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「竜の宝玉とはじまりの森(仮)」

第八章「死のあぎと」 (一)


 咆哮が薄く薄く、大気に溶けるように消えていった後も、ワッツや兵士達は呪縛をかけられたかの如く凍り付いていた。
 丘の上に闇が降りたように翼を広げた、巨大な、黒燿の竜。
 任務としてこの森に投入され、その影に怯えを覚えていながらも、彼等は本気では、黒竜が目の前に現れるとは考えていなかった。あくまでも、それはお伽噺の中の恐怖だったはずだ。
 しかし今、お伽噺でしか有り得なかったその存在が、目の前にある。
 風が哭いた。
 びょうと顔に吹き付け、ワッツはゆるゆると腕を上げた。額に指先が触れ、吹き出た汗が氷のような冷たさを伝える。
 軽口を叩く裏で黒竜の脅威を予測してはいたが、これほどまでとは想定していなかった。
 丘の上にあり眼下を睥睨する闇のごとき姿を眼にするだけで、身体の奥底から本能的な震えが止め処なく這い上がる。
(範疇を超えてるだと?)
 自分が吐いた言葉が薄っぺらく思えて、ワッツは口元を歪めた。
 そんな代物ではない。次元が違う。
(あんなもの……人がどうにかできる訳がねぇ……)
 黒竜が首をもたげる。ずらりと牙の並んだあぎとが空気を吸い込むように開かれ、胸が膨らんでいく。
 何をしようとしているのか、判っていた。判っているのに、誰一人、まるで魅入られたように動かない。
 竜の息。彼等竜族の最大の武器だ。先程大地を破ったそれを、再び放とうとしている。
 炎、吹雪、水瀑、その特性により様々ある中で、この黒竜の息は、酸だ。
 触れたもの、全てを溶かす、死の息。
 黒竜のあぎとが、大きく開かれた。喉の奥に沸き上がる、白い光。
(来る――)
 そう思った瞬間、一条の光が放たれた。
 轟音と突風が吹き抜け、ワッツは草の上に背中から倒れ込んだ。
 だがその瞳は、見開かれたまま、光の走り抜けた場所に釘付けにされている。
 無い。
 そこにいたはずの、兵士達の姿が。光が抜けた跡にあったはずの、森の樹々が――消えた。
 大地は抉られ、その無惨な傷痕を晒している。
 樹々が、大地が、ぐずぐずと溶けているのが見えた。その上に何かが点々と散らばっている。
 じっと眼を凝らし、ワッツは呻いた。
 溶け残った、兵士達の足だ。
 恐怖に叫び出したい。だがそれは、塊のように喉に詰まった。
 恐怖の呪縛から彼等を目覚めさせたのは、ウィンスターの叱責の声だった。西方軍第六大隊大将は池の縁に立ちはだかり、兵士達を見渡した。
「何をしているかっ! 退け!」
 声に打たれて、凍り付いていた兵士達がはっと顔を上げる。
「もう一度来るまでには猶予がある! 森へ散れ!」
 丘の上で、黒竜は再び、大気を体内に呼び込もうとしている。
「ワッツ! 貴様が動け!」
 ワッツはバネ仕掛けが弾けたように身を起こした。兵士達を引き付けるように、声を上げながら森へ走る。
「走れ! 立ち止まるな! 固まらずに走るんだ!」
 兵士達がまだ呪縛を掛けられているように、じりじりと退る。それから、漸く駆け出した。
 だが、もはや絶望的だ。
 どこへ走ればあの息から逃れられるというのか。
 光が黒竜の喉元を染めている。
 ワッツの中に、諦めにも似た感情が込み上げた。
(誰も――)
 生きては戻れない。
