四
王都の空は澄んで晴れ渡り、まさに快晴だった。
花待ちの月の二十四日、今日、この国の第一王位継承者である王子ファルシオンが、五歳の誕生日を迎えた。
立ち並ぶ家や店は朝から一斉に王旗や色鮮やかな旗を掲げ、街の通りは細い路地までが一面旗で埋め尽くされて、まるで色の洪水のようだ。
街を上空から眺めれば、さぞや見事な光景だろう。
そして王都の中心、最も高い位置に聳える王の居城からは、それが良く見える。
棚引く旗達は当然、住民達がそれと知って、彼等の王子に捧げた祝いの言葉だった。
「すごい――街が全部、色でいっぱいだ」
ファルシオンは露台の手摺りから身を乗り出すようにして、眼下に広がる王都の街並みを見渡した。
ハンプトンが素早く、だがそっとファルシオンの身体を抱き抱えつつ、幼い王子の顔を覗き込んだ。
「そうです。街の人々の、殿下へのお祝いですよ」
「私への?」
ファルシオンは瞳を丸くしてハンプトンを振り返り、再びきらきらと輝く瞳を街に向けた。
「すごい」
こんなにも、街全体で、自分の誕生日を祝ってくれるとは。
街そのものが、祝ってくれているようだ。
「今日、殿下は様々な方からお祝いの品を贈られると思いますが、もしかしたらこれが一番素敵な贈り物かもしれませんね」
「うん――」
ファルシオンは石造りの手摺りに両手で捕まって、銀色の柔らかな髪を風に揺らし、じっと眼差しを注いだ。
まだ小さなファルシオンの金色の瞳に、街が贈る祝いの言葉がしっかりと焼き付けられる。
幼いファルシオンには、自分の中に生まれた想いは明確な言葉にはならなかったが、やがて自分は彼等と共に生きていくのだと、そんな事を想った。
そのどこかほんの少しおとなびた顔を微笑んで見つめ、それからハンプトンはファルシオンを室内に誘った。
「さあ殿下、お召し替えをなさいませ。もう余りお時間がございませんよ」
今日のファルシオンは一日忙しい。今日ばかりは、ファルシオンが望んでも昼寝の時間を取る事もできないくらいだ。
一日の流れは事前に何度も確認され、組み上げられている。
まず衣服を式典の正装に整え、父王との謁見に赴く。
謁見の間に諸侯の居並ぶ中、五歳を迎えた事の式辞を述べる。
その後、王城の南広場に面した露台から、広場に集まった王都の人々へ顔見せを行う。広場には朝の内からもう既に、人々が集まり始めていた。
午後一番には、これが王都住民にとって一番の目玉とも言えるが、馬車での街中の行進が予定されていた。王城を出た馬車は近衛師団に警護され、二刻近くをかけて王都中層区域を回る。沿道の警備の為に早朝から近衛師団と正規軍が配備されていて、街には緊張感と昂揚感が同居していた。
夕方の四刻から王と王妃、そして王女が揃い正餐を取り、その後王城の大広間で祝賀の宴が開かれる。
ここで延々と、招待客達からの祝福の言葉を受けるのだ。
長い一日になる。
「今日はレオアリスが迎えに来てくれるんでしょう?」
ファルシオンは女官達に囲まれて複雑な正装を着せつけてもらいながら、正面に立つハンプトンを確かめるように見上げた。
黄金の大きな瞳に喜びが宿っている。
昨日の午後、王室警護官長がファルシオンに今日の流れを説明した際、「明日は近衛師団の第一大隊大将殿が、殿下をお迎えに上がる事になりました」と、そう言っていた。
近衛師団第一大隊大将はレオアリスの事だ。
「左様です。この後殿下をお迎えに来られて、今日の儀式の間、ずっとお側に付いてくださいますわ」
ファルシオンは太陽の光を吸い込んだように瞳を輝かせた。ちょっと首を傾げる。
それは素朴な期待だった。
「父上は、レオアリスを私にくださるのかしら」
「まあ」
誕生日のお祝いに、とファルシオンは考えたようで、瞳にも期待が覗いている。
ハンプトンはほんの少し、口籠もった。
「それは殿下、大将殿はモノではごさいませんし、近衛師団でのお役が既にございますからね」
「うん、判ってる。今日だけだよね。でもそうなったらいいのになぁって」
ファルシオンは何も人を物のように考えている訳ではなく、単純な期待と幼い故の表現だったのだが、少し諭すような口調になったのは本当にそうなったら――とハンプトンが考えたせいだ。
可能性はあるのかもしれない。
