六
荒れた海原に一隻、小型の帆船が船体を大きく揺らしていた。
叩きつける雨が誰もいない甲板に水の筋を作る。
風に煽られている旗が示す船籍は、フィオリ・アル・レガージュ。
そしてもう一つ、盾と戟の紋章の旗――嵐の中に揺れるのは、レガージュ船団の帆船だった。
うねる海面で荒波が砕け、飛沫が高く上がる。散った飛沫が海面に落ち――、再び盛り上がった。
ただの波ではない。
あろうことか、そのままするすると、海面は固形物のように突き出し始めた。
先端はやや細く、突き出るに連れて少しずつ太さを増してくる。柱のようだ。途中で十字に架かる横木が水面から浮かぶ。上の方に短い横木が一本と、柱の中央に長い横木が一本。
まるで、そう、帆船の帆柱だ。
続いて海面全体が、広い板のように立ち上がった。
甲板。
立ち上がるにつれ、船体が現れる。
船は喫水線まで姿を現すと、今度はゆっくり、先端の方から細部が形作られ、色彩を帯びていった。
甲板の板目、手すり、船体の窓。
帆柱の先に翻る旗。
透明な水の色だった旗も、風に揺らぐごとに模様が現れる。
フィオリ・アル・レガージュの旗。
そして、盾と戟の紋章、レガージュ船団の旗へと。
帆柱の横木から、音を立てて水の幕が広がる。それはすぐに白い帆布に外見を変え、本物の帆のように風に膨らんだ。
初めに浮かんでいた一隻と、たった今海から浮かび上がったもう一隻は、舳先をつき合わせ、お互いを確認するように暫く荒れた水面に浮かんでいた。二隻の船の甲板には人の気配は無く、操舵室を覗いても舵を取る者の姿は無い。
緑色の丸い光が、海の中でぼうっと光る。
海が形を成した二隻のレガージュ船団の船は舳先を南に向け、荒れる波間をあたかも穏やかな海原にいるが如く走り出した。
斜めに叩き付ける雨の膜を突き抜け、真横から吹き付ける風もまるで意に介した様子は見えない。それどころか、真横から受ける風に対して、帆は船体と垂直のまま、ただ形だけ、風を孕んでいるように膨らんでいるだけだ。
嵐の中を突き進んで四半刻も立たない内に、二隻の前方に一つ、霞む船影が浮かび上がった。
船は荒れる波に揉まれるように上下左右に揺られながら、帆を下ろし嵐の過ぎるのをじっと耐えて待っている。
船腹に書かれた名前と船籍を見れば、マリ王国の交易船だと判る。『ゼ・アマーリア号』という船名は、昼にレガージュの港を出た船に間違いない。
二隻の「レガージュ船団」の船はぐんぐんとマリの帆船に近付いた。
ゼ・アマーリア号の甲板の上は、さながら戦場のようだった。数人の船員が気紛れに上下する甲板を、時に足を滑らせ転げながらも懸命に動き回っていた。
「帆だ、帆を折られるなよ! 風に合わせて横木を回せ!」
横風が吹き付け左舷が持ち上がる。乗組員の一人、メネゼスは帆柱を操作する為の縄を握り締めたまま横転し、濡れた甲板を真ん中から右舷の縁まで滑った。立ち上がる前に反動が来て、今度はもとの帆柱近くまで滑る。
命綱代わりのように帆柱の縄を握り、メネゼスは顔を伝う雨粒か海水かを乱暴に拭った。近くに居た仲間の伸ばした手を掴んで何とか立ち上がる。
「くそぅ、この波は堪らねぇ!」
フィオリ・アル・レガージュの港を出て四刻ほどが過ぎ、太陽が西の水平線に落ちかかる頃から案の定、嵐がやって来た。凪の真っ只中にいた彼等の船は嵐を避ける手立てもなく、すっかり取り込まれてしまった。
空は黒雲で覆われ、青く輝いていた海原は灰色に塗りつぶされている。風と波に煽られる船は舵も櫓も役には立たず、羅針盤はひっきりなしに方向を変える。北を指しているのだか狂っているのだか判らないほどだ。
