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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第四章 「生者達の舞踏」】


 どん、どん、と重くくぐもった音がして、イリヤは横たわっていた寝台から身を起こした。
 時計が無いから何時だかは判らないものの、おそらく深夜に近いという感覚があった。
 昼からずっと横になったまま目を閉じていたが、眠っていた訳ではなかった。
 今も目は冴えている。
 どん、とまた音がして、イリヤは闇の中を見透かした。
 扉だ、多分。
 厚い石のせいで思うように音が響かないが、この牢の扉を、誰かが叩いているのだ。
 そう思った時、扉に刳り貫かれた小窓を通って、声が響いた。
「イリヤ――」
 男の声だった。
 どくりと、心臓が跳ねる。
(まさか)
 イリヤは無意識に、暗がりを扉へと近付いた。
(まさか――)
 石の扉にぴたりと手を付いた瞬間、鋭い鞭のような声が耳を打った。
「イリヤ・キーファー! 起きろ!」
 それが看守の声だと気付いたのは、一呼吸後だ。
 ゆっくりと、足に向かって血が下がっていく。足元がふらついたのは、暗いせいだ。
「イリヤ・キーファー!」
「――起きてる」
 思いの外近くで答えが返った為に、看守は驚いたようだった。
「……聞こえているならさっさと返事をしろ!」
 何度も扉を叩いて呼ぶくらいなら入って来て起こせばいいのにと思ったが、多分入る事を禁じられているのだろう。実際看守は、イリヤには極力話し掛けないようにと、上官から言われていた。
「何の用だ。今は何時?」
 看守はそれには答えず、厚い扉の向こうにいるだろう少年の姿を睨んだ。
「良く聞け。お前の判決が下りた」
「――」
 何を言っているのか、全く判らなかった。
 こんな時間に、寝ぼけているのじゃないか。
「判決――? 何の話だ」
「夕刻、法廷での審議が行われ、お前の処遇が決まったのだ」
「法廷? 審議って、一体」
「審議の結果、西海との謀略の罪により、お前の父キーファー子爵家は爵位剥奪と領地の没収され、王都から追放となった」
 イリヤは息を飲み込んだ。
 審議とは、イリヤが起こしたこの事件の審議の事か。
「――そんな審議があるなんて、聞いてない……」
 そんなものがあるなら、イリヤも呼ばれて然るべきだ。
 そもそも爵位剥奪と領地の没収? 何故それだけの罪で済むのか。
「そんなはずは」
「お前も同様に、王都から追放される。あと一刻後、用意が整い次第、王都から移送する。ここを発つ準備をしておけ」
「どういう事なんだ」
 だがその声は擦れて喉から出ただけで、厚い闇を震わす事はできなかった。
 問いかけに答えは返らず、こつ、と硬い音を立てて靴音が離れていく。
「――待て!」
 イリヤは力の加減も忘れて分厚い石の扉を叩いたが、もう扉の向こうに気配は無かった。
 茫然と立ち尽くし、イリヤは闇を凝視した。
 次第に、鼓動が大きくなっていく。
 喉を圧迫するようにのしかかる塊に呼吸を邪魔され、息が苦しい。
 苦しい。
 追放――。
 王都から。
 ただ地位と財産を召し上げられるだけで。
「それだけ……」
 力なく両腕を垂らしたまま、イリヤは闇の中に薄い影のように浮かび上がる扉を見つめた。
 それはもう、王に向かって開かれる扉では無かった。
 扉は閉ざされたまま、開く事はないのだ。
 立ち尽くし、どこを見つめるでもなく、誰に語りかける訳でもなく、イリヤは呟いた。
「――会ったら、死ぬだろうと思ってたんだ」
 自分の過去を知り、父王に会おうと思った時から、イリヤは自分を待つ結末を理解していた。
 自分は第一王位継承者を暗殺した一族の子で、生きていたら争乱の元となる。王家の威信は、イリヤが罪を逃れ生きている事を認めないだろう。
 王に会い、自分の存在を認めさせる事は、そのまま死を意味すると、そう思っていた。
 それでも良かった。
 ただラナエには、自分の本当の目的は言えなかった。
 会えば、自分は死ぬだろうなどと。
 それでも、生まれてから一度も自分達を顧みなかった相手に、自分が生きている姿を見せつけてやりたかったのだ。
「ただ、それだけだ」
 だから、ただ、会う為に、王都に来た。
 会って。
「会う事もない――」
 瞳を見開いたまま、無意識に数歩歩き、空を仰ぐように顔を上げた。壁の高い位置にある小窓から、夜の空に密やかに星が瞬いているのが見える。
 天空に散りばめられた星。
 あれは、地上に撒いたあの青い花とはやはり、違う。
 青い花は星にはなり得ず、ただ、紛い物だ。
 イリヤはくすりと笑った。
「そうか――。それじゃあ、死にもしないんだな、俺は」
 自分は一体、何を根拠に、こんな所まで来たのだろう。会って、ただ生きている事を告げる。そんな事が本当に可能だと、何故信じていたのだろう。
 溜息よりも微かな言葉が、ほとりと冷たい石の床に落ち、砕けた。
「そんな必要がない――。王の子じゃないから」
 小さな窓からは、遠い天空で光る星以外、誰もイリヤの姿を見る者はいない。そしてそのかそけき星の光では、足元には、自分の影すら落ちなかった。
「殺す意味も無い――」
 イリヤは、自分の立場を理解した。
 自分はありもしない希望だけを追っていたのだ。
 手など届きもしないのに。
「ミオスティリヤ――この名のとおり、忘れ去られたんだ」
 イリヤの瞳から涙が溢れ、一筋頬を伝った。