 ふいに岩を鳴らすような雷鳴が響いた。森の中からだ。
「何だっ!? 新手か……」
 ワッツが棒立ちになって音の方向へ視線を向けた時、森の奥から一直線に走った金色の光が、黒竜の身体を撃った。
 巨大な身体を雷光が爆ぜ、黒竜が金属を擦るような苦鳴を上げる。
「な、何だ――」
(法術――)
 リンデールかと振り返ったワッツは、視界に捉えた姿に愕然とした。少し前に送り出したはずの部下が、森の中から駆けてくる。
「クーガー、チェンバー!? ウェイン! てめえ等、何で戻ってきやがった!」
「ここに部隊がいるのに、俺達だけ帰れません!」
 クーガーはきっぱりとそう言ったが、ワッツは憤りのあまり、その肩を乱暴に掴んだ。
「馬鹿かっ! 死にに来やがってッ……てめえの任務はどうした! あのガキを」
「あいつ、すごいですよ、術が」
 興奮した口調のチェンバーが振り返る前に、彼等の背後に、丸い光の陣が浮かぶ。
 そこから再び金色の光条が、黒竜へと走った。
 光は黒竜を撃ち、黒い身体が身を捩る。巨体がよろめき、広げられていた翼が音を立てて地に落ちた。
 雷を呼ぶ法術――雷撃だ。
 驚愕の声と歓声が上がる中、ワッツの眼が消えていく法陣の向こうに、レオアリスの姿を捉えた。
「お前――」
 走り寄り、先程のクーガーと同じように肩を掴む。
「一体何考えてやがる! てめえ等は揃いも揃って頭がねえのか!」
 頭ごなしに怒鳴り付けられ、レオアリスはむっと睨み返した。言われなくても、まだ心臓は早鐘を打っている。森を走ったせいだけではなく、黒竜の姿を目の当たりにしたせいだ。
 一撃目の雷撃が間に合ったのが奇跡に近い程、腕も声も震えて仕方なかった。まだ残っている震えを振り払うように、早口で言い返す。
「効いてんじゃないか! 第一、そんな事言ってないで早く皆逃げないと」
「そりゃ」
 確かに、レオアリスの放った雷撃によって、黒竜は倒れたのだ。それはワッツにも、先程までの絶望を上回る希望を与えていた。
 どうにかなるかもしれない、と。
 術は効くのだ。
 一度退いて態勢を立て直し、強力な術士を呼べば。
(このガキの術だって、捨てたもんじゃねぇ)
 ふう、と息を吐いて気を静め、ワッツはレオアリスの肩を叩いた。
「礼は後から言う、とにかく退こう。仕切り直して術士を呼ぶ。それまではお前にゃ覚悟決めてもらうぜ」
 ワッツの言葉が終わらない内に、レオアリスの顔が強ばった。ワッツの肩越しに据えられていたその漆黒の瞳が、色を失って見開かれる。
「何だよ……」
 ぎくりと凍りつき、ワッツは嫌がる身体を無理矢理振り向かせた。
 食いしばった歯から呻き声が洩れる。
 丘の上で、再び黒い翼が広げられていく。
 レオアリスの擦れた呟き。
「二発も入れたのに……起きる」
 全く――効いていないのだ。
 レオアリスの漆黒の瞳に、傷痕一つ無い巨体を持ち上げた黒竜の姿が映った。
 黒竜の燃える両眼が怒りを映して、真っ直ぐ向けられる。
 レオアリスへ。
 翼が羽ばたく。風が渦巻く。
 ふわりと重量を感じさせずに、黒竜は宙に浮いた。
 急激に黒竜の翼が視界一杯に迫り、レオアリスは身構える間もなく翼が煽る突風に吹き飛ばされた。ワッツやクーガー達、その周囲にいた兵士達も、黒竜の翼に煽られて樹々に、地面に叩きつけられる。
 黒竜は森の樹々を苦もなくへし折って、レオアリスの前に降り立った。


