
「イリヤ、イリヤ――! 心配したのよ、貴方が捕まったって、」
 感極まった口調が、途中で閉ざされた。イリヤの身体がびっしょりと濡れていて、その事と触れた腕の冷たさに、ラナエは僅かに身体を引いてイリヤの顔を覗き込んだ。
「……イリヤ……?」
 街にいた頃の彼とも、王都で一度会った時の彼とも、今目の前にいるイリヤはどこか違う。ラナエの不安そうな瞳へ、イリヤは翳りを隠した微笑みを返した。
「迎えに来たんだ、行こう」
「迎えにって……じゃあ貴方、もしかして許されたの? ――もしかして、陛下と」
 今度は期待と喜びに頬を輝かせ、ラナエはイリヤの瞳を覗き込んだ。
「いいから」
 イリヤはさり気なく顔を反らし、ラナエの手を引いて、半ば強引に部屋の外に出た。
「イリヤ、私、勝手には」
 部屋を出た瞬間に眼にした光景に、ラナエは絶句した。警護官が何人も、床の上に倒れている。誰もがこの二ヶ月で見知った顔で、言葉を交した事も少なくない。ラナエがこんな立場になっても、手荒な事はしなかった人達だ。
「どうしたの、一体」
 駆け寄ろうとして、腕をぐいっと引かれた。イリヤは彼等の事など気にした様子もなく、ラナエの手を引いて廊下を歩いていく。ラナエはイリヤの横顔と、倒れている警護官達を見比べた。
「待って……皆が、倒れてるのよ、皆、何で」
「いいんだ」
「でも」
 イリヤは振り向かず、顎の線だけをラナエに向けたまま、小さく答えた。
「俺がやったんだから」
 茫然と立ち止まりかけたラナエを、イリヤは腕を引いて促し、建物の出入り口から再び庭園に出た。ラナエは逆に腕を引くように、断固として立ち止まった。
「――イリヤ、説明して、一体……」
 ラナエの瞳が、イリヤの背の向こうに広がる庭園の上に吸い寄せられる。月明かりに照らし出された光景を目の当たりにし、ラナエは今度こそ立ち竦んだ。



 悲鳴、何かが倒れる音、叫び。
 薄い水の膜が生き物のように動き、襲い掛かる。
 呼吸を奪われ、やがて動かなくなる。
 切り裂けば増え、あちこちに半透明の人型が揺れる。
「殿下をお守りしろ!」
「殿下の元に辿り着け」
 呼び交わし、庭園を走る警護官達の前に、ふいに水の膜が立ち上がる。

 はっとファルシオンは瞳を見開いた。
 いつの間にか、寝てしまったのだろう。
 慌てて起き上がった時、室内は暗かった。昼間からずっと誰も室内に入れなかったせいで、灯りを灯していないのだ。月明かりだけが、庭園に面した窓から室内に差し込んでいる。
 今は何時だろう。
 辺りはしん、と静まり返り、物音一つしない。では先ほどの物音は夢だったのだろうか。
 怖い、夢だ。
(やだ……)
 不安が幼いファルシオンの心をちろちろと炎の舌のように舐める。
 この静けさは嫌な――とても、嫌な感じがする。
「ハンプトン……」
 不安から思わず呼び掛けてしまい、怒っていたのだと思い出して、ファルシオンは口を押えた。
 寝台からするりと降りて窓際に近寄り、庭園にいる警護官達の姿を確かめる為に、その姿を見て安心したくて、そっと窓の外を覗いた。
 ファルシオンの金の瞳が戸惑って見開かれる。
 あれほどいた警護官達の姿が見えない。月明かりに照らし出された庭園には、誰もいなかった。
 いや――。
 綺麗に整えられた芝や植え込みのあちこちに、黒い影が横たわっている。
「――え」
 眼を凝らし、それが警護官達だと、はっきり判った。ファルシオンの部屋の露台の近くにも、何人かが重なるように身を横たえていた。ファルシオンは窓に掛かった日除け布を握ったまま、じっとその姿に瞳を注いだ。
 おかしな光景だ。何で皆、眠っているのだろう。こんなに寒いのに風邪をひいてしまう。
「みんな」
