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「竜の宝玉とはじまりの森(仮)」

第七章「それぞれの意志」 (二)


 天幕を出ると、まだ眩しい陽射しが空に高く昇っていて、午後もまだ早い位なのだろうと判った。周りