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「竜の宝玉とはじまりの森(仮)」

第一章「春待つ雪」 (一)


 冬が、長い。
 積もり重なって根雪となり硬く凍った地面を数度蹴ってみて、薄く傷を付けただけの地面に溜息を吐き、少年は顔を上げた。
 吐いた息は白く大気を染めたが、瞬く間に僅かな温度を奪われて消える。
 視線の先では、白い雪に隠された街道が、これもまた雪に枝をしならせた木々の間を縫って南へと延びている。
 客は遅かった。もう予定時刻を半刻も過ぎている。この道では、迷ったのかも知れなかった。
 この北の僻地は一年の半分を雪が覆い、年が明けて三月も半ばになろうというのに連日のように雪が降った。花明けの月なんて嘘だな、と独りごちる。少なくともこの地では。
 少年の名はレオアリスという。年の頃は十四――正確には、あと十数日で十四を迎える。漆黒の色をした髪に漆黒の瞳は、この国では珍しくない色だ。短い髪に、首の後ろに一筋だけ、背の半ばまで伸ばした髪が頭の動きに合わせて揺れる。
「あーあ、仕事の前に救難活動か? 別料金貰えるかな」
 面倒そうに腕を腰に当てて肩を落とし、レオアリスはもう一度ぐるりと周囲に視線を巡らせた。
 今日の客は使い魔が欲しいと言って、正午丁度に村を訪れる予定だった。久々の上客だ。これであと一月、全員が暮らしていけるだけの金が入る。
 祖父に言われて、レオアリスが村外れまで迎えに来たのだった。
 ただ迎えに来ただけではない。最近祖父は、漸くレオアリスの法術の腕を信用し始めたらしく、今日の施術はレオアリスに任されている。
 今日は早起きをしてしまった。お陰で術の準備は万端、ぬかりない。
「おっせえなぁ……ホントに迷ったかな……」
 レオアリスは首をかしげ、背後を振り返った。
 低い山の奥には、この国の北の果てを告げる深い森、黒森ヴィジャが延々と広がっている。
 果てを告げるといいながら、果てがあるのかすら疑わしい程、黒森は広大だ。昼なお暗く木々がうねり、それ自体が生き物のように複雑に絡んで、入り込む者を惑わす。
 森に棲む様々な捕食者、強大な魔物。
 準備もせず知識もなく入ったら、十中八九生きては戻れない。
 幼い頃から黒森で遊んでいたレオアリスには慣れた場所だが、それも黒森からすればほんの一部を貸してやっただけの事だろう。
「ヴィジャに入り込んでたら、もう俺知らねぇぞ」
 でもそうすると金が入らないな、と不幸な遭難者を拾いに黒森まで行く必要があるかどうか少し悩んだとき、白い視界の先にぽつりと黒い影が現れた。
 レオアリスはホッと息を吐いて上げた片手を大きく振る。影はそれに気付いたのか、歩み寄る速度を早めた。
 近づいたのは二十半ば程の、見るからに術よりも剣を扱うのが得意そうな、体格のいい男だ。ちらりと腰に目をやると、案の定剣が佩いてあった。
 ほんの僅か、羨望がレオアリスの頭を過る。
 男は自分を出迎えたのがまだ十代も半ばの少年である事に驚いたようだった。
「ハモンドさん?」
「リベリー・ハモンドだ。遅れて済まないな、お前さんが出迎えかい?」
「そう。無事辿り着いてくれて良かったよ。ちゃんと割らずに持ってきた?」
「当然。大事に抱えて来たぜ」
 ハモンドが示した腹の辺りは、厚い外套の下が丸々膨れて突き出している。いわゆる、臨月間近の妊婦の姿だ。
 大柄な男の不釣り合いな姿にレオアリスは思わず吹き出した。ハモンドは重そうに腹を揺すり上げる。
「ちぇ、笑うんじゃねえよ。暖めるにゃ、これが一番いいんだろう」
「悪くない。……きっと、あんたに懐くよ」
 そう言うと、レオアリスはハモンドを手招いて村へと歩き出した。
「条件は全部揃った。着いたらすぐ取りかかろう」
「村はここから遠いのか?」
 ハモンドはこれまで腹の重さを支えてきた腰を拳で叩きつつ、辛そうに雪に隠された道の先を視線で辿る。道が続いているのが辛うじて判るのは、ここに来たときのレオアリスの足跡が残っているお陰だ。そうでなければ、この先どちらに行けばいいのかさっぱり判らないだろう。
「近いよ」
 レオアリスの回答は大した事も無さそうに短く、ハモンドはホッと肩を下ろした。
「さっきの話じゃ無いけどよ、来る途中分かれ道があるだろう。こっから半刻ばかり戻った辺り」
「ああ、うん」
「あそこの標識が雪で凍っててよ、右か左か判らなくて参ったのなんの」
「そりゃ良かったな。右に行ったらまんま黒森だ。明日には雪の彫像だぜ」
 黒森と聞いて、ハモンドは心底恐ろしそうに首を竦めた。
「冗談じゃねぇ……こいつを抱えたまま凍ったら元も子もねぇよ」
 レオアリスは面白そうな顔で振り返り、ハモンドの膨れた腹に視線を落とした。
「そいつ、何色? 黒? 赤?」
「バカ言うなよ、そりゃ軍だ。黒は師団で赤は正規だろ。普通の緑だよ。まあ使い魔に向いた種だから、騎乗用ともちょっと違うけどな」
「何だ、あんた軍じゃないのか」
 レオアリスの視線が剣に向いているのに気付いたのだろう、ハモンドは一度剣を叩いて、にやりと笑った。
「まだ、だ。でもこれからなる」
「これから?」
「御前試合に出るんだよ。だからすぐにでも使い魔が欲しい」
 その言葉に打たれたように、レオアリスはピタリと足を止め、ハモンドを見上げた。漆黒の瞳に光が閃く。
「……御前試合?」
「ふた月後に王都で開かれるのくらい、知ってるだろ?」
 閃いた輝きは瞬き一つで覆い隠された。レオアリスは再び雪の上を歩き出す。雪を踏む音が、静かな林の中に微かに散っていく。
「――いや。伝わんないよ、こんなとこ。王都の情報なんて、届くのに半年くらいかかる」
「へえー。まあ端っこも端だもんなぁ。こんなとこで商売になるのか?」
「一応ね。たまにあんたみたいな物好きが来る。基本的に仲介屋が怠けてんだ」
「はは。仲介屋に言うぞ」
 それには肩を竦め、レオアリスは前を向き直った後、溜息のように呟いた。
「御前試合か……」
「ん?」
 憧れと、ある種の焦りにも似た響きを含んだ微かな呟きは、ハモンドの耳までは届かなかった。
「いや。ほら、着いたぜ」
 レオアリスが示した先には、低い山脈を背景にして開けた土地に散らばるように、数棟の家が見えた。薄く煙を吐き出しているそれは、家というより小屋に近い。
 屋根の上に重く積もった雪の厚みに、良くあんな丸太と土で造られた家が重みに耐えているものだと、ハモンドは感心すら覚えて見回した。さすがにこの地方の環境に備えた造りなのだろう。
「あの先はもう、黒森か……」
 北の、辺境。王都より千四百里、およそ馬で辿っても一ヵ月半は優にかかる、この国の外れだ。ハモンドの生まれ育った街は王都ではないが、それでもここより半月分は王都に近く、それだけで街もここよりずっと栄えている。
 というよりも、栄えているという言葉で比較するのが相応しくないほど、その村はひっそりと静まり返っていた。
「こんなとこに暮してる奴がいるんだなぁ……、と、悪い」
「じいさん達の趣味だ」
 レオアリスは隠した頬に少し膨れた色を浮かべながらも、そう言うと一軒の家へ足を向けた。
 丸太を組んだ扉を開け、さっさとそれを潜る。
「ただいま。客連れて来たぜ」
 室内からは皺枯れた声と高い鳥の鳴き声が返った。
「遅かったのぉ。迷ったのかと思ったぞ」
「誰が? 俺が?」
 レオアリスはハモンドに入るように手招くと、その後ろでバタンと扉を閉じた。
 扉の奥はすぐ囲炉裏のある部屋で、部屋に入ると何かの香の匂いが鼻先をくすぐる。至るところに乾した草や瓶、何かの道具類や書物が置かれ、四方を埋めていた。内部は外見よりもずっとしっかり造られていて、屋外の冷気を防いでいる。
「カイ、ただいま。メシ食ったかー?途中でカズラの実見つけたぜ、ほら。じいちゃん、カイはこれもう食えるかな」
