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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第二章 「陰影」


 祝賀の宴が始まって一刻ほどは、招待客達の述べる祝いの言葉で埋め尽くされた。幸いに――客達にとっては余り幸いでもないが――直接ファルシオンに挨拶ができるのは全体の四分の一程度でしかない。
 それでも長い事に変わりはなく非常に頑張って全ての者の挨拶を受けた後、ファルシオンはふうっと溜息をついた。すぐはっとして口を押さえる。溜息などついては、わざわざお祝いを述べに来てくれた相手に失礼だ。
「大丈夫、聞かれていません」
 傍らに立っていたレオアリスがそっと告げて、ファルシオンは胸を撫で下ろした。
「お疲れ様です。少しお休みになって、何か召し上がりますか?」
 挨拶を受ける間、ファルシオンはずっと大広間の奥にある壇上の椅子に座ったまま動けずにいて、口にできたのは水くらいだ。
「大丈夫」
 それよりもファルシオンは、この場でやりたい事があった。
「もう動いていいな?」
 椅子の斜め後ろに立っていた警護官長に確認し、席を立つとレオアリスの手を握る。
 壇上にはファルシオンの為の椅子一脚しか置かれていない。王や王妃の椅子は、先ほどファルシオンが出てきた二階部分にあった。ちょうど今いる場所の真上だ。回廊状になっている一角が広間に向かって広く張り出している。
「レオアリス、こっち」
「殿下?」
 ファルシオンはレオアリスの手を握ったまま歩き出した。手を握らずとも当然、ファルシオンが動けば護衛として付き従うのだが、どうやらファルシオンはレオアリスを案内したいらしい。
 しかし普段の居城ならともかく、さすがにこの場で手を繋いで仲良く、というのは警護として不味い。
「殿下、この位置では警護になりません。多少離れないと」
 そう言うとファルシオンは唇を尖らせたものの、素直に手を離した。
「こういう所はやはりしきたりとかがめんどくさいのだな」
 といかめしい口調で首を傾げるようにして言ったので、レオアリスはそっと笑った。
(それにしても今日は本当に、良く対応しておいでだ)
 たったの五歳で、朝からずっと大人同然の対応を求められ、それを立派にこなしている。王太子としての自らの責務を自覚していて、実践しようと努力している。レオアリスにしてみれば感心するばかりだ。
(やっぱり、陛下のお子なんだなぁ)
 しみじみとそう思った。自分が五歳の時など、どうだっただろう。まだまだろくに祖父達の手助けにもならず、まとわりついては甘えていた思い出しかない。
 ファルシオンは大広間に降りると、すぐ後ろにある回廊への大階段を登っていく。幼い王太子の姿を、多くの視線が追いかけて動く。一挙手一投足を全て見られている。
(――疲れるだろう)
 もしかしたらまだそういう意識は持っていないかもしれないが、年齢が上がるにつれ更に立場を自覚するようになれば、視線はどんどん鎖のように重くなっていく。
 身辺の警護以上に、その対応が重要なのだろうと、小さなファルシオンに集中する視線を感じながら思った。
 先ほどの挨拶の中でも、ただファルシオンの気を引く為の言葉を並べ立てる者と、誠実さを感じさせられる相手とがいた事はレオアリスにも感じられた。以前会った事のあるゴドフリー侯爵や、意外と言っては失礼かもしれないがヴェルナー侯爵など、次代の王となるファルシオンへ責務を示しながらも成長を支えて行こうという意識が見えた。
(きっとそういう人達が殿下には必要なんだろうな)
 それから当然、アスタロトも。アスタロトのような裏表の無い存在は貴重だ。
 真っ直ぐ――、そういう意味では少しファルシオンと似過ぎているかもしれないが。
 そう思うと自然と笑みが浮かぶ。今日のような場所ではなく二人がやり取りする姿を、一度見てみたい。
 今日のアスタロトの挨拶は四番目だった。早い内のせいか、やはりこういう場のせいか、今日はいつになく緊張していたようだ。一度レオアリスに物言いたげな視線を投げたが、さすがにその場で二人して話し出す訳にも行かない。
 ここ二、三日、アスタロトはやはりそんな様子を見せていた。お互い話す時間も無いままに過ぎてしまい、それも少し気になっていたところだった。
(けど、今日は無理かな……)
 レオアリスはアスタロトの姿を大広間に探し、見つける前に階上に着いた。
 回廊には広間側に二間ほどの間隔を取りながら白い円柱が並び、その百近い数の円柱が回廊を天井から吊っているようにも見える。ここは階下の大広間の騒めきもどこか遠く、円柱の横を通り過ぎる時だけは広間からの視界も切れた。それだけで何となく落ち着ける。
 ファルシオンは回廊の少し先に立つ人の姿を見つけ、小走りに駆け出した。自分も足を早めながらファルシオンが駆けていく先の人物を確認し、レオアリスはほんの少し、呼吸を抑えた。
「母上、姉上!」
 王妃とエアリディアル王女だ。レオアリスは王妃達のいる柱の二つほど手前で立ち止まり、膝を付いた。
 王妃とエアリディアルは暖かな笑顔でファルシオンを迎え、王子の小さな身体を抱き締めた。王妃は身体を放すとそのほっそりした手を上げ、ファルシオンの柔らかな銀色の髪を撫ぜた。
「貴方のお姿はここからずっと拝見していました。良く務めを果たされておいでですね、ファルシオン」
 手の優しさにファルシオンはくすぐったそうに笑った。母の前に立つと、やはりファルシオンは歳相応に幼さが滲む。
「でも貴方は今日の宴の主人です。主人が余り長いこと席を外してはいけませんよ」
 しっかり諭されてしまったが、ファルシオンはしおれたふうでもなく頷いた。
「わかってます。でも、母上と姉上にごしょうかいしたかったんです」
「まあ、何をでしょう」
 問いかけに、ファルシオンはぱっと振り返ってレオアリスを示した。
(ん?)
 レオアリスが膝をついたまま身動ぐ。
「レオアリスです。父上の剣士で、でも今日は私の警護をしてくれているの」
 ファルシオンの少しばかり得意そうな様子を見て、王妃はくすりと笑みを零した。ファルシオンが何を言いたくてここまで来たのか、すぐに判ったからだ。
 ファルシオンがこの近衛師団大将を気に入っているのは当然、王妃も聞いているし、そもそも王妃という立場で近衛師団の大将を知らない訳はない。
 ただファルシオンは、改めてそう紹介したかったのだろう。当のレオアリスは少し意表をつかれたようで、二人の様子がまたおかしかった。
「素敵ですね、彼なら必ず殿下をお護りするでしょう」
 そう言って、王妃はファルシオンの肩に手を置いたまま、レオアリスへ面を向けた。
 高く結い上げた深い茶の髪と淡い光を含んだ藤色の瞳が、穏やかさと知性を感じさせる。
 跪いているレオアリスを見て、王妃は柔らかい微笑みを浮かべた。
「今はお立ちなさい、第一大隊大将。今日のそなたは王太子殿下の護衛、わたくし達に膝をつく必要はありません」
「――御前、失礼致します」
 レオアリスは立ち上がり、再び黙礼した。
 王妃や王女の目前に上がる機会はほとんど無いと言っていい。基本的に居城で過ごす為、身辺の警護は王宮警護官が担っている。何かの式典で王の傍らに立つ時に姿を見る程度だ。
 やはり王に対面するのとはまた別の緊張感がある。
「いつもファルシオンが面倒を掛けていますね。それに、昨年の暮れは、よくファルシオンを無事に戻してくれました。改めて礼を言います」
 王妃の言葉には心の底からの安堵が感じられ、あの時の心痛がどれほどのものだったのか、と今更ながらに思った。
 ファルシオンは階下からの視線をあまり気にしなくていいせいか、王妃の手をしっかり握りながら顔を見上げた。
「レオアリスの剣はとてもきれいで強かったんです、母上」
「まぁ、のんきな事を仰って」
 王妃は仕方なさそうに優しげな眉を寄せて笑った。それから再びレオアリスを見つめる。
「そなたとこうして会うのは初めてですね。けれど陛下から時折、そなたの事をお聞きしています」
 レオアリスの面に昇った喜びの感情を見つけ、王妃は少なからず驚きを覚えた。
 王への信頼や尊敬が深いのは、例えばアヴァロンも同じだ。
 けれど目の前の少年にはそれとはまた別の、単純なまでに純化された敬愛があった。
