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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第三章 「潮流」


 王立文書宮はいつ訪れても、淡い光に反射する埃の触れ合う音さえ聞こえるような、静寂に満ちた場所だ。
 ロットバルトは文書宮の扉を抜け、一度確認するように足を止めた。足音を立てるのもはばかられる独特の空気にも、緊張より心地よさを覚える。
 以前はただこの空気にだけ愛着を感じていたが、おそらくそこにしか、求めるものを見い出せなかったからだろう。
 片っ端から知識を詰め込んで、それで何かを埋める事に腐心していたのかもしれない。
 活用する当ての無い、無機質な事象の羅列。
 それで良く、学術院長スランザールはつまらなさそうな顔をしたものだ。
(今思えば、呆れていたのか――それはそうだな)
 学術院に在籍中の記憶は、意外とそんな事ばかりが色濃い。
 ロットバルトは文書宮の入口を潜るとある、縦に広い広間を真っ直ぐに抜けて受付の前に立った。
 スランザールは院長の身でありながら日頃よく受付に座っているのだが、今は若い女性の係員しかいなかった。格好を見れば司書ではなく、王立学術院の院生のようだ。
「失礼、スランザール院長と約束をしているんですが」
 熱心に書物に眼を落としていた娘は少し面倒そうに顔を上げ、来訪者が誰だか気付くや「きゃあっ」と短く声を上げて勢い良く立ち上がった。
 倒れそうなほど顔を真っ赤にしながら、受付の奥にある扉を手で示す。
「あの、あちらです、一番奥の」
「――有難う」
 いまいち説明になっていないがにこりと笑って礼を述べ、ロットバルトは扉を潜った。
 扉の奥は窓が無く、目が慣れるまでは少し薄暗く感じられる。
(一番奥なら、執務室か……)
 ここは部屋ではなく、左右に延びる細い通路になっていた。両側に短い階段がある。スランザールの執務室は今いる場所から丁度正面に位置していた。
 廊下は輪のようになっている為にどちらを選んでも変わりはないが、ロットバルトは右側を昇った。
 通路の右側の壁の向こうは先ほどまでいた一般公開の書室、いわゆる開架で、左側の壁には定間隔に扉が並んでいる。それらはまだ分類が終っていない書物や、持ち出し禁止の貴重な書などが収められた閉架になっていた。
 緩やかに円を描く廊下をしばらく進むと王立文書宮長スランザールの執務室が見えてくる。ロットバルトは扉の前で一度立ち止まると、硬い樫の木で作られた一枚板の扉を叩いた。
 入れ、と返ったくぐもった声からは、声の主が書物に覆い被さっている様子が容易く想像できる。
 扉を開けるとまず目に入るのは、床の上に積み上げられた書物の塔だ。 しおりがあちこちに挟まれ無造作に重ねられた、今にも崩れそうな塔が一つでは飽き足らず、室内をほぼ埋め尽くしている。本来は七間四方はある広い執務室は、おかげで窮屈なほど狭く感じられた。
 当然壁には一面書棚が設えられて書物の背表紙が隙間なく並び、扉の正面の壁の頭の高さくらいの所に、唯一の窓が後から置かれた書棚に半分以上覆い隠されて元の大きさの判らないまま申し訳程度に覗いていた。
 この部屋に光を呼び込むところなどそこだけで、見るからに不健康な部屋だ。
 ただ、部屋の主は手元を照らす灯りさえあれば充分なのだろうが。
 ロットバルトは山積みになった書物を避けて歩き、それらに呆れた視線を向けながら、壮大な書物の山河を作り上げた主に近付いた。幾つかの山は六尺あるロットバルトの頭より高い。
「地震が起きたら確実に本に呑み込まれて命が無いでしょうね。少し整理をお考えになった方がよろしいのでは?」
「書物に骨をうずめるのなら本望じゃ。わしゃ読み終えた書物を全て積み上げて、その上で死ぬと決めておる」
「それは結構ですが、上だか下だかはっきり決めておかないと、いざという時に周囲の者が困惑しますよ」
「口の減らん――」
 スランザールは真っ白い眉の片方を持ち上げ、その下からロットバルトを見上げた。というより、その向こうを。
「なんじゃ、そなた一人だけか。今日はレオアリスはどうした」
 物足りなさそうな様子に、二の次にされたロットバルトは苦笑と一緒に肩を竦めた。
「貴方が来いと仰れば今すぐにでもおいでになるでしょう。ただ、今は私にお時間を割いていただきたいのですが」
「判った判った。まあ座るがいい」
 ロットバルトはちらりと周囲に視線を巡らせた。座る所など無い。
 来客用の長椅子も低い卓も先客・・で埋まっている。