「食べるよ。喜んどる」
 レオアリスが近寄った相手の顔を見て、ハモンドは驚いた顔をした。
 そこにいたのは、羽毛に覆われた鳥の顔に背に黒い翼を持った――いわゆる半鳥族だ。目の前の少年とは似ても似つかない。
 レオアリスはその傍らにしゃがみ込むと、老人の肩に止まった灰色の小さな鳥の雛に、懐から出した赤い実を与えだした。雛は時折首を傾げつつ、新鮮な実を啄ばんでいる。
「え?」
 ハモンドの驚きなど気にした様子もなく、雛の頭を一つ撫でて立ち上がると、レオアリスは祖父と呼んだ老人の傍らを抜け、壁にかかった沢山の道具類から袋を一つを手に取って、その奥の部屋へと姿を消した。
 扉代わりに吊されている荒い目の麻布が揺れる。
「……お孫さん、ですか?」
 老人の顔に問いかけると、黒い羽毛に埋もれた瞳が、思いがけず柔らかく笑った。
「そうじゃよ。わしらには似とらんがのぅ。あれはレオアリスという。まあ、こいつの兄じゃな」
 老人が示したのは肩に止まった雛鳥だ。雛鳥もどう見ても老人と種が違うが、老人の暖かい口調に釣られたのか、ハモンドは多少の疑問を残しながらも笑った。レオアリスがひょいと顔を出し、ハモンドを呼ぶ。
「こっちの部屋だ。始めるぜ」
 老人はレオアリスへ、諫めるように嘴を向けた。
「レオアリス、陣を敷きっぱなしにするでないと言うておろう。いらぬ力が蓄まるわ」
「でも、今で丁度いいくらいだろ。このお客さん、早く必要らしいし」
「失敗しても知らんぞ」
「大丈夫だって。見たけど、いい感じになってるよ」
 レオアリスは隣の部屋へ戻りかけたが、老人は動く気配が無い。てっきりレオアリスは単なる迎えで、老人が術を行ってくれるのだと思っていたハモンドは、慌てて彼を呼び止めた。
「ちょっとちょっと……待ってくれ、――お前がやるのか……? 幾つだよ?」
「この春で十四」
 レオアリスはあっさりと言ってまた部屋に入ろうとしたが、ハモンドは更にその肩を掴んで止めた。
「じゅ――十四!? じゃ見た目通りか? 大丈夫なのか?」
 ハモンドの不安そうな目にムッと眉根を寄せたものの、レオアリスは殊更ゆっくりとした口調で答えた。
「大丈夫大丈夫。ちゃんと朝から準備してるから」
「いや、」
 腹に抱いた代物――飛竜の卵は彼にとって大切なものなのだ。大金を払って仲介屋から手に入れたばかりでもあり、失敗されたら取り返しが効かない。
 ハモンドは老人を振り返ったが、老人は素知らぬ顔をして肩に止まった雛の羽を撫でている。
「……失敗したら、施術料払わねぇぞ? 逆に飛竜代弁償してもらわにゃこっちが大損だ」
「大丈夫だって。そのお代にこの先一ヶ月の生活費が掛かってるんだから。それで食料の買い出しに行かなきゃ食うモン今無いんだ。当然根性入れるって。それに弁償する余裕もねぇし」
 あっけらかんと自らの窮状を述べたレオアリスを眺め、ハモンドは諦めたのか納得したのか本人も判らない様子で一度首を振り、奥の部屋へと向かった。
 奥の部屋は先程の部屋よりも半分程の広さだ。
 ただ、壁際の幾つかの木箱と部屋の中央に敷かれている白い布のほかには何も置かれていないせいか、広々と見えた。
 入り口の脇に置かれた木箱の中には、書物が詰まっているのが見える。
 法術書なのだろうと目を落としたハモンドは、それがどれも立派な装丁の書物であることに気が付いた。
「これ、随分貴重そうな本だな……高いんじゃないか? ……もしかして、この木箱全部か?」
「ああ……ここにあるのは全部本だよ」
 答えながらもレオアリスは部屋の中央に敷かれていた白い布を拾い上げる。
「……こりゃ、売ったら一冊でも軽くひと月のメシ代にくらいなるんじゃないか?」
 レオアリスはしゃがみこんだまま顔を上げた。漆黒の瞳に、不思議な光が過る。
「それは貰いもんだし、売る気もないんだ。それより、卵を出してくれ」
