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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第四章 「生者達の舞踏」】

十二

 ぐにゃり、と視界が歪む。
 視界だけではなく、身体の骨格まで歪み軋む気がした。
 ビュルゲルの使隷がどんな力を以ってこの移動を成し得ているのか、イリヤには考えても判らない。ただ不快だ、とそれだけだ。
 込み上げる吐き気に耐え、それから眼を開けた。
「――」
 どこだか見当が付かなかった。暗いせいもあったが、自分が意図した場所では無かったからだ。
 イリヤはキーファー子爵邸に飛ぼうとしていた。可能ならば、生れ故郷の、あの街に。
 だがここは、そのどちらでもない。水の上、とだけ判った。足元に地面の代わりに、水面が揺れている。
 ぎくりとしたが、漸く慣れてきた闇の周囲に、取り囲むように樹々の影が見える。
(森の中だ……)
 イリヤはほっと息を吐いた。一瞬、西海に連れて来られたのかとそう思ったのだが、西海ならばもっと果てなく広いに違いない。どこにいるのかも判らないが、少なくとも王都から南か西へ、移動したようだ。
 そう感じたのは、気温が大分変わったからだった。イリヤの育った西南の土地が、この時期このくらい暖かい。
 そこまで考えたところで、イリヤは漸く自分の腕の中にある重みに気が付いた。イリヤがしっかり抱え込んでいるせいか、二人ともイリヤに寄りかかるようにして、やはり水の上に立っている。ただ移動の影響からか、気を失っているようだった。
 ラナエと――、ファルシオン。
(ファルシオン……)
 イリヤは初めて会う幼い弟の顔を、束の間見つめた。
 銀の髪、今は瞼の下に隠されているが、深い黄金の瞳。話に聞くだけの王の姿に、きっと良く似ているのだろう。
 自分を見つめ――輝いた、あの瞳の色。それを思い出し、ざわりと心が騒めいた。周囲を囲む樹々が身を揺する音のようだ。
 そうだ、確かにあの時、ファルシオンはイリヤを見て、兄と言う言葉を聞いて、瞳を、輝かせた。
 初めて会ったにも関わらず、まるでずっと待ち望んでいたかのような――
「まさか、そんな事」
 くだらない想像を振り切るように吐き出し、ただもっと良くその顔を覗き込もうとした時、身体を抱えていた腕の力が弛み、ファルシオンの身体がずり落ちかけた。
 すぐ捕まえ直したが――、彼の裸足の爪先は、水面に浸っている。
「――」
 イリヤはじっと、ファルシオンの爪先を洗う水を見つめた。
 このビュルゲルの使隷の力が及ぶのは、イリヤが触れているものまでなのだ。いや、イリヤが支えているから、今のように水面に立っているように見えるに過ぎない。
 手を離せば、当たり前に、水の中に沈む。
 もう少しだけ、力を緩めれば。
 水は深いだろうか。暗いせいで浅いのか深いのかも、全く判らない。
 手を離し、ファルシオンが目覚める事なく沈めば――
 緩やかな風が、水面を渡る。
 風はファルシオンの柔らかい銀髪を撫で、揺らした。
「――」
 イリヤは二人を抱え直し、水面を歩き出した。二人の重みをあまり感じないのも、使隷の力だろうか。
 ほどなく、冬枯れた下草の生えた地面に辿り着いた。湖のように広いのかと思ったが、広い池程度の大きさのようだ。
 足に地面の感触を感じた途端、どっと身体中の力が抜け、イリヤはその場に膝を付いた。二人を岸辺に横たえ、自分もごろりと仰向けになって、大きく胸を上下させる。
 見上げた空に星が見える。月は樹々の向こうに隠れているが、慣れてくると意外と明るく感じる。ここはどうやら、池を取り囲むようにぽかりと空いた、森の中の空き地のようだった。森と言うより林に近いかもしれない。
(どこだろう――)
 何故この場所なのだろう。ビュルゲルが何か、操作をしたのだろうか。そのビュルゲルの姿は、近くには見当たらない。
 いつまでもビュルゲルがイリヤ達を放っておく訳がないと思いながらも、その姿がこの場にない事には安心感を覚えた。
 強い睡魔が全身を絡め取るように湧いてくる。
 何もかも、どうでもいいほどの睡魔にイリヤは瞳を閉じかけたが、その途端びくりと身体を震わせて飛び起きた。
 閉じた瞼の裏に、あの光景がくっきりと浮かんだからだ。
 最初の橋の上の襲撃、あれはただひたすら恐怖を感じただけだったが、月光に照らし出された庭園に人が点々と転がる様――それは、イリヤ自身が手を下したものだ。
 殺そうと意識したつもりはないが、邪魔だとはっきり思ったのは、変えようの無い事実だった。
 当然追っ手が掛かるだろう。
 何よりファルシオンを、第一王位継承者を攫ったのだから、この国の威信にかけて、決して逃れる事などできないはずだ。
 それが来れば、イリヤを迎える結末は決まっている。
(ラナエを、逃がさなきゃ……)
 この森から――イリヤの傍から、ラナエだけでも離さなくてはいけない。できれば、どこか近くに家を見つけたら、どうにか頼み込んで一晩預かってもらって……
 そう思いながらも、身体が鉛のように重く、自分の意思では動きそうになかった。
 ゆっくりと、東の空が白み始めている。
 影に隠れていたものが、次第に明確な輪郭を持って白っぽい大気の中に現れていく。
 イリヤは何気なく周囲の景色を眺め――、そして凍り付いた。
 色違いの二つの瞳が、一点を見つめて見開かれる。
 信じられない、それでいて良く見知ったものが、そこにあった。
 彼等が今いる位置から、ちょうど四分の一ほど円を描いた辺りの岸辺に、小さな固まりが落ちて――置かれている。
 よろめきながら立ち上がり、イリヤは重い足を引き摺るようにして、それに近付いた。
「……何で、ここなんだ……」
 白い、片腕で抱え切れるほどの小さな石。
 そこにあったのは、彼の母の墓標だった。



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