 おそらく他の者達がレオアリスの姿を見て感じるのと同様に、王妃もまた、父を慕うような、と感じ、そしてバインドの例があり一族の過去がありながら、王がレオアリスを懐に迎え入れた理由が判ったように思えた。
 ここまで純粋な、逆に見ている方の胸が弾むような喜びを見せられては。
 口元を綻ばせる。
「これからもファルシオンを、よろしく頼みます」
 王の下命とはまた違う、母としての言葉に、レオアリスは自然と頭を下げた。
「私の力の及ぶ限り、ファルシオン殿下をお護り致します」
 それまでエアリディアルは柔らかい眼差しで王妃とファルシオンの姿を見つめていたが、ふと顔を上げ回廊をレオアリスへと歩み寄った。
 柱を一つ隔てた所で立ち止まり、向かい合う。
「最近はファルシオンが、いつも貴方の事をお話しになるのです。ですからわたくしも、初めてお話をさせていただく気が致しません」
 甘やかな響きの声でそう言い、エアリディアルは口元を綻ばせ、花が咲き零れるように笑った。王妃から受け継いだ藤色の瞳と柔らかく波打つ銀の髪は、大広間の天井がら下がった燭蝋の数百の灯りをまとって煌めくようだ。
 この国の王女はそこにいるだけで周囲に光が差すような印象を与えるのだと、そんな事を思った。
「でも先日一度、お会いし損ねてもいますけれど」
 今度は屈託のない、少しいたずらっぽい口調でそう言った。先日エアリディアルがファルシオンを訪ねて来た時の事を差しているのだと判り、レオアリスは内心冷や汗を浮かべる。
「大変なご無礼を致しました、すぐ気付くべきを」
「いいえ。おかげでとても微笑ましい光景が見れました」
 エアリディアルは年下だが、まるで年上のような口調で楽しそうに告げられ、レオアリスはどう答えるべきか却って迷ってしまった。まさかそれは光栄ですとも言えない。
 ただ、どうやら本気で面白がっているようだ。
「それに一つ、判った事もありましたし」
「お判りになった事、ですか」
 エアリディアルは微笑んで胸の前で両手を合わせた。一つ一つの仕草が、ふわりと絹が風に舞うように柔らかい。
「今も拝見していて判ります。ファルシオンは本当に、大将殿の事がお好きなのね。まるで本当の兄君のように慕っておいでです」
「それは――、身に過ぎるお言葉かと」
 エアリディアルはどこまで知っているだろうと、レオアリスはその瞳の色を見ながら思った。
 多分、全て知っているのだろう。当然。
「そうです。貴方がご存知の事はおそらく」
 ふいに言われ、レオアリスは瞳を僅かに見開いた。口に出した訳ではない。エアリディアルが微笑む。
「わたくしはほんの少しだけ、相手が何を考えていらっしゃるか、想像するのが上手いのです」
 想像するのが上手い。エアリディアルはそう表現したが、それはやはりファルシオンと同様に、王の血を受け継いだ結果なのだろう。
 胸の前で合わせていた手を下ろして重ね、エアリディアルは背筋を伸ばすようにすっと視線を上げた。
「王の剣士――」
 その呼び掛けは、ただ呼称を口にしただけとは違うように感じられた。
「そのつるぎを以って、陛下の御身を、どうぞお護りくださいますよう」
 その言葉もまた、ただ儀礼的な事を告げているのとは違う、もっと明確な何かを含んでいるかのようだ。
 しかしそれが頭の中に形になる前に、エアリディアルはにこりと笑った。
「貴方は陛下の御名をお聞きになると、迷いの無いとても真摯な眼差しをなさるのですね――ファルシオンは残念ながら、片想いね」
「――え」
 ええと、と間の抜けた相槌を打つ訳にも行かず、レオアリスは神妙に口を閉じた。
「貴方には、しばらく誰もが片想いをしそう。剣士とはどなたも同じなのかしら」
 エアリディアルはからかうようないたずらっぽい口調でそう言うと、反応に迷っているレオアリスを見て再びにこりと笑い、ファルシオンへ視線を戻した。
「さあ、殿下。貴方はそろそろ祝宴の席にお戻りにならなくては。わざわざ貴方を祝いに来てくださった皆様が待ちくたびれてしまいますよ」
 そろそろ回廊に上がって四半刻ほど経つ。ファルシオンがどうしているかと気にする者も多いだろう。ファルシオンも素直に頷いた。
「母上と姉上もご一緒に行かれますか」
 王妃が服の裾を持ち上げ、優雅に答える。
「殿下のお誘いであれば、喜んで」
 ファルシオンはにっこりして、母へと右手を差し出した。子が母の手を握るのではなく、貴婦人の手を引くように。
 王妃もファルシオンが差し出した手に、そっと自分の手を重ねる。
 ファルシオン達が自分の前を通り過ぎるのを見送り、レオアリスも距離を置いて階段へと向かった。
 ファルシオンと王妃の少し後ろを歩くエアリディアルの様子は穏やかなままだが、レオアリスを王の剣士と呼んだあの時の様子が少し気に掛かった。
 何かの意図の含まれた――
 そう、願い・・のような。
『わたくしはほんの少しだけ、相手が何を考えていらっしゃるか、想像するのが上手いのです』
 一瞬だけエアリディアルが顔を傾け、向けられた視線が合った。
 微笑みと――憂い。
「――」
 ファルシオンが王妃と共に大階段を降り始めると、拍手と歓声が上がって広間を満たした。



 アスタロトは大広間から回廊を見上げ、瞳が捉えた光景に、どくんと胸を鳴らした。
 流れる楽のよりも人々の騒めきよりも、自分の鼓動ばかりが耳に響く。
 二階の回廊の、白い優美な柱を挟むようにしてレオアリスと――エアリディアルの姿があった。
 ファルシオンが回廊に上がったのは、王妃や王女と話をする為だ。
 だからレオアリスがファルシオンに付いているのは当然で、エアリディアルとも話す機会だってあるだろう。
 それでも、心臓が痛いくらいに跳ねて、二人の姿を見ている事ができずに、アスタロトは視線を逸らせた。
 けれど気になって、意識はそちらへ向いてしまう。誰か話しかけて来ているのだが、それもほとんど聞き取れていなかった。
「どうしたの?」
 ふいにとても近くで声が掛けられ、驚いて視線を上げると、ルシファーの顔があった。あかつきの瞳が気掛かりそうな色を浮かべている。
「ファー……」
 アスタロトの瞳に頼りないほどの安堵の色が浮かぶ。
 ルシファーはそれまで熱心にアスタロトに話しかけていた青年を軽く睨んで追い払うと、彼女の隣の位置を確保した。
「何かあった?」
 アスタロトは少しためらい、首を振った。
「何でもないよ」
「そう? いつもと全然違う、浮かない顔よ。目の前にこんなに美味しそうなお菓子が並んでいるのに、いつもみたいにきらきらした顔じゃないのは淋しいわ」
 そう言うとルシファーは俯いたアスタロトの顔を覗き込んで、それから視線を回廊へ向けた。
「あら、レオアリスとエアリディアル王女ね」
 とたんに身を硬くしたアスタロトを見逃さず、ルシファーは笑った。
「何でもなくはないわね」
「――」
「気になるのね、やっぱり」
 いつかの夜にルシファーを訪ねて口にした事を、彼女はまだ覚えてくれていた。それは嬉しい、けれど。
「気になるとか、そんな訳じゃないんだ」
 暁の色をした瞳がじっと注がれる。その色と、ルシファーの頭ごしに見える回廊の様子が、意識の中で重なり合う。
 紫の水晶の中にあるような光景。
 エアリディアルは柔らかく花のように微笑んでいて、レオアリスの横顔からは表情までは伺えない。
 この国の王女と、王家を守護する近衛師団大将。
 二人の間で交わされるのは、どんな会話なのだろう。
「何を話してるのかしらね。聞きたい?」
 びっくりしてアスタロトは肩を跳ね上げた。
「えっ、そんなの」
 ルシファーは耳を傾け僅かに瞳を細めた。まるで風が運ぶ音を聞くように。彼女にはできるのかもしれない。
 そんな事をすべきじゃない、と咄嗟に思った。
「だめだよ、ファー」
 真剣なアスタロトの声がおかしかったのか――、ルシファーはくすりと笑った。暁の瞳が回廊を掠め、アスタロトに向けられる。
「――嘘よ。聞こえやしないわ、こんな遠い所から」
「――」
 ほっとしたのと、どこか期待が外れた気持ちも確かにあって、アスタロトは視線を落とした。
(遠い、ところ)
 ただ実際の距離を言っているのでは無い気がする。
 きっとこんな事は普通になるのだ、これから。
 レオアリスが足元の階段を昇れば昇るほど、今までの距離は広がっていく。