「あ、ああ。ちょっと待てな、これがしっかり縛り付けてて……」
 ハモンドは外套を脱ぐと、綿布に包まれた卵を片手で抱えながら、肩から背中にかけて厳重に縛り付けていた紐を緩めた。そっと覆っていた綿布を開く。
 現れたのは大人の頭程もある、灰色がかったまだら模様の楕円形の卵だ。
 くるりと回してみて表面にひびが無いことを確認し、ハモンドが安堵の溜息を洩らす。レオアリスも傍らから覗き込み、その様子を確認して頷いた。
「よし、ちゃんと無事だな。それじゃ、卵をその中央に置いて」
「どの――」
 レオアリスは自分の足元を指差した。部屋の床、先程レオアリスが布の覆いを取り払ったところに、丸く白い法陣が敷かれている。
 白いと見えるのは、少し薄暗い室内で陣が発光しているせいだ。
「置いたら、その紋章の上に乗ってくれ。あんたも陣の中だ」
「お、俺も……?」
「当たり前。主従の契約するんだろ。乗ったら、卵の上に手を当てて」
 指示された紋章の上にハモンドが恐々と足を乗せるのを確認し、レオアリスは向かい合うように陣の前に立つと、呼吸を整える。
 瞳を伏せ、ゆっくり、自分の呼吸を数えた。
 十分準備をしたものの、やはりいざ施術となると、少し緊張する。
 レオアリスは右手を胸元に当てた。服の上からでも、首から掛けた飾りの存在が判る。幼い頃からずっと身に付けているその飾りに触れると、緊張が少し解れた。
 法術を扱うのに必要なのは、知識と、経験と、集中力。
 それと、才能だ。
(ある。……多分)
 祖父は滅多な事ではレオアリスの法術の腕を誉めないが、村の他の皆は結構誉めてくれる。祖父はそれを甘いといって他の老人達を諌めるものの、最近良く仕事を任されるようになったのは、祖父もレオアリスの腕を認めてくれているのだ。
 それが嬉しいから、今回の仕事は完璧にしたい。
(まずいまずい、意識が逸れた。集中、……集中……)
 頭の中で定められた手順を追う。
 ハモンドは法陣の中で息を飲んだ。目の前の少年の一呼吸ごとに、室内の空気が張り詰めていく。
「すげぇ」
「あ!」
 レオアリスがいきなり小さく声を上げ、ぐっと張り詰めかけていた部屋の空気が、一瞬で元に戻った。ハモンドは陣の中で、卵に手を当てたまま不安そうにレオアリスを見上げる。
「おいおい……」
「名前、決めたか?」
「な、名前?」
 自分をぽかんと見返しているハモンドへ、その手の下の卵を指差してみせる。
「こいつのだ。契約に必要だから」
「ええ?そ、そうだな、えーっと」
 ハモンドは唸りながら暫く眉を顰めて考え込んだ。退屈になってきたレオアリスが欠伸をした頃合いで、ハモンドはようやく顔を上げた。
「じゃあ、チェスで」
「チェスね。まだ雄雌わからないからいいかもな。そしたら、契約の時にあんたは自分の右手の人差し指、それをちょっと切って、その血で相手の額にその名を書き込む。やってもらう事はそれだけだけど、そこが一番重要だからな」
 唾を飲み込んで頷いたハモンドを確認して、レオアリスは再び大きく息を吐いた。
「――始めるぜ」
 静かに、呼吸を繰り返すごとに、先程よりも更に室内の空気が研ぎ澄まされていく。床の法陣が次第に強く光り始めた。
 数呼吸の後、レオアリスが低く術を唱え始める。口の中で唱えられるそれは飛竜の属性である風系統の文言だ。それに、レオアリスの得意とする雷系の文言を「交ぜて」術を補強する。
 元々雷は大気系であり、同派の風とは相性がいい。老術士がレオアリスに今回の施術を任せたのは、その理由もあった。
 光を増した法陣が確実に熱を帯びていく。法陣から湧き上がった風に、レオアリスの首筋に一筋だけ伸ばした髪が煽られた。
 詠唱以外は聞こえない、静まり返った室内に、コトリと小さな音が落ちた。
 ハモンドが視線を自分の手許に落とす。
 いつの間にか、卵は熱を帯びていた。それが時折、コトコトと揺れている。
