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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第二章 「陰影」


 (長い一日だったな……)
 ファルシオンの館を辞し居城の門を出て、レオアリスはそっと息を吐いた。
 このまま自宅に帰って寝台に直行する事への誘惑がちらりと頭を掠めたものの、それを振り切って大広間へと足を向ける。朝の時点で、グランスレイ達には戻ると言ってあった。それにまだ、王は退出してはいないだろう。
「あれ」
 五階への大階段の降り口にロットバルトが立っているのを見て、レオアリスは足を早めて近寄った。ロットバルトもレオアリスを認めて身体を向ける。
「どうかしたか?」
「いえ――ただ、お戻りになる際に少々問題があるので」
「問題?」
 と首を傾げる前に、問題とやらはすぐ判明した。
「おお、大将殿!」
 大階段の踊り場まで来た所で、親しげな声が掛かったからだ。
「本日は殿下の警護のお役目、お見事な立ち振る舞いでございましたな」
 驚いて階下を見ると、ちょうど廊下の角に立っていた横幅の広い男が一人、にこやかな笑みを満面に浮かべてこちらへやってくるところだった。
 レオアリスは素早くロットバルトへ視線を投げた。ロットバルトには全く意外そうな様子が無い。
「キューセンベルク男爵です。役職は地政院の会計検査官ですね」
「会計検査官?」
 聞き慣れない単語に眉を寄せる。地政院には何度か世話になったが、会計検査官はこれまでの事件でも関係した事は無かったし――、と考え、思い当たった。
「問題って」
(この事か――)
 単なる――いや、面倒な――いやいや、重要な、社交の一環。
 それでロットバルトがわざわざここまで出迎えに来ていたのだろう。
 レオアリスは立ち止まりかけたが、ロットバルトはさりげなくレオアリスの肩を押し、そのまま歩き続けた。
「キューセンベルク男爵、今日は久しぶりに奥方とご子息のお顔を拝見しました。ご子息も少し見ない間に随分立派に成長されましたね」
 キューセンベルク男爵は立ち止まってゆっくり話をしたかったようだが、ロットバルトがにこやかに話かけつつ足を止めないせいでそうもいかず、仕方なく横に並んで大広間へと向かった。
「いや、まだまだです、お恥ずかしい限りで――しかしヴェルナーの貴方に覚えていて頂けて恐縮ですな、ぜひ今日はお父上にもご挨拶したかったのですが生憎まだ果たせず――」
「そうですか」
「それで今日は、大将殿にもぜひご挨拶させて頂こうと思いましてな、これまで中々機会もなく失礼しておりましたが、以前からずっとご挨拶申し上げたいと、常々そう思っていた次第で、」
「そういう方も多いでしょう。今まで我々もその点を問題に思っていたので、今日は我々にとってもいい機会ですね」
 ロットバルトはにこり、と秀麗な笑みを向けたものの足は止めない。
(いいのか?)
 立ち止まらないのは失礼に当たらないだろうかと思ったが、すぐにその考えは訂正する事になった。
 大広間までのたった五十間ほどの長さの廊下を歩く間に、三組ばかりに声を掛けられては。
「これはキューセンベルク男爵、抜け駆けはひどい」
 そう言いながら近寄ってきた相手を、キューセンベルク男爵は決まり悪そうに睨んだ。
「いや、抜け駆けなどとは、勘弁していただきたいな、廊下に出ていて偶然大将殿をお見かけしたからご挨拶させて頂こうと」
「全く。ああ大将殿、ヴェルナー中将、今日は誠、良き日で――」
「レオアリス殿! 本日はまた見事な」
 また別の相手が今度は二人近寄ってきて、言い方は悪いが一々立ち止まっていては、いつまでも大広間に辿り着かないに違いない。
 ロットバルトは聞いているような素振りで好意的な笑みを浮かべつつ、かつ彼等の言葉を素通りし――、しかし大広間の扉までくると素早くレオアリスに視線を投げ、口の端にそれまでとは別種の笑みを刷いた。
「この中はさすがに無視しては歩けません」
 大広間は社交の場だ。廊下で話しかける無粋な行為とは違い、そこで話し掛けられたら立ち止まり言葉を交わすのが最低限の礼儀となっている。
「――判った」
 レオアリスは真面目な顔になって、できる限りの気構えを持って大広間へ入った。が、レオアリス程度の気構えと予想など、あっという間に通り越してしまった。