 ファルシオンは硝子戸を開け放ち、庭園に降りる露台に出た。暖かい室内とは打って変わった冷たく張り詰めた空気が、ファルシオンの小さな身体を震わせる。
 物音一つしないその光景は、まるで夢でも見ているように現実味がない。
「あ――」
 眠っている訳ではないのだと、幼いファルシオンの眼にも判った。倒れて――意識が無いのだ。もしかしたら、意識が無いだけではなく……。
 露台の手摺りに掴まり、警護官達の様子を良く見ようと身を乗り出していたファルシオンの視線は、ふと一点に引き寄せられた。そのまま、呼吸を止める。
 庭園を、ゆっくりと歩いてくる影がある。
 更に身を乗り出そうとした時、廊下を走る音が聞こえ、扉が激しく叩かれた。
「ファルシオン様、扉をお開けください、ファルシオン様!」
 ハンプトンだ。ハンプトンが扉の向こうで呼んでいて、その事に安堵を感じながらも、それは完全に意識の外にあった。ファルシオンは手繰り寄せられるように庭園に降りた。
 庭園は昨夜よりもずっと、明るい月光に満ちている。冷たい風が、ゆっくりと吹き抜け、ファルシオンの銀の髪を撫でていく。
「――」
 ファルシオンが瞳を見開いて見つめる中、その少年は月明かりの注ぐ庭園を横切り、ファルシオンと向かい合うようにして、噴水の傍に立ち止まった。
 彼の周囲には幾人もの人が倒れていたが、彼がそれを気に掛ける様子はなく、ただ穏やかな庭園に立つような風情をしている。額縁の中に描かれた絵画のような光景だ。
 懐かしさとも言うべき想いが、ファルシオンの心の中に沸き上がる。
 冬芝を踏み、ファルシオンは一歩近付いた。
 心臓が、どきどきと鳴っている。
「……だれ?」
 小さな呟きだったが、少年はゆっくりと瞳を向け、ファルシオンを見つめた。
 不思議な、緑色と金色の瞳。
「――やあ、初めまして、だね。ファルシオン」
 イリヤは柔らかい、花のような笑みを向けた。金と緑の瞳が、それぞれ違う光を刷いて揺らめく。
「判るかな。俺は君の――、兄だよ」
 大きな瞳を見開き、ファルシオンはイリヤの顔をまじまじと見つめた。
「――兄、上……?」
 月光を浴びて銀糸のように光る髪、同じ深い金色の瞳は、確かに二人の間に血の繋がりを感じさせた。
 兄がいると聞いていて、会いたいと願っていたが、どこに居るかなど知らなかった。顔も想像ばかりで、絵姿すらない。
 突然、考えもできない状況で出会いながら――それでもファルシオンには、その言葉が真実なのだと判った。
 身体の奥底から、喜びが込み上げる。
 会えたのだ。ずっとずっと強く願っていたから、その願いが叶ったのだ。
「兄上!」
 歓喜を身体一杯に弾けさせ、ファルシオンはイリヤに駆け寄り、抱き付いた。
 イリヤは黙ったまま、ファルシオンの肩にそっと手を置いた。その手の位置が、ファルシオンの喉元に近い。
「兄上、会いにきてくれたんだ」
 見上げるファルシオンの瞳に宿るのは、ただ煌めくような思慕と、喜びだ。
 イリヤは一瞬、怯むように顔を背けたが、すぐに口元を笑みに弛め、柔らかい眼差しを向けた。その奥に一点、胸を凍らせるような、冷えた光がある。
「そうだよ。君に会いに来た」
 イリヤの手がゆっくりと動き、細い首に近付いていく。喉にかかる瞬間、イリヤの背後から声がした。
「イリヤ!」
 ぴたり、とイリヤが動きを止める。予想外の声に、ファルシオンはイリヤの背後を見た。
「――ラナエ」
 ラナエが、芝の上に膝を付き、両腕で身体を支えるようにして身を乗り出し、二人を見つめている。
「ラナエも、けがをしたの?」
 ファルシオンは驚いて、イリヤとラナエの姿を見比べた。
 よく見れば、芝の上に付いたラナエの腕は小刻みに震えている。ファルシオンにも、彼女が怯えているのだと判った。
「兄上、ラナエは」
 ファルシオンの言葉が、口の中で小さくなって消える。不思議なのはラナエの事だけではない。そもそも何故、警護官長のシルマンや、警護官達が倒れているのだろう。
「ファルシオン様!」
 もう一つ声がして振り返れば、ハンプトンがファルシオンの寝室から庭園に走り出て来たところだった。ファルシオンが侵入者の傍に立っているのを見付けて、ハンプトンは悲鳴に近い声でファルシオンの名を呼んだ。
「ファルシオン様! 離れてください、こちらに……」
 ハンプトンの声も、ラナエと同じように震え、怯えている。怖くなって、助けを求めるようにファルシオンはイリヤを見上げた。
「兄上、何があったのですか――? なんでみんなが」
 まさかファルシオンは、イリヤが彼等に何かをしたなどとは考えてもみなかった。ラナエは恐怖に張り詰めた顔で、それでもファルシオンを見上げ、首を振った。微かに唇が動く。眼にした光景の衝撃と恐怖に掠れた喉で、必死にファルシオンに、何かを訴えようとしている。
 イリヤの手がもう一度、ファルシオンの肩に掛かった。
「ファルシオン様!」
 イリヤは駆け寄ってくるハンプトンの姿を笑って眺め、それからファルシオンに触れようとしていた代わりに、右手を差し伸べた。
 優しく、誘うように。
「俺はもう行くけど……ファルシオン――、君も来るかい?」
「兄上――」
 手を伸ばしてはいけない。
 はっきりと頭の中にそう浮かんだものの、ファルシオンは引かれるように右手を上げた。
 ぐ、とイリヤの手がファルシオンの手を掴む。
「お戻りください、ファルシオン様!」
 ハンプトンが悲痛な叫び声を上げ、走り寄る。イリヤが視線を上げる。
 イリヤの右の瞳が煌いたと見えた途端、ハンプトンは見えない壁に弾かれたように、地面に倒れ込んだ。
「ハンプトン! ハ」
 イリヤはファルシオンの口を塞いだ。振り返ったファルシオンの瞳に映ったのは、あくまで穏やかな笑みを浮かべたイリヤの姿だ。
「静かに。まあ、騒いでももう誰も来ないけど」
「イリヤ、やめて! ファルシオン様は」
 ラナエが声を上げ、イリヤの腕に縋り付く。イリヤはやんわりと、その腕を解いた。
「心配しなくてもいいよ。別にどうこうする訳じゃない。ただ――、一緒に来てもらうだけだ」
 辺りに散っていた水が滑るように芝の上を動き、噴水の囲いを登って、内側に零れ落ちた。
「イリヤ」
「行こう。ラナエ、君も」
 ラナエの腕を取り、ファルシオンの身体を右腕で抱えるように捕らえ、イリヤが噴水の中に踏み込む。水底に沈みかけたその足が、ぴたりと止まった。
 イリヤが振り返るのと、鋭い声が走ったのは、ほぼ同時だった。
「――止せ、イリヤ!」
 ファルシオンの寝室の露台に、レオアリスの姿がある。月光よりも尚青白い光――剣光が、レオアリスの全身を彩っている。発せられる身を切るような空気が、離れたイリヤの頬を叩く。レオアリスはそのまま、露台の手摺を飛び越えた。
「レオアリス……」
 ファルシオンはレオアリスへ、小さな手を伸ばしかけた。
 イリヤの唇が噛み締められ、だがすぐに、微かな、皮肉交じりの笑みに変わった。
 どれほど肌を切り裂くような剣光を纏おうと、レオアリスは剣を抜けない。イリヤの腕が、ファルシオンを捕らえている限りは。
 彼が走り寄る、その僅かな時間を待つつもりは無かった。
 止まっていたはずの噴水から、勢い良く水が吹き上がり、イリヤ達の上に降り注ぐ。
「待て!」
 イリヤとラナエ、そしてファルシオンの姿は、月光と水飛沫に溶けるように消えた。



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