 レオアリスの詠唱に応えるように揺れは次第に大きくなり、やがてピシリと表面に亀裂が入った。
「!」
 亀裂から、激しく空気が漏れた。
 ハモンドは慌てて卵とレオアリスを見比べた。気づけばレオアリスは既に詠唱を止めている。
「割れるぜ――、契約の準備を」
 言われてハモンドは自分の人差し指を持っていた短刀で薄く切る。
 赤い血が、ポタリと滴った。
 ひび割れた殻の上に落ち、割れ目に吸い込まれるように消える。
 レオアリスは手にしていた袋から数枚の乾燥させた葉を掴み出すと、法陣の中に投げ入れた。
 葉が吹き上がる風に舞い踊りながら降り注ぐ。
 卵に葉が触れた瞬間、一瞬だけ圧倒的な風が吹き上がり、レオアリスとハモンドの衣服を煽った。
 渦巻く風の中に、黒い影が浮かぶ。
 影の中の二対の眼が、光を帯びた。
「手を伸ばして、額に触れろ!」
 ハモンドが言われるままに手を伸ばすと、激しい抵抗を示すように、高い咆哮が上がる。びくりと引っ込めかけたハモンドに、レオアリスの容赦無い厳しい声が飛ぶ。
「びびんな! 手を伸ばせ!」
「――っ」
 ここで少しでも怯えれば、主従関係は結べない。
(結構強いなぁ……いい風獣だ)
 術を押し返そうとする力に、自分の身に振動が伝わるのを感じながら、レオアリスは笑みを浮かべた。
 だが、ハモンドが腹に抱えてきたのは、非常にいいやり方だった。その温もりを覚えているのだろう、ハモンドが額に手を触れると抵抗はすうっと薄れた。
 それを見て、レオアリスはパン、と胸の前で手を打ち合わせ、その一方をハモンドの伸ばした手と対になるように法陣へ掲げる。
「繰り返せ。『天地を遍く巡る風の王の御名の下、我この風獣と契約を成す』」
「て――天地を遍く巡る風の王の御名の下、我この風獣と契約を成す……」
 法陣が目も眩まんばかりに輝きを増す。光は白く室内を包んだ。
「名前を」
 ハモンドの手が、飛竜の額に契約の名を書き込む。
 最後の一文字を書き込んだ瞬間、一際高く咆哮が上がり、――ふいに風も光も止んだ。
 室内が静寂を取り戻す。
 クルクルと喉を鳴らす音がして、冷たい感触の皮膚がハモンドの手の下に差し込まれた。
「――終了。それがあんたの使い魔だ」
 レオアリスが長い息を吐く。
 少し、疲労があるが、施術は完璧だ。
 ハモンドは自分の手に頭をすり寄せている飛竜を、驚きと感心が混ぜ合わされた顔で見つめている。
 大型の犬ほどの大きさで、緑の鱗が磨き上げられた珠のような艶やかさで身を覆っている。
 飛竜と一言で言っても様々で、この種は人を乗せて飛べるほどの大きさまでは育たないが、特に戦闘時に主を補佐する。
「……チェス?」
 呼ばれた飛竜はクワァと口を開けた。ハモンドが頭を撫でると嬉しそうだ。
 いいなぁ、と素直な羨望を抱きつつ、レオアリスは法陣の一部を爪先で切った。
「それにしても、何でわざわざ高い金出して急いで契約したんだ?多分一ヶ月もあればその卵は孵ったし、その間ずっと名前を呼んでやれば普通に懐く」
「すぐに助けが必要なんだ」
 ハモンドはレオアリスの問いに、少し顔を引き締めて答えた。
「御前試合に出る為に、資格を持ってかなきゃいけないんだよ」
「資格?」
「そう。西方のカトゥシュ森林に竜の洞窟があって、そこの竜が守る宝玉を持っていく」
 レオアリスはあんぐりと口を開けた。
 竜?
(竜って……)
「――無茶……」
 それこそ、地上最大級の生物だ。飛竜は馴らせるが、竜は馴らせない。
 まつろわぬ、強大な魔物。
 口から吐く息は炎、爪は鋼鉄よりも硬く、連なる鱗は剣を通さず、羽ばたき一つで竜巻を巻き起こす。
 年経て知能の高い竜は、法術を使う。
「で、宝玉?」
 俗説では、光り物を好む彼らはその巣に宝物を蓄える。中でも一番大事に守るのが、竜が手の中に持つ宝玉だ。
 それを、持ってくる?