 ロットバルトがレオアリスの自宅を尋ねたのは、深夜を過ぎた頃だった。
 遅い時間の訪れにも関わらず、レオアリスはまだ軍服を着替えずに待っていて、ロットバルトを居間に通した。壁際の暖炉には火が焚かれ、部屋は暖かい。帰ってからずっとここにいたようだ。
 居間の造りはロットバルトの館と大差はなく、この館を支給された時から少しも内装が変わっていない。相変わらずのその室内に、そういえば以前、部屋数が多過ぎて使い切れないと零していたのだったかと、今この場では余り関係のない事を考えながらロットバルトは勧められた長椅子に座った。
「イリヤは、どうなる?」
 口を開いて、レオアリスは真っ先にそう尋ねた。
「――」
「ロットバルト」
 漆黒の瞳に、暖炉の赤い光が踊るように映り込んでいる。
「この未明、イリヤ・キーファーは王都から移送されます」
 レオアリスは身を起こし、ロットバルトを見つめた。
「……未明……そんなに早いのか」
 判決が下ったのだ。イリヤも遠からず王都から追放される事は、確認しなくても判っていた事だ。
 王家とは何の関わりもない存在として――、いや、一切そんな事を伺わせる要素すらなく、イリヤは王都を去る。
 レオアリスはじっと、俯いていた。暖炉で揺れる炎が、その前に置かれた長椅子や卓、そして二人の影を不安定に床の上に落としている。
 暫くその揺れる影を黙って見つめていたが、やがてゆっくりと息を吐き、レオアリスは顔を上げた。
「イリヤに面会できないか」
「――」
 それはレオアリスがイリヤの動きを調べて欲しいと言った時から、予想できていた言葉でもあった。驚く事もなく、取り敢えずはただ否定する為に、ロットバルトが口を開く。
「――何度も申し上げるようですが、貴方はこれ以上関わるべきではありません」
 レオアリスはあの時法廷で、王の瞳の中にあるものを見た。だからこそ判決が下った今、この現状を少しでも変えようと考えているのだろう。
「……陛下はイリヤの望みを、おそらく初めからご存知だったのでしょう。そしてこの結論を下された」
 それでレオアリスの意思を変えられるとはロットバルトも考えてはいなかったが、一通りの常識的な見解を示しておく為の言葉だ。
「仕方がない事です。望んでも無駄な事など、幾らでもありますよ。望んだ通りに何かが返される事は難しい。特に王家という巨大な枠組みの前では、個人の意思など簡単に掻き消されるものです」
 予想通り、レオアリスは漆黒の瞳の色を翳らす事なく、一直線にロットバルトを見た。
「お前も、大体の結末を判ってたんだろうな」
「――」
 ロットバルトには侯爵家という彼の背景がある。だからその言葉は、決してただの一般論ではなく、レオアリスに納得させるだけの力はあった。
 それでも。
「王のお考えは、判る」
 王がイリヤの事を想っていない訳ではない。
 その逆だ。
 ただ王家、国という枠組みが、それを許さない。
 多分そんな事は、珍しくもない事なのだろう。
 それでも。
「お前も、イリヤも、見えてないかもしれないけど、第三者の俺だからこそ、判る事がある。逆に言えば、第三者にしか見えてない事もあるんだ」
 レオアリスは長椅子に腰かけて肘を膝に載せたまま、その手を握り締めた。
 王家、国、その重さが手足を縛り、自由を奪ったとしても、想いだけは――もっと単純なものでもいいのではないか。
「俺は親に会った事はないけど、確かにあの時、俺の前に居た。俺に剣士とは何かを教えてくれた」
 バインドとの戦いで、レオアリスが自らの剣と向き合い、それに呑まれそうになった時、父は確かに、レオアリスの前にいた。
 それは決して幻想などではなく、自分に向けられた強い力だ。
「確証なんてない。だけど俺は――今だってそれを信じてる」
 想いとはただそれだけ、そして、それほどのものなのだ。
 その想い――、親が子へ抱く想い、子が親に抱く想いは理想だけでは語れない複雑なものがあったとしても、様々な要因に妨げられたとしても、その中の最も単純な、核となるものだけを取り出す事も、時には必要ではないか。
「お前の親父さんだって、ただお前が元気かどうか聞く為に、俺を呼び止めたりするんだ」
 不器用なやり方だと、レオアリスでさえ思う。
「王も」
 王の私室の庭に咲いていた、青い花。
 枯れる事を知らないあの青い花は、忘れる事はないという証だ。
 そして、あの審判の間で、レオアリスに向けられた黄金の瞳。
 ファルシオンと同じ金。イリヤの右の瞳の金。
 青い花に向けられていた、深い想いを秘めた眼差しと、同じものだった。
「まだ、間に合うだろう」
 たった一言、それだけをイリヤに伝えるくらい、許されてもいいはずだ。
 レオアリス一人が理解していたところで意味はない。
 本来、それはイリヤが受け取るべきものなのだから。
 複雑な顔をして、暫く反論すべきかどうか考えていたものの、ロットバルトは一つ息を吐いて立ち上がった。
「……イリヤ・キーファーを移送する司法護衛官の隊列は、あと半刻後、明けの三刻に王城を出ます。西外門辻を通り、先ずは一つ先の街へ向かいます。――会えるかどうかは判りません」



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