ただ、レオアリスは剣士だ。ハンプトンは剣士という種を余り知らないが、剣士にとって剣を捧げる主がとても重要な存在なのだとは、最近の話で知っている。
レオアリスがファルシオンを大切に思っているのは確かだが、それ以上に王への忠誠心が彼の中にあるのは、ハンプトンにも感じ取れた。
(もしそういう事になったら、陛下のご意思であっても、大将殿はそれを喜ばれるかしら――)
そう考えて、はっと気が付いた。
(私ったら……)
穿ち過ぎな考えだ。ハンプトンの立場で考える事ではない。
壁際に置かれた時計を見れば、もう既に九刻半になっていた。迎えが来る約束の時刻だ。
「さあ、殿下、お出ましのお時間です。まずは陛下へご挨拶に伺います。今日一日、王太子たる威厳を、常にお忘れなきよう」
そう言ってファルシオンの襟元を整えてやり、ハンプトンは王子の姿を誇らしそうに確かめた。
ちょうどその時、扉が軽く二度叩かれ、静かに廊下へ向けて開かれた。警護官長が扉の脇に立ち、室内のファルシオンを認め、深く一礼した。
「ファルシオン殿下、謁見の間へ向かわれるお時間でございます。お迎えに参りました。どうぞお出ましください」
廊下にはずらりと王室警護官が並んでいる。彼等は開かれた扉の中央に立ったファルシオンの姿を見ると、一斉に、静かに頭を下げた。
警護官達の並ぶ廊下の丁度中央に、レオアリスが跪きファルシオンを待っている。レオアリスが纏うのも、普段の略装ではなく正式な儀式の際の近衛師団の正装だ。
漆黒の生地に普段よりも華やかな銀糸の刺繍が施された近衛師団の正装は、やはり今日という日の特別さを感じさせた。
「本日一日お側に付き、王太子殿下の警護を務めさせて頂きます」
面を上げ、ファルシオンへ向けられたレオアリスの笑みに、ついいつものように駆け寄りそうになり、ファルシオンはそれをぐっと堪えた。
今日がどんな日で、自分がどのように振る舞わなければいけないか、ファルシオン自身よく弁えている。
ファルシオンは一歩歩み出て扉の前で立ち止まり、レオアリスと警護官達を見渡した。
「出迎え、大儀である」
それはこうした際の定型句ではあるものの、ファルシオンはまだ小さな身体に充分な威厳を宿した。
気持ちのいい朝だ。
ファルシオンのいる室内にも、レオアリスの待つ廊下にも、光が静かに満ちている。
幼いファルシオンにとってはまた、とても長い一年が始まる。
ハンプトンは王子の顔をそっと見つめた。
四歳の一年間は、物心が付き始めたばかりのファルシオンにとって重過ぎるほどの悲しい出来事があったが、それ以上に色々なものを得る事ができた。
きっとこれからの一年は、より多くの事を、ずっとしっかりと理解して掴む事ができる。
いずれ、この国の王になる為に。
王室警護官長が先導し、ファルシオンは明るい廊下を歩き出した。
ファルシオンの斜め後ろに控えるようにして、レオアリスが付く。
まだファルシオンはレオアリスの脚の付け根辺りまでの身長だが、今日はどこか、決して無理をしている訳ではない自然な威厳を纏っている。
父王に良く似ている、と思った。
(成長されて行くんだな)
まだ出逢ってから四ヶ月ほどしか経っていないが、その事が感慨深く思われた。
「――……」
ふと小さな呟きが聞こえて耳を澄ませば、どうやらファルシオンはこの後謁見の間で父王へ述べる式辞を、一生懸命口の中で繰り返しているようだ。
レオアリスはそっと笑った。
四大公爵家当主、十侯爵家、伯爵位以下の八十九家の当主等合わせて百三家。各院の高級官吏達。
正規軍将軍、各方面の第一大隊から第七大隊の大将、近衛師団大将と中将等軍部。
王立文書宮長スランザールに、法術院長アルジマール。
二百名近い参列者が一人の欠席も無く揃った謁見の間は、それだけで壮観だ。
辺境部の第七大隊大将や領事達は、今日の為に遠路を駆け付けて来た者ばかりだった。
王はまだ来座しておらず、王子ファルシオンもこれから入室する。
儀式の前の身を動かすのも憚られるような空気の中でも、諸侯の間には微かな囁きが遠慮がちに、しかし途切れる事無くあちこちで続いていた。
朝から一つ、噂があったからだ。
唐突に立ち上がったその噂は声高に口にされる訳ではなく、そっと耳から耳に伝わっていっただけだったが、ほぼ二刻後には今日の参列者の全てに伝わっていただろう。
王は今日の祝賀式典にあたり、王太子ファルシオンの警護を、近衛師団第一大隊大将に命じた。
諸侯が色めき立ったのも無理はない。
少なからずここ最近取り交わされていた憶測が、この噂で俄かに現実味を帯びて来たのだ。
実際この謁見の間に入り、時間が迫った今でも近衛師団の中に第一大隊大将の姿が無い事で、それはいや増した。
様々な思惑を含んだ視線が高い両開きの扉に集中し、それが開くのを待っている。
スランザールは前列から謁見の間に集う諸侯の様子を見回し、人知れず溜息を吐いた。
(陛下の思惑どおり――、全く、困ったお方だ)
いや、困ったなどと評する軽い問題ではない。
ただ今の状況故に、スランザールにさえそれが現実感を伴って捉えられていないだけだ。
けれどもう、王は進めて行こうとしている。
(あの方は――、余りに)
そう呟きながら巡らせていた視線をふと止めた。近衛師団の参列者の中から、ロットバルトと視線が合ったからだ。ロットバルトは何かを問いかけるようにスランザールを見て、それから視線を戻した。
スランザールはまた溜息を吐いた。明日にでも、文書宮に訪問があるのだろう。
(鋭いのも困りモンじゃ――まあさすがに今の段階ではあ奴も想定などつかんじゃろうが)
ほどなく、カァン、カァン、と二度、金属を鳴らす音が響いた。
参列者達はその場に膝をつき、衣擦れの音が収まった謁見の間は、水を打ったように静まり返った。
「王太子、ファルシオン殿下のおなりです」
高らかな楽の音と共に扉の左右に立っていた衛士が宣言し、扉がゆっくりと開く。
開かれた扉の中央に佇むファルシオンの姿に、二つの騒めきが広がった。ファルシオンは朝の光が満ちた廊下に、凛として立っている。
「おお、ご立派になられた――」
「御歳五歳とは思えないほどだ」
日頃王都から離れている者達は特に、ほぼ一年ぶりに目にする王子の成長を目の当たりにして感慨もひとしおだ。
特に正装を纏い、頭を上げて真っ直ぐに前を見据えた姿は、既に父王を思わせる威厳すら感じられた。
「後ろは……」
呟きはすぐ飲み込まれたが、ファルシオンが緑の絨毯を踏んで玉座の壇へと向かう間、熱を帯びた視線が後を追った。
王太子ファルシオンと半間ほどの距離を置き、レオアリスが付き従っている。それはアヴァロンを従えている王の姿とも重なった。
ファルシオンは玉座の階(きざはし)の前まで来ると、ゆったりとした幅のある段を上がり、玉座から三段目の所で跪いた。
レオアリスは階下で立ち止まり、ファルシオンが跪くのを見届け、それから居並ぶ諸侯の方へ身体を向ける。ただし、警護の所作に過ぎず諸侯を警戒している訳ではない事を示す為に、完全に向き合わず斜めに身体を開く。
膝は着かない。警護の為――いざという時にすぐ立ち回れるようにだ。
警護でありながら剣を佩びる事のない立ち姿が、彼が剣士である事をより明確に示しているようだった。
引き締まった面と鋭い双眸は、年齢など全く意味が無いと思わせるに十分なものだ。
集中していた視線に籠められていた熱が、その事実に冷やされ、逸らされる。
カァン、と再び鐘が鳴った。
参列者達が一斉に頭を伏せる。
玉座の背後の壁に掛けられていた幾層もの布が左右に開き、謁見の間の空気がすっと入れ替わった。
静謐さと、身を縮めたくなるような圧迫感――
アヴァロンを従え、王が入室する。
ファルシオンは静かに頭を下げて迎える。
王が玉座に着き、アヴァロンが玉座の傍らに立つ。
式典の始まりだ。この場の全ての意識が、王とファルシオンに注がれているのが判る。
ファルシオンは緊張のあまり、階下に立つレオアリスを振り返りたくなった。それをぐっと堪(こら)え、二つ呼吸を数えて面を上げた。
父王が、良かったと褒めてくれるような、立派な態度を取りたい。ちゃんと何度も練習したのだ。
「我が父、アレウス国王陛下におかれましてはご健勝のこと、心よりお慶び申し上げます」
幼い、ただ凛とした口調で、ファルシオンは父王の瞳を見つめたまま続けた。
父王の黄金の瞳は真っ直ぐファルシオンに向けられ、その厳しいが深い色に勇気付けられる。
「陛下の賢政のもと、何より国内が平穏に治まっている事をお慶び申し上げます」
王を言祝ぎ、国を言祝ぐ。
「そして本日、私の為にこの場をご用意くださった事に、深く感謝致します。今日を以って、この国に生を受けて五年、これを機にこの国の王子としての責務を一層自覚し、国の為に身を尽くせるよう、努めて参ります」
ファルシオンはそう言って、また静かに顔を伏せた。
たった五歳の幼さながら、見事な式辞だった。
レオアリスはまるで自分の事のように息を詰めていたが、そっと吐き出した。
何度も練習したのだろう。当然、こうした際の式辞はほとんど決まったものが用意されているのだが、ファルシオンは単にこれが難しく整えられた言葉の羅列ではなく、そこに籠められた想いをきちんと理解しているのだろうと思った。
王は厳格ともいえる瞳をファルシオンへ向けた。
「王太子ファルシオン、今日この日を迎えられ、私も嬉しく思っている。その言葉どおり、その身の責務を忘れず、国の為に努めよ」
「はい」
「国の前に私欲は無い。国はそなたの物ではなく、そなたが国の為にある」
「はい」
「そなたの行い一つ、選択一つ、間違えれば国土が傷み、民が苦しむ。常にその事を心に留め、考えよ」
ファルシオンは王の言葉を全身で受け止めるように、なお顔を伏せた。
謁見の間には二百近い参列者に埋め尽くされながら、衣擦れの音一つ無い。
一国の第一王位継承者、王太子であること――、その責務の重さは、まだ僅か五歳だからと言って軽んじられるものではないのだと、参列者達もまた改めて意識した。
「もう一つ」
レオアリスは正面を向いたまま、ファルシオンの緊張が高まるのを感じた。
(ほんと、殿下のお立場は大変だ――)
ファルシオンの様子を見つめ、王はふっと空気を変えるように笑みを浮かべた。
「父として、ファルシオン、そなたの成長は私の喜びだ」
ファルシオンは顔を上げて喜びに頬を輝かせ、レオアリスもまた温かな喜びを覚えた。
王旗とレガージュの紋章旗が青い空に翻る。
フィオリ・アル・レガージュの街もどことなく浮かれた雰囲気が漂い、「ファルシオン殿下のお誕生日に、きれいに晴れて良かった」という声があちこちで聞こえた。おそらく今晩の食卓は王子への祝福にかこつけて、どこも普段より豪華なのだろう。
この街に十日間滞在していた、マリ王国の交易船の出港を先ほど見届け、ザインは賑やかな街を抜けて丘を登り自宅へと戻った。
ユージュの眠る二階の窓を見上げ、家を回って海に突き出した崖に出る。
ザインは崖の上に立ち、海と空を見渡した。
「風が無いな――」
港では吹いていた風が、ここまで来る間に止んでしまっていた。
海は青く、空もまた青い。
いつもはこの崖を、波が運んで来たような強い風が吹き上げる。
しかし今は、べたりと風が止まっていた。
先ほど出港したマリの船は、白い帆を張って陸と水平線の真ん中ほどを進んで行く。ただ、帆は力無く広がっているだけで、今は船体の両側に合計十八本の櫓が降ろされていた。
ザインは彼等の航海の無事を想った。
こういう時の海は好きではない。
好きではない、とはひどく感覚的だが、それはザインだけのものではなく、船乗り達にとっても凪はいい状況ではないのだ。
南の海は穏やかに凪ぐように見せて、恐ろしい。
風が止まれば帆船の足は奪われる。
足を奪われ立ち往生している間に、嵐が来る。
灼熱の太陽の熱を帯びて苛立った海が、風を呼ぶのだと言う。
船乗り達は凪を嫌う。
そしてフィオリの乗った船が沈んだ時も、こうした凪だった。
それを思い出す。
嫌でも思い出す。像が頭の中に結ぶように、明確に。
「凪――その中でも動いた船があった」
ザインの瞳に、微かな炎がかぎろい立った。
櫓も無く波を蹴立て、他の船を圧倒する速度で近付いた。
波を割り、海中から現れた船。
いや――、波が形を取り、船になった。
ザインの瞳に灯った白い陽炎が、全身に巡る。
右腕――彼の剣が発現を求めて脈動する。
ザインは左手を、右腕に置いた。
「違う――今じゃない」
不満そうな剣の声に、ザインは微かに笑った。
「遅いんだよ、俺達は」
笑みは自嘲の色になり、すぐに消える。
ザインは再び瞳を海に転じた。
風の止んだ青い海を、マリの船が行く。
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