 意識が飛んだのは一瞬だった。
 自分が樹の幹に凭れかかるように倒れているのに気付き、レオアリスは地面に手を付いて起き上がろうとしたが、身体は意識から切り離されたように全く動かない。
(――何が……)
 がしゅ、と何を擦るような音が響き、レオアリスは視線を上げた。
 目の前に、爛々と光る眼があった。瞳の虹彩に黒と赤い線が交じっているのまではっきりと見て取れる。夜を束ねたような鱗が連なった顔は、レオアリスの身長よりも、まだ大きい。
「――」
 黒竜と真っ正面から対峙したまま、その両眼に魅入られたようにレオアリスは動けなかった。遠くで微かに、声が響いている。
「……!」
(何だ――)
「……!」
 ワッツが、地面に倒れたまま、レオアリスに向かって叫んでいる。
(何言ってるんだ……?)
 ワッツが頭上を指差して――
 ふいに、音が戻った。
「坊主! 上だ!」
 鋭い鉤爪が、レオアリスの頭上から振り下ろされた。
 頭に閃いたのは、死の予感だ。鉤爪の、鋭利な光。
 身体の裡で、鼓動が鳴った。
 レオアリスの中で、何かが急速に膨れ上がった。


 その場にいた誰もが、眼を背けかけ、――それから、黒竜の足元から青白い光が差すのを見た。振り下ろされた爪は光に触れた瞬間弾かれ、黒竜が身を反り返らせた。黒い血が吹き上がる。
 耳をつん裂く音が辺りに響き――ワッツ達はそれが黒竜の苦鳴だと、後から気付いた。
 ワッツの足元の地面に、重い音と共に黒い塊が突き立つ。視線だけをそろそろと動かして、ワッツはその塊が黒竜の手から失われた鋭い鉤爪だと判った。
 その断面は、鋭利な刃物で断たれたようだ。
(――何だ)
 黒竜の右手から、幾つかの爪が根元から失われ、血を滴らせている。ワッツはレオアリスを取り巻いている青白い光を見つめた。その光が黒竜の硬い鱗を断ったのだと、この場で理解した者がいただろうか。
 声もなく息を呑んでいるワッツ達の視線の先で、レオアリスを包む光は、ゆっくりと薄れていく。
 レオアリスは樹の幹に背中を預けたまま、死んだように動かない。鉤爪が当たったのかすら、ワッツの位置からは判らなかった。
「ガキ……」
 呟いて、漸く駆け寄ろうとしたワッツの頭上から、黒竜が吼えた。


 黒竜の眼が怒りと――驚愕に満ちて、自分の爪を落とした存在に向けられる。身を鎧う硬い鱗はこれまで永い時の中で、傷一つ受けた事はなかった。
 この存在は危険だと、黒竜は本能的に理解した。