「……死ぬだろ」
「いや、どんな小さくてもいいんだ。ただ、竜の息を帯びてないと、それと認められない」
 死なない程度のまだ若い竜さえ選べば何とか……と言ってハモンドは苦笑を洩らした。
「なるべく戦うのは避けるつもりだしな。まあ、運も実力の内ってヤツよ。それ持って御前試合に出られさえすりゃ、それだけで箔が付く。軍だろうと何だろうと、すぐ雇ってもらえるぜ。それよりほら、報酬だ。旨いもん食ってくれ。育ち盛りだろ?」
「ありがとう……」
 銀貨の詰まった革袋の重みを手に感じながら、レオアリスはそれとは別の事を考えていた。
 竜の宝玉。――王の、御前試合――。
 御前試合に出れば、王都で仕事が手に入る。その報酬は、この村で受けるものよりも、遥かにいい額だろう。
 収入があれば、村は潤う。
 それにもし勝ち抜けば、――王に仕える道も開けるかもしれない。
 レオアリスは壁ぎわに置かれた木箱にじっと視線を向ける。
 毎年届けられる、十数冊の書物。
 王都から送られてくるものだ。
 理由は知らない。
「レオアリス」
 名を呼ばれて、レオアリスは顔を上げた。祖父が入り口の布をからげて覗いている。
「客人が帰るぞ。外れまで送ってやりなさい」
「あ、うん――」
 レオアリスが奥の部屋から出てハモンドの後を追いかけるのを、祖父の瞳がじっと追う。
 扉が閉ざされたのを見送って、再び奥の部屋に――壁ぎわに置かれた木箱に眼を遣り、カイルは溜息を落とした。



「いやぁ、本当に腕は確かだな。この村は腕がいいって仲介屋が言ってたよ。最初はお前みたいな若いのが、大丈夫なのかと思ってたが」
 来た道を今度は逆に辿り、村の外れへと向かう。晴れたせいで雪は少しぬかるみ始め、遅いながらも確実に春が近い事を教えている。
「まあ、十年やってるからね」
 この、厳しく静かな村の中で、ずっと。
 いい村だ。冬場は満足な食糧もなく生活は厳しいが、その分短い春や夏が盛大に生命を謳歌する。
 萌える若葉、咲き誇る花々は、刹那であるが故にどこにも負けない程力強く、美しい。
 それでも――こことは違う土地が、確実にあるのだ。
「もっと都会に出れば稼げるぜ。せっかくだから教えてやるけど、もっとずっと南へ上がれば、今日の術だって倍近く取れるからな」
 それに答える代わりに、レオアリスは別の事を尋ねた。
「……王都はどんなとこ?」
 想像の王都はただただ華やかで、果てしなく遠い、別世界のような場所でしかない。
 レオアリスの問いかけに対してハモンドは眼を見開き、照れ臭そうに頭を掻いた。
「ああ――実は俺も行くのは初めてなんだ。どんなとこかは分かんねぇ。とにかくここから遠いから、急いで宝玉取って向かわないと、さ来月の新月までに間に合わないのは確かだな」
「あとふた月か。ギリギリだね」
 どこかで飛竜を借りるかしないと馬では間に合わないだろう。
(カトゥシュ森林まで行って馬で半月ちょっと、そこから宝玉を取って……何日かかるかわかんないけど、――残りひと月あるかないかだな……)
 ぼんやりと、その遠さを思う。
 村外れまで来ると、ハモンドはその先の雪で見分けにくい街道を眺め、うんざりと肩を落とした。
「こいつぁ迷いそうだなぁー。お前が飛べれば良かったな」
 見下ろされて、飛竜はハモンドの足元で翼を広げてみせた。
「いや、無理だから」
 ハモンドは両手を振ってその申し出を断る。レオアリスは笑って、それからふとある事を思いつき、少し言いにくそうにハモンドに眼を向けた。
「ハモンドさん、ものは相談なんだけど」
「相談?」
「餞別をやるからさ、その代わり、――その剣を譲ってくれないかな」
 ハモンドは一瞬何の事か判らなかったようで、レオアリスを見返した。
「剣?」
 何故術士が剣など欲しがるのかと、ハモンドの目には不思議そうな色がある。
「いや、大事なものならいいんだ」
 思いつきで言った面も大きく、少し恥ずかしくなってレオアリスは手を上げかけたが、ハモンドは意外にもあっさり頷いた。
「間に合わせで買ったからそれほど価値もないし、まあ構わねぇっちゃ構わねぇけど……餞別次第だな」