こうなっては無理に動かずに、船が破損しない事だけに細心の注意を払いながら、嵐が行き過ぎるのを待つしかない。
ただのっぴきならないほどの窮地という訳でもなかった。この大海原を長く航海しようとすれば、嵐は付属品のように付いてくる。今回のこれは少しばかりきつい方だが、ゼ・アマーリア号の船員達は皆乗り切る自信とそれだけの経験を持っていた。
仲間達と懸命に横木を縄で操っていたメネゼスは、ふと何かの気配を感じて顔を上げ、雨の膜を透かし見た。
「ん?」
メネゼスが顔を向けている方、船の左舷側の海上に、黒々した二つの影がぽつりと浮かんでいる。
「――船?」
口の中で呟いて、メネゼスはぎくりと息を呑み込んだ。
海賊船だと思ったのだ。海賊どもが嵐に乗じて船を襲う事も少なくは無い。
「船長――」
声を張り上げかけ、途中で止めた。まだ少し遠いながらも、風雨に揺れる船旗が見える。
「……レガージュ? 盾と鉾って事は、ありゃあレガージュ船団か?」
「何か言ったか?」
「レガージュの船団の旗だ」
隣で同じ縄を握っていたもう一人の船員も、メネゼスが指差した方向へ顔を上げ、近付いて来る船に気付いて目を凝らした。
「本当だ。何でレガージュ船団がいるんだ? この嵐で交易船とはぐれたか」
辺りを見回しても他に船影は見えないが、近くに交易船がいるのかもしれない。
ただ、この嵐の中でその旗を見て、どことなく安堵を覚えたのは事実だった。レガージュ船団が近くにいるのなら、いざというときに心強い。
「お互い難儀だな」
二人は少しだけ厳しさの弛んだ顔を見合せ、メネゼスはやはり同じ苦労をしているだろうレガージュ船団の船員を甲板の上に探した。
「――何だ?」
メネゼスは眉を潜めた。雨の叩き付ける甲板は飛沫に煙っていたが、それでもしんと静まり返っている。誰も甲板にはいないようだ。
「おかしくないか……?」
「ええ?」
既に横木を動かす仕事に戻っていた同僚がもう一度顔を上げて聞き返す。
「いや、何か」
何に違和感を覚えたのか確かめるように、メネゼスはじっとレガージュ船団の船を見た。
「あ、ああ――」
メネゼスは再びぎくりと身を強ばらせた。
おかしいはずだ。
この荒れ狂う風の中、何より大事な帆が張りっぱなしになっている。あんな事をしては、帆も帆柱も風に壊されてしまう。嵐に帆を張ったままにするなど、全く以って非常識だ。
「――」
おかしい。
強い風が右手から吹いて、メネゼスは数歩分押しやられ、たたらを踏んだ。だが、彼の視線はずっと、レガージュ船団の船の帆に釘付けになっていた。
右から風を受けているのに、帆は正面から風を受けているように広がっている。
あんな張り方をする帆は見た事が無い。
いや――
何故だか、唐突に思った。
そもそも、あれは船だろうか。
「メネゼス、レガージュはいいから自分とこの船に集中しろ!」
「いや、――何か、変だ……あれは」
上手く言えないまま、メネゼスはじっと、近付いてくる二隻の帆船を見つめていた。ふいに、ぽかんと口を開け、それからようやく事態に気付き、警告の声を上げた。
「――ぶつかる……!!」
激しい衝撃とともに、レガージュ船団の船の舳先が、マリ王国の交易船の左舷に突っ込んだ。
メネゼスは勢いよく投げ出され、甲板に叩きつけられて、そのまま意識を失った。
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