 黒竜はレオアリスを叩き潰そうとする代わりに、彼を避けるように巨体を引いた。あぎとが開かれ、喉の奥が光り始める。
(不味い……)
 死の息を放とうとしている。
 その破壊の力に対する恐れだけではなく、黒竜が怒りや痛みに我を忘れる事無く、最も確実な手段を取ろうとしている事実に、ワッツは慄然とした。
「――ちくしょう!」
 チェンバーが剣を引き抜き、ワッツの横から飛び出す。
「待てッチェンバー!」
「あんなガキ見捨てるなんてできません!」
 レオアリスは彼の息子と同じ位の年で、その事がチェンバーの身体を動かした。チェンバーは黒竜の喉元目がけて剣を力の限り投げつけ、硬い鱗に弾かれるのも構わず倒れているレオアリスの元へ駆け寄る。
 剣は黒竜の気を、僅かながら反らす役割を果たした。だが黒竜の動きが止まったのは一瞬で、黒竜は走り寄るチェンバーへと首を巡らせた。
 黒竜の太い尾が唸りを上げてチェンバーへ振り下ろされる。大地を砕く音が響き、土煙が上がった。チェンバーの身体が弾き飛ばされ、森の中に叩きつけられる。
「チェンバー!」
 ワッツとウェイン達が駆け寄ろうとした時、ウィンスターの声が走った。
「斉射用意、一陣撃て!」
 号令と共に数十本の矢が一斉に放たれる。驟雨のような矢の中で、黒竜は喉に湛えた光を飲み込み、鬱陶しそうに身体を振った。
 ワッツの視線の先、黒竜の向こうに、ウィンスターは既に兵を横並びの三層に配置していた。二列目の兵が立ち上がり弓を構える。
「ワッツ! 第二射と同時に走れ! 救出する!」
「大将……」
 ちらりとワッツの頭を過ったのは、何故ウィンスターがレオアリスを――言ってしまえばただの子供を、危険を冒して救出しようとするのかという疑問だ。しかしその疑問を掴む前に、今はただ、レオアリスとチェンバーを救い出す事を選んだ。
「ウェイン、クーガー! てめぇ等はチェンバーのとこに行け!」
 弓が引き絞られる。黒竜が兵士達へと向き直り、ワッツ達に背を向けた。
 ウィンスターの号令、弦が風を打つ音と同時に、ワッツは黒竜の足元へと走った。黒竜の鱗に鉄の矢じりが弾ける音、次いで第三射の風切り音が響く。
 黒竜の鱗に弾かれて落ちてくる矢を避けレオアリスの元へと駆け寄ると、ワッツは剣の鞘を払いながら、倒れているレオアリスの顔を覗き込んだ。目を伏せた顔はただ眠っているようで、一見しただけでは、どこも怪我などは無いように見える。
(――)
 手を掛けようとして、黒竜の爪を落とした光が脳裏を過り、ワッツは一度びくりと手を引いた。それから舌打ちして一息に担ぎ上げる。
 腕が切り落とされる事もなく、「当然だ」ワッツは呟いて、止め処なく降り注ぐ矢の音を背に森の中に走り込んだ。
「ウェイン! クーガー!」
「ここです!」
 樹々の向こうから声が上がる。彼等は少し離れた樹の根元にしゃがみ込んでいる。ワッツに向けられたクーガーの顔は蒼白だ。
「チェンバーは」
「い、息はあります。けど、動かせねぇ」
 ウェインの涙交じりの声に、彼の肩越しから倒れているチェンバーを覗き込み、ワッツは口元を引き結んだ。
 あの尾をどう受けたのかはっきりは判らないが、左半身に重症を追い、左腕と左脚の骨が折れている。大量の血が身体と地面を染めていた。
「救護班を呼ぶ。何とか血止めしろ」
「俺が行きます。少将はそいつを……そいつはどうなんです?まさか」
 クーガーが立ち上がり、ワッツが担いだままのレオアリスの顔を見つめた。
「安心しろ。多分目ぇ回してるだけだ」
「良かった。……そいつ――、いえ」
 クーガーにもワッツと同様の疑問はあるようだったが、思い直したように口を閉じた。一度辺りを見回し、他に一人の兵士の姿も見えない事に苛立ちを浮かべ、また池の方向へと駆けていく。
「チェンバー、しっかりしろ。すぐ救護班が来るからな……」
 ウェインは引きちぎった布をチェンバーの傷に巻きつけながら、彼の顔を覗き込み、絶えず声を掛け続けている。ワッツはレオアリスを地面に降ろし、ちらりと頭上を見上げた。樹々の隙間から見える黒竜は、矢の雨の中で、取り合うべきかどうかを考えているように見える。
 少し鬱陶しいが、どうしようか?
 そんな様子だ。
 鋭い鉄の矢も鋭利な剣も、何百あろうと全く無意味だと、ワッツは改めて思った。レオアリスの法術、それすら全く効いていなかったのだ。
(引き付けて――それからどうすんだ……)
 このままでは、ウィンスター達が先に黒竜の息を受けるだけだ。
(このガキを優先する事に、何の意味がある?)
 だが、確実に意味があるのだ。ウィンスターがわざわざレオアリスに面会した事と、同じ意味が。
 状況を掴めていないワッツには、分の悪い選択に思えたのは当然だろう。
 レオアリスの身を取り巻いた光が黒竜の爪を断った事で、ウィンスターは既に確信し、そしてレオアリスの救出を優先させる事を決めた。黒竜を倒せる可能性をだ。
(あの光――あれが関係あるのか)
 何故、黒竜の爪が光に断たれたのか。それは果たして希望と言えるのだろうかと、ワッツは思った。
(希望――?)
 ワッツの眼が黒竜の喉元に吸い寄せられる。
 黒竜が大気を呼び込んでいる。
 最早黒竜の気を逸らす手立ても無い。あの一吹きで、宿営地にいた兵士達は掻き消える。その次は自分達かもしれない。
(希望なんてあるか?)
 ただ、もう慌てる気にもならなかった。
 運良く生き残る者が何人いるのか――、二百五十の兵士達の内に。カトゥシュを封鎖している、西方軍第六大隊の内に。その先をワッツは考えるのを止めた。
 黒竜が現れた事に、司令部は気付いただろうか。だが、指揮を執るウィンスターがここにいる。
(上手い具合に本隊の増援なんてねぇだろうし、あってもな)
 万策尽きたと、ワッツが他人事のように思ったその時に――。
 救いの手は、もう一度、差し伸べられた。
 ワッツにそれは、空から火矢が降り注いだように見えた。
 黒竜の身体を炎が包んだ。黒竜が身を捩り、吼える。
「下がれ!」
 凛とした声と共に、黒竜の頭上に青い飛竜が滑り込み、ぐるりと旋回した。
「皆下がれ!」
 アナスタシアが飛竜の背に立ち、再び叫ぶ。
「炎帝公!」
 肌を焼くような熱を感じながら、兵士達が、ワッツもウェインも上空を振り仰ぎ、その姿を見つめた。





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