「ホントに?! マジで?!」
 勢い込んで顔を輝かせたレオアリスに、ハモンドが押されるように一歩退がる。
「交換するモノによるって……」
「よっしゃ、見てろ」
 くるりと身を翻し、レオアリスは街道へと向き直った。呆気に取られているハモンドの前で、低く素早い詠唱が流れる。
 風が見る間にその周囲に渦巻き始めた。
「おいおい、何――」
「悪いけど、剣は次の街で新しいのを買ってくれ」
 そう言うと、レオアリスは大きく息を吸い込んだ。
 鋭く、命じる。
「散らせ!」
 瞬間、突風が吹き抜け、ハモンドの外套が煽られ、宙を舞った。
「な――」
 ゴウと音を轟かせ、雪煙が吹き上がる。
 一直線に南へと走った風は、次々と積もった雪を吹き飛ばしながら、真っ白な林の中に道の帯を生んでいく。
 王都へ伸びる、街道の石畳だ。
「――」
 言葉もないハモンドへ、レオアリスは満面得意そうな笑みで振り返った。
「どうかな? 迷わず行けるぜ」





 グィノシス大陸の西端に位置するアレウス王国は、大陸に数十ある国々の中でも、特に古い歴史を持つ国だった。人々が数え挙げられる歳月だけでもおよそ五百年近く、現王のもと国が続いている。
 五百年だけが確かな歴史として人々に語られるのは、四百年前、アレウス王国と国境を接する西海バルバドスとの間に戦乱が起り、百年に渡って続いたその激しく凄惨な記憶が、人々の中で語り継がれてきたからでもある。
 国土と人命に甚大な被害を齎し、そして人々の心に深い疲弊と悲嘆を齎した西海との戦乱は、両国間に不可侵条約が締結される事により終結したが、それ以前の歴史は語り継がれる事なく薄れ、恐らくは王都の王立文書宮の奥深くで、歴史を抱えた書物が眠るのみだ。それを紐解く者はごく限られている。
 アレウス王国と西海との戦乱に例を見るように、絶え間なく小国が興っては消え、常にどこかで戦乱が続いているこの大陸に於いて、アレウス王国が長く続いてきた理由には、王のまつりごとと国の堅牢な体制によるものの他にもう一つ、地理的な条件によるものがあった。
 アレウス王国はその四方の地理により、他国とある意味隔絶している。
 国境の西と南は海に面し、西には古の海――海皇が治める西海バルバドス、南には南海沿岸に沿うように熱砂アルケサスが広がっている。
 東には峻険ミストラ山脈が鋭い峰を連ねて行軍を阻み、そして北には、広大な黒森ヴィジャが、溶ける事のない雪をいだいて広がっていた。
 故にアレウス王国は、西海との間に不可侵条約を締結して以来、他国との戦乱から無縁のまま、肥沃な大地の恵みを受けながら豊かに繁栄してきた。


 広大な国内では四季の巡りも土地ごとに違う。
 王都には今既に春が訪れ、南方の辺境部では既にうだるような暑さが戻ってきている。
 そして北の辺境では、まだ雪が固く溶ける気配が無かった。




 手に入れた剣は手に馴染む重量感を持っていた。
 レオアリスは満足そうに、剣を陽に掲げてみる。
「これは、どうかなぁ」
 疑問交じりに呟いたのには、それなりの理由がある。この村の剣は脆いのだ。
 使っている土が悪いのか、製鉄のやり方が違うのか、それは判らないが、一、二度斬るとすぐに折れてしまう。使うのは主にレオアリスばかりで――それは森での護身であったり獣を獲る為であったり、そんな時にだが――祖父達は剣が無くても困らないせいか、一向に改善してくれない。
 逆にレオアリスが剣を持つことを喜ばず、護身と狩りという理由の元に、無理を言って打ってもらっていた。
 祖父のカイルは術と剣、どっち付かずになるとレオアリスを諫めるが、実際、レオアリスの興味は完全に二分されている。法術はもちろん、祖父から受け継いだ業で、誇りがある。もっと腕のいい術士になりたいし、そうなればもっと多くの収入を得られもするだろう。
 ただ、剣は無性に惹かれるのだ。
 同世代の少年達がそうしたものに憧れるように、レオアリスも憧憬を抱いて手に入れた剣を眺めた。
 吹き抜ける冷たい風に押されるように歩き出しかけ、ぴたりと足を止める。