 それまでレオアリスがファルシオンに付いていた分、集中したという事か、扉が開かれ大広間に入ってから半刻は、多分一間も前に進めなかったに違いない。グランスレイ達がいる場所へ近づくのも困難なほどだ。
 挨拶、挨拶、挨拶。
 初めて顔を合わせる相手が、旧知のようなにこやかな笑みを向けてくる。そしてそれが途切れる事が無い。
 ロットバルトが非常に上手くその場をさばいてくれるおかげで混乱せずに済んでいたものの、向けられた挨拶や言葉に返す為の台本などなく、その都度適切な言葉を返すのはかなり骨の折れる仕事だった。
 最近はこうした席に招かれる事も多く、時折ではあるが出席している。そういった時はやはり挨拶を交わすのにそれなりの時間と労力を要するのは経験済みだった。
 しかし、今回はこれまでとも違う。
(殿下の警護についたからか)
 レオアリスも次期近衛師団総将が誰になるか、そうした噂や憶測が飛び交っているのは良く知っている。それがかなり興味深い事柄なのだとも。
 先ほどからちらりちらりと、その言葉が出ている。今回ファルシオンの警護についた事で、目の前の彼等はレオアリスが一歩抜け出したと、そう思ったのだろうか。
(面倒、だな……)
 第一アヴァロンは健在だ。失礼ではないかとも思う。
 ふと彷徨わせた視界にアスタロトの姿が目に止まった。集まっている人達の、ずっと向うだ。
(アスタロト――)
 離れていてはっきりとは判らない。けれど元気が無いように見えた。
 目が合ったかどうか――、アスタロトはすぐ俯いた。
(どうしたんだ)
 最近はいつもそうだ。元気がないような。
 レオアリスはちらりと周囲を見たが、全く抜けられそうにない。
 こういう事も最近、多いような気がした。
(――)
「大将殿――、大将殿?」
 間近で呼ばれ、ぱちりと瞳を瞬かせた。
「え、――ああ、失礼しました」
 少し気を逸らしている暇もない。
 目の前の相手との会話に戻り、途切れた時にまた先ほどの場所へ目を向けたが、その時にはアスタロトの姿は無かった。


 結局祝賀の宴が幕を閉じるまで挨拶に追われ、解放されたのは十刻も過ぎた頃だった。
 良く晴れた暖かい日だったとは言え、帰る頃は大分肌寒さが感じられた。第一大隊の士官棟へ戻った時、背後にそびえる王城の灯りはようやく落ち始め、静けさが漂い始めたところだ。
「……っっかれたー!」
 レオアリスは執務室に戻るなり、どさりと椅子に座り机の上に突っ伏した。ふーっ、と肺からありったけの息を吐き出す。
「お疲れ様です」
 一緒に戻ってきたグランスレイはその様子を見て、続いて部屋に入ったロットバルトと顔を見合わせ、苦笑した。
「何にせよ、無事お役目が果たせた事が何よりですな」
「ああ、ほっとした――」
 レオアリスは腕を枕にしたまま、横顔を見せてグランスレイ達を見上げた。行儀はよろしく無いが、今日はさすがにグランスレイも何も言わないようだ。
 それに気を良くして、レオアリスはその体勢のまま続けた。
「どこかで所作を忘れるんじゃねぇかってヒヤヒヤしたぜ」
「そうは見えませんでしたが」
「ならいいけどな――」
 一番大変だったのは、ファルシオンを送り届けた後かもしれないが。余りに入れ代わり立ち変わりに初対面の相手がやって来たせいで、誰と何の話をしたか良く覚えていない。
「まあ、取り敢えず――安心した」
 レオアリスは腕に頭を乗せたまま、また机と向き合うように顔を伏せた。
「眠ィ……」
 ここでこのまま眠ってしまいたいくらい眠い。眠ったらどんなにか気持ちいいだろうという、あの瞬間だ。
「――」
 眠そうなレオアリスの様子に、グランスレイもロットバルトも苦笑を浮かべた。どうせ今日は他の仕事もなく、中将達は王城から直接帰宅したし、レオアリスも館に帰っても問題は無い。
「上将、今日はもうお帰りになっては」
「……」
 返事が返らず、ロットバルトは執務机に目をやって僅かに瞳を見開いた。
「……一瞬だな……」
 感心したような呟きも当然で、たった今まで会話をしていたはずが、机に突っ伏したままレオアリスはすっかり寝入っている。緩やかな呼吸を表すように、肩が上下していた。
「どうします?」
「そうだな。まあ疲れておいでだろう。一刻ばかりしたら起きていただけばいい」