 わあっと歓声と拍手が上がり、アスタロトは顔を上げた。隣ではルシファーも拍手をしていた。
 ファルシオンが王妃の手を取り、大階段を大広間へと降りてくる。エアリディアルもまた、彼等の後ろから階段に姿を現わしたところだ。
 アスタロトはまた視線を落とした。
「――」
「風に当たる?」
 顔を覗き込むように問いかけ、ルシファーはアスタロトの肩に手を添えて促した。アスタロトを導いて露台への硝子扉を潜る。扉を閉ざす前にルシファーはもう一度ちらりと大階段へ視線を向け、微笑んだ。
 露台は少し肌寒い風が吹いていたが、大広間の熱気からは隔てられ、静かで心地良い。ルシファーとアスタロトは庭園を望む露台の手摺に手を置いて並び、辺りを見回した。
 大広間は王城の五階層に位置していて、西側の窓に面した庭園の先には城下の街の明かりが広がっている。
「夜の海みたいね――」
「え?」
 アスタロトが傍らを見ると、ルシファーは柔らかな微笑みを返した。
 花待ち月の風がゆっくりと抜ける。もうすぐいろいろな種類の花が一斉に咲き零れる季節だ。
 ルシファーは手摺に頬杖をつくようにして寄り掛かり、アスタロトの顔を見上げて、しみじみ告げた。
「貴方、本当にレオアリスが好きなのね」
「そ、そんな」
「違うとか、そんな言い訳止めなさい、損よ」
「――その」
「それ、貰ったもの?」
 ルシファーはアスタロトの黒い艶やかな髪を飾っている髪留めを指差した。白い貝殻と真珠を散りばめた可愛らしい品だ。
「レオアリスから?」
 アスタロトがさっと赤くなる。
「えっ、な、何で判るの?」
「判らない方が可笑しいわよ。今日の席にはちょっと物足りないけど、貴方がわざわざそれを選んだのには理由があるんでしょう。誰か身近で、気に入ってる相手から貰ったもの――まさかブラフォードから贈られた物を身に付けるとも思えないし」
「……」
 見事な推理だ。アスタロトは頬を赤くしつつ感心した。
「可愛らしいじゃない、貴方の黒い髪に良く似合うわ。レオアリスも意外と気が利くのね」
「――」
 ただ、今度はアスタロトは返事をせず、俯いてしまった。ルシファーが首を傾げる。
「どうしたの?」
「……た」
「え?」
「気付かなかったよ」
「?」
 アスタロトは何かをこらえるように、両手を硬く握り、さっと顔を上げた。
「さっき、ファルシオンのところに挨拶に行ったとき、全然気付かなかったもん!」
「――」
 ルシファーはアスタロトのちょっと潤んで見開いた必死な瞳を眺め、――吹き出した。
 いや、爆笑した。
「あーはははははは!」
「!!!」
 アスタロトが打ちのめされてぱかりと口を開ける。
「な、何で笑うのー!?」
「何でって……あはははははは!」
 ルシファーはしばらく露台の手摺に縋って全身を震わせていたが、しばらくして漸く笑いが収まると、顔を上げて目に浮かんだ涙を拭った。アスタロトが恨みがましい瞳を向ける。
「ファー……、ひどいよ……」
「……ええ、ちょっと、ごめんなさい……」
 まだ肩でぜいぜいと呼吸を繰り返し、それも次第に落ち着いてきたようだ。緩く波打つ黒髪を掻き上げる。
「えっと、何だったかしら」
「――何だったかってほど、話してないもん……」
「あー、そうね、ごめんなさい」
「――」
 いや、元々判っていたし、こういう所が好きなのだ。吹き抜ける風のように、掴みどころの無い軽やかな女性。
「じゃあ貴方は、それも悲しかったのね。気付いてくれなかったのが」
「そういうんじゃ」
「駄目よ、貴方は否定ばっかり。そんなのは損よ」
 もう一度、同じ事を言われて、アスタロトは押し黙った。
 そうかも、しれない。否定ばかりしたって、苦しくなってくるだけ。
「言わないと、伝わらないわよ。特に剣士なんてね」
「――」
「でも言えば、伝わるでしょ?」
 アスタロトはルシファーの瞳をまじまじと見つめ、それから遠くの街の明かりを見つめた。
 そうかも――しれない。
「ほら、レガージュにも剣士がいるでしょ。あれは大恋愛よ」
「レガージュって、あのザインって剣士?」
「そうよ。彼はあの街の娘に恋して、それでずっとレガージュにいるんだもの。剣士は戦いが本能だって言っても、事実そういう事だってあるのよ」
 ルシファーは悪戯っぽく片眼を瞑って見せた。
「そうね、例えば……レオアリスが貴方を、剣の主に選べば」
 一瞬、何の事かと瞳を瞬かせ――、アスタロトは力いっぱい首を振った。
「それは無いよ、だってレオアリスの剣の主は、王だもん。絶対無い」
「絶対無いなんて、無いのよ」
 口調こそ変わらず柔らかいが、断ち切るような、それこそ断言だ。
「主は必ず一人きりだって、決まったわけじゃないしね」
「――」
 見つめるルシファーは柔らかく微笑んでいる。
「まあ今は行き過ぎた話かもしれないけど、あんまり躊躇ってるといつの間にか他の人に気持ちが向いちゃってるかもしれないわよ?」
「他の……」
 ルシファーが誰を指して言っているのかがアスタロトにも判り、少し不安そうに瞳を見開いた。
「剣士の剣は切り裂く為だけではなく、誰かを守る為の剣だとも言うわ」
 ルシファーの声は美しい音楽のようだ。
「エアリディアル王女は守りがいあるわよね。弱々しい感じじゃあないんだけど、私だって守って差し上げたくなるもの」
 庭園から吹き抜けてくる風は、窓や硝子戸や王城の石壁に遮られ、四方に散る。二人のいる露台から、燭蝋の光に満ちた大広間への硝子張りの扉は明るく輝いて映る。
「変な言い方だけど、無条件に惹かれるんじゃないかしら。特に、剣を捧げた主の血を引く娘だもの」
「――」
「これからきっと、二人が会う機会は多くなってくるし、距離はずっと縮まるでしょうね」
 回廊で向かい合っていた二人の姿が脳裏に浮かぶ。エアリディアルは柔らかく微笑んでいた。
 月の光を集めたような銀色の髪。風に舞うような軽やかな仕草。穏やかさと聡明さ。
 エレノアの言う貴婦人とは、まさにエアリディアルのような立ち居振る舞いを言うのだろう。自分とは全く、違う。
 誰が見たって、エアリディアルは好ましく思えるに違いない。
(どうやったら、あんな風になれるんだろ)
 レオアリスも、きっと――
 レオアリスにとっては自分は、気の合う友人で、多分それ以上じゃない。でももしかして、あんな風になれれば、変わるかもしれない。
(――違う)
 アスタロトは自分を抱き締めるように、両腕をぐっと握った。
 違う。
 一番の問題は、レオアリスが近衛師団でいずれは総将になって、アスタロトが正規軍の総将軍だと言う事だ。
 変わったからって何にもならない。
 『アスタロト』である以上。
 エアリディアルとは何もかも正反対だ。
(どうして――)
 こんなに自分が届かない立場の相手が、こんなに近くにいるのだろう。
 ルシファーは笑みを深めた。
「いなかったらって、思う?」
 ぎょっとして、アスタロトは顔を上げた。全身の血が逆流したような感じがする。
「そ――、そんな事」
「思ったって変じゃないのよ。別に悪い事じゃあないわ。好きだとかそんな感情、綺麗なばかりじゃないのよ」
 くすくすと笑う姿は、冗談だか本気だか、全く判らない。
 ただルシファーは、アスタロトに一歩近寄って、その瞳を覗き込んだ。
「でも、そうね、あんまり難しいことを言うつもりは無いけど、私からの忠告よ」
「……」
 深い紫の瞳を見つめると、どこまでも深い夜の空に吸い込まれるようで、アスタロトは知らず手摺に掴まるように両手を置いた。鼓動が早い。
「機会は幾らでもあるのに、自分に正直にならなくちゃ、何も変わらずに失うだけよ」
 柔らかく、密やかに微笑む。いざなうように。
「失うだけ」
「――ファー……」
 何を言おうとしているのか判らないまま、アスタロトはルシファーの瞳から視線を逸らせずに、唇を震わせた。
 眩暈がする。
 大広間から、わっと賑やかな歓声が洩れ、アスタロトは我に返った。音楽の音が一層盛り上がり、広間を満たしている。硝子の向こうの賑やかさが温度を持って伝わってきて、ほっと息を吐く
「舞踏会に変わったみたいね。殿下が踊っていらっしゃるのかしら。見に行きましょう?」
 ルシファーは硝子扉から零れる明かりに彩られ、にっこりと笑った。





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