十八
港に船を戻したホースエントは、駆け付けていたカリカオテの顔を見ようとせず、目を逸らして彼等の傍らをすり抜けた。ずぶ濡れの姿に周囲から失笑が生まれたが、カリカオテが笑い声の方へ厳しい視線を向けると収まった。
「領事!」
カリカオテはホースエントを追った。
「領事、交渉はどうなった」
「――」
「領事! マリの提督と会ったのだろう、マリは何と言っていたんだ!」
ホースエントは頑なに口を閉ざして領事館への坂道を上がろうとしたが、ふいに横から伸びた腕に襟元を掴まれ、路傍の建物の壁に押し付けられた。掴み上げたのはファルカンだ。
「ホースエント! わざわざマリの船に押しかけて、何をしてきたか言え!」
ファルカンの剣幕にホースエントが縮み上がる。足元を浮かせたまま、喉を喘がせて憐れっぽい声を出した。
「わ、私は――ただ、」
「さっさと言わなければ、このまま首をへし折ってやる!」
「ファルカン、落ち着け!」
ファルカンと一緒に来たエルンストが宥める。ファルカンが苛立っているのはホースエントの事にだけではない。ファルカン自身もそれが判っていて、息を吐きホースエントを降ろした。
カリカオテが肩を落とし、改めて尋ねる。
「領事、マリ海軍の提督と話しができたのか」
「――私の話は、聞き入れてもらえなかった。和平の話し合いに行ったのだ、私は! それをあの扱いで」
ホースエントは誰か一人でも彼の意図を汲み取って称賛し、かつ同情する者がいないかと、カリカオテ達を見回した。けれど誰もホースエントの言葉に関心を見せた者はいない。
「それはいい。マリは何と」
ホースエントは裏切られた思いで俯いた。「……マリは、充分な釈明をしなければ――、街を攻撃すると」
メネゼスは国としての謝罪を求めそれをホースエントに突き付けたが、それを言う事はできなかった。
国としての謝罪。そんなものを、どこに、どう伝えろというのか。
「攻撃……まさか、いつ」
カリカオテが青ざめて呟く。呆然とした呟きだった。周囲に街の住民達が集まり始めている。
「領事、いつまでに、マリは」
「二日後だ。二日後の、昼の三刻までだと」
「明後日……」
エルンストがホースエントを見下ろす。
「マリは、本国へ送った使者については、何か言っていなかったか?」
「し、知らん。そ、その話はしなかった」
ほとんど何の話もできなかったというのが正しいが、それは口が裂けても言いたくなかった。
「マリの提督は誰だった? 名を聞いただろう」
ファルカンが鋭く尋ねる。見下ろされている状態に、自分が座り込んでいる事に改めて気付き、ホースエントは決まり悪そうに咳払いして立ち上がった。
住民達の視線が不安そうに彼等に向けられている。
「――メネゼスという男だ」
メネゼス。自分に向けられたあの射るような隻眼を思い出し、今更水の冷たさを思い出したようにホースエントはぶるりと震えた。ただ頭に浮かんだのは、羞恥心から来る怒りだ。
(あの男――よくも恥を)
一方でファルカンはホースエントが告げた名前を耳にして、顔に緊張を上らせた。
「メネゼス提督か……」
マリ王国海軍の中でも剛勇で名を馳せている。
その男の血族が今会館の病室にいて、生死の境を彷徨っている事など夢にも思わず、カリカオテは厳しい顔でホースエントを見据えた。
「――とにかく、領事。もう既にただ状況を見ている訳には行かない。ザインも――」
そう口にしかけて、慌てて噤む。
「いや。領事、もう一度地政院に伺いを立ててもらいたい。事態が急変したことも伝えて、早急に対策を指示してもらわなければ」
「だ、駄目だ!」
急に跳ねるような声を出したホースエントを、カリカオテは不審そうに眺めた。
「駄目? 駄目とは何がだ」
「ち、地政院には言えない」
地政院に報せたら、ホースエントはおしまいだ。責任を問われ子爵の地位を剥奪されるだろう。
「何を言っている。明後日にはこの街が砲撃を受けるかもしれないんだぞ!」
ファルカンはそのままホースエントを縊り兼ねない勢いだ。ホースエントは観念したように項垂れ、口を弱々しく動かした。
「ち、地政院には、何も言っていない……」
「――何だと?!」
唖然とした空気が流れる。
「わ、私は地政院に、ほ――報告していないんだ。忘れてて……だから地政院は、何も知らない」
「――お前はっ!」
ホースエントが縋るように顔を上げる。「そうだ、今始めてという形で報告してくれないか、カリカオテ。た、頼む」
地政院に不手際を知られるよりは、交易組合に頭を下げた方がずっといい。
「頼む!」
ホースエントは石畳の上に膝をつき、頭を摺り付けるように下げた。
「――いい加減にしろ、ホースエント子爵! お前はこの街を……自分の役割を何だと……! わ、忘れていただと?! 何を馬鹿な」
怒鳴り付けたのはファルカンではなく、カリカオテだ。
日頃理性を重んるカリカオテですら憤りのあまり掴みかかり、ホースエントを通りの壁に押し付け、それから唐突に、そんな事をしている暇など無いのだと気が付いた。
地政院に報告をしていない。
王都は、全くこの事を知らない――。
全身の血が、痩せて老いたカリカオテの身体を滑り落ちる。
今、この段階に至ってから王都に報告して――、王都は、王はどう思うだろう。
レガージュの思い上がりと、そう捉えるのではないか。
街の自治を許した結果がこれか、と。
「――何という事だ……」
レガージュは終わるという思いが、カリカオテの脳裏に稲妻のように過ぎった。
王都に報告しなければマリ海軍の砲撃に焼かれ、王都へ報告すれば、王が交易組合の権限を全て奪い、廃止するだろう。
「カリカオテ……」
エルンストがカリカオテの肩に手を置こうとした時、街の建物を振るわせるような、重く長い音が響いた。
「な、何だ!」
振り返ったファルカン達の視線が音の原因を探して辺りを彷徨い、すぐに一点に集中する。
横一線に並んだマリ海軍の軍船の、一番左端に停泊していた船の舳先が赤く光ったかと思うと、視界が揺れた。
一条の光が走り、空気が割れるような音と共に、港から左に百間ほど離れた海上に巨大な水柱が吹き上がる。
衝撃が、離れた場所にいる彼等にまで伝わるように感じられた。
「――火球砲――!」
マリの軍船が、火球砲を放ったのだ。
街とはまるで離れた場所を撃ったものの、明らかな威嚇攻撃だ。
「見ろ、船が!」
エルンストが指差した先、中央の軍船から一隻の小型船が降ろされ、すぐにレガージュの港に向かって進み始めた。
ザインは激しい音を聞き、窓に駆け寄った。
今居る窓からも港が見渡せる。
家と家の屋根の向こう、崖に遮られるぎりぎりの視界で、海に吹き上がる水柱が見えた。
マリの火球砲だ。小型の船なら一撃で沈める威力を持っている。
街を焼くのにも、全く問題はないだろう。
「――」
砲撃は一度で止んだ。
だが威嚇には充分だ。
マリ王国海軍にレガージュの街を焼く力があると、そう見せ付けるには。
小型船がレガージュを目指して漕ぎ進んでくるのが見える。
ザインは一度扉に向かいかけ、足を止めてしばらくの間煩悶するように立ち尽くし、どさりと椅子に身体を投げた。
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