 グランスレイは笑ってそう言うと、自席の椅子に深く腰掛け、改めてロットバルトと向き合った。
「今日はお前にも骨を折ってもらったな」
「私の分野ですからね、さほど手間はありません」
「どうだった」
「そうですね――」
 端的な問いかけに、ロットバルトは瞳を細めた。
「今日話し掛けて来た相手に関しては、取り敢えず繋ぎを付けたいという意図でしょう。上将には手間を掛けていただきましたが、一通り挨拶ができたお陰でそれなりの把握もできました。彼等とは今後良好に関係を構築すればいい。踏み込む事はありませんが」
「上将には本意ではないだろうな」
「仕方ありません。地位には当然、様々なものが付いて回ります。誇りと責務を持ちたければ、その裏で発生する利権に絡んだ思惑へも向き合わなくては。まあ上将はそれを理解していただければいい。後の対処をするのは我々でしょう」
 グランスレイは頷き、執務机の上で両手を組んだ。
「お前は今後の流れをどう見る?」
「――十中八九。父も感触は同様でしたね。しかし」
 レオアリスのこの先の方向がどうなるかは、ロットバルトの見方も現在の主流の見方と変わらない。
 ただ、何か言葉を継ごうとしたロットバルトの様子にグランスレイは僅かに眉を寄せた。
「何だ」
「いえ――」
 口をつぐみかけ、考え直したようにまたグランスレイを見る。
「確信ではありませんが」
 そう断ってから、ロットバルトはグランスレイに近寄り、レオアリスの執務机に背を向けた。すっと声を落とす。
「昨日、陛下がファルシオン殿下の警護を下命された際、アヴァロン閣下とスランザール公は初耳だったのか――、少なからず異論もお持ちのように見受けられました」
「――」
 グランスレイが複雑な顔をしたのも無理はない。
 その二人はこれまで、レオアリスが近衛師団にある事に最も理解を示していた人物だ。過去が秘され、かつ、それを知っていて。
「何か、問題があるのだろうか――」
どちら側・・・・の問題か判りませんが。我々のあずかり知らない問題は多いのでしょうからね」
 あの時、アヴァロンの表情は汲み取り難かったが、スランザールは王の下命を聞いて驚き――、それから「仕方ない」という顔をした。
 その表情をどう取るべきか。
「明日、スランザール公にはお話を伺おうと思っています」
 ロットバルトはそう言い、再びグランスレイは頷いた。


 ふっと目を開けて、結局机の上に突っ伏して寝てしまった事に気が付いた。
「目が覚めましたか」
 いつの間にかグランスレイは帰ったらしく、室内は先ほどより静まり返ったように感じられる。
「どのくらい寝てた?」
「寝ていたのは半刻程度です。私もそろそろ帰るので起こそうと思っていたところですが」
「何だ、半刻か。寝足りないな……」
「館に帰ってから寝ればいいでしょう」
「寝れりゃどこでもいいけど、俺は」
 レオアリスは身体を起こし頬杖をついた。そのまましばらく、執務机の右側の壁に掲げられた近衛師団の旗を見つめている。
「――」
 ロットバルトはその様子に気付き、瞳を向けた。視線を感じたのか、レオアリスは視線を返した。
「ロットバルト」
 どこか慎重な声だ。
「まだ寝ぼけてるって事にしといてくれ」
「――」
 珍しい物の言い方だと、ロットバルトは束の間レオアリスの瞳を見つめ、それから手元の書類を置いた。
「エアリディアル王女は、どんなものをどこまで、ご覧になるんだろうな」
 問い掛けか、独り言か、掴み難い口調だ。
「意思か、未来か」
「……難しいですね。王家の有する能力は、我々とはかけ離れています。詳しく言葉にできる者はなかなかいない。――何か気になる事が?」
 ロットバルトも、レオアリスが祝賀の場でエアリディアルと何事か話していたのは目にしている。
「――いや……」
 あるのはほんの僅か、確証どころか形もない疑問だけ。
『陛下の御身を――』
 あの時のエアリディアルは、もしかしたら王の身を案じていたのではないかと――。
(まさか。何から?)
 単なる思い過ごしかもしれない。
「俺も良く判らないんだ」
 そう言って振り払うように頭を一つ振り、レオアリスは立ち上がった。
「――そろそろ帰ろうぜ。悪かったな、遅くまで付き合わせて」





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