 少し迷って、結局レオアリスはハモンドから譲って貰った剣を、村外れの木のうろの中に隠すことにした。
 理由は、多分祖父に怒られるから、だ。
「またよろしく」
 子供の頃から何度となく、色々なものを隠してきてくれた木の幹をぽんぽんと二度ほど叩いて、レオアリスは満足そうな笑みを浮かべると、村へ足を向けた。僅かにぬかるんだ雪は却って重く足に纏いつくが、剣を手に入れたせいで気持ちは単純に弾んでいる。
 自分で取り引きして手に入れて、その上祖父に内緒なのがワクワクさせられるところだ。別にそれが何になるわけでもないのだが、十四の少年にはそれだけで十分価値があった。
 すぐにでも剣を振ってみたいという気持ちを抑え、いつどこで使おうかと、レオアリスは思いを巡らせた。
 狩りの時に。
 それとも、黒森に行って、腕試しでもしようか。
 それとも――
 『御前試合に出るんだよ』
 先ほどの男の言葉が頭を巡る。
 どくん、と心臓が鳴った。
 正直に言えば、王都には憧れる。一生に一度くらいは行ってみたい場所だ。
 世界の中心で、華やかで、多くの人々が集まっていて――この国の、王が、いる。
 鼓動が早まる。
 王とは、どんなひとなのだろう。
 それは幼い頃からの純粋な興味と、憧れだ。
 王都からは毎年春先に、様々な書物が送られてくる。使者が木箱に詰めた書物を二箱ほど運んでくるのだ。それはいつもレオアリスの誕生日と同じ日で、その日が近づくとレオアリスは二重に心が躍った。例年通りであれば、今年ももうそろそろ届くだろう。
 祖父達は儀礼的にそれを受け取り、目録を付け、暫くしたらレオアリスにも読ませてくれた。その多くが前年に書かれた新書で、だからこの村の知識はかなり新しい。
 使者が来る時はカイルたちが数人で対応し、レオアリスが同席させてもらった事は無かった。大抵その時は、使者に僅かな顔見せ程度の挨拶だけして、レオアリスは村の誰かに連れられ森や山に出かける。一日狩りをしたり、術を教わったり、大きい術を試したり、また帰ってくればその時に最大限用意できるご馳走――ご馳走は使者とは全く関係は無い、レオアリスの誕生日を祝うものだったが――が待っていた。
 だからそれはそれで楽しいのだが、残念だったのも事実だ。できるなら王都の話などを聞いてみたかった。
 一度、使者は黒い軍服を着ていた事があった。もう何年も前の事だろうか。
 それを見て、祖父のカイルは使者をそのまま追い帰さんばかりに怒ったが、あれは北方軍の制服とは違うものだった。北方軍なら、濃い群青だ。
 祖父が怒った理由は分からないが、黒い軍服が何を現わすのかくらいは、レオアリスでも知っていた。
 黒は師団――王を守護する、近衛師団の色だ。
 それ以来、軍服の使者が訪れた事は無いが、書物を送ってくるのは、もしかしたらずっと王に近い存在なのではないかと、そう思った。
(もしそうだったら、すごいよなぁ)
 こんな小さな村とどんな関わりがあるのかは知らないが、もし本当に王に近い存在が関係しているのなら、それはどういう理由からなのだろう。
 いくら聞いても祖父も村の他の老人達も、答えてくれた事は無かった。
「王都か」
 つい口から出た声にはありありと羨望の響きがあって、思わずレオアリスは周囲を見回した。
 雪の上には見渡す限り兎一匹いなくて、ホッと胸を撫で下ろす。祖父達に聞かれたらまずいと、そう思ったからだ。
 王都への憧れは、裏を返すせばこの村を出たいと言っているようで、何となく口に出しがたかった。
 一方で、それを抑えきれないほどに、その想いは次第にレオアリスの中に広がり始めていた。
 御前試合。
 それを聞いてしまったからだ。
 言葉に色があるとしたら、それは明滅する強い金色の光のように、レオアリスの意識に瞬き続けた。





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renewal:2007.12.31
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