「――立ったままで結構です」
「若いのう。わしはこのまま座らせてもらうぞ」
「本をどける気力と体力が不足しているのでね。それはそうと、貴方にお聞きしたい事があってお伺いしたんです、スランザール。先日の、朝議ちょうぎの件で」
「ふむ。お主は来ると思っとったよ。常に余計な事に気付き過ぎる。物事などただそこにあるだけの事象として、意味など考えないでいる方が憂い無く生きられるものを」
 眉一つ動かさず、ちくりと刺した。ロットバルトはスランザールの言葉に微かな笑みを浮かべた。
「そうですか? 私には貴方がそうしたお考えをお持ちとは思えないな。何も考えず気付かないでいる方が憂いは大きいでしょう」
 以前はただの無機質な事象の羅列――だが今はそれらが一つ一つ、明確な目的を持っている。
 複雑に絡まった難しい状況を読み、解いて構成し直す。ただ紙の上の情報を取得するだけでは得られない手応えがある。
(まあ手応えが有り過ぎるものばかりだが)
「そなたは満足でも、そなたの考えばかりにあれを巻き込むものではないわ」
 スランザールは呆れ顔で子供がするように頬杖をつき、教え子を鋭く諫めた。
「私のやり方はともかく、そこまで気に掛けておいでのくせに、あの時のご様子はどうした事です。貴方と――」 ロットバルトは一旦言葉を選ぶように口を閉ざした。 「アヴァロン閣下は、上将がファルシオン殿下の警護に付かれる事そのものを、それこそ憂えているように見えましたが」
 スランザールの皺に埋もれた瞳が更に細くなる。
「単刀直入に聞くのが常に有効な手段とは限らんぞ」
 もう警告が飛んで来る。普段はどんな話題でも必ず議論をしようとする様子があるが、今はこの話題を早く切り上げたがっているように見えた。
 今回スランザールの胸の内にあるものは、何かがこれまでとは違うように感じられる。
 触れたくない――議論にしたくない。
 ロットバルトは方向を少し変えた。
「――あの朝議で陛下が示された方向は、上将の望む方向とは少し違うように受け取れました」
「何を言うとる。あれも殿下を大切に思っておろうが」
「その部分と剣を捧げるという部分が、そもそも違うでしょう」
「――」
 スランザールは書物の表紙にうっすらと被っていた埃を手で払い落とした。舞い上がった埃に顔をしかめる。
「近衛師団のすべきは王から与えられた任務をこなす事じゃ」
「それは当然そうですが――、それとは別に、陛下は上将の立ち位置を変えていこうとされているようにも見えます。それが貴方とアヴァロン閣下には憂いの一つ」
「ロットバルト」
 スランザールは低く、だが断固として、ロットバルトの言葉を遮った。
 ロットバルトは口を閉ざし、スランザールの次の言葉を待った。切り込んで、どういう反応が返るのか、それが知りたい。
 しばらくの後、スランザールはふっと纏う空気を緩めた。警告とも思える素振りで遮ったものの、もう既にいつもの飄々ひょうひょうとした掴みどころの無さを漂わせている。
「時にレオアリスは、今度の西海との条約再締結に当たっては、陛下の護衛をと望んでおるのじゃろう」
「――それは、王を主とする剣士としては、当然そう望むでしょう。というよりは、近衛師団の誰しも同じ考えだと思いますが」
 慎重に返したロットバルトの様子を、スランザールはからからと笑って見せた。
「わしの前でまで立場を気にすることは無い。レオアリスの剣士としての想いは充分理解できるつもりじゃ。これに関してはそなたは動きにくかろう、わしが預かる。わしからそれとなく、あれが陛下の護衛に付けるよう周囲に働き掛けておこう」
「……有難うございます。しかし、」
 ロットバルトの言葉をまた遮って、スランザールはたくさんの皺に埋もれた口元でからかうような声を立てた。
「何じゃ、これに限っては随分と及び腰じゃな、らしくも無い。わしの口添えは無用か。それとも警護は辞退するつもりでおるか」
 ロットバルトがスランザールの落ち窪んだ眼を見つめる。
 口を開くまでにしばらく間があった。
「――いいえ。それは望む方向ですので。貴方に口添えしていただければ非常に助かります」
 スランザールは何か確たる想定を以って、方向を定めようとしている。
 ただ、何を見てのものか――。
 スランザールは先ほど、周囲に働き掛けると言ったが、王に、とは言わなかった。
 それは意図してのものか――それとも全く含みは無いのか。
 覗き込んだ瞳の中からは、スランザールの思惑は汲み取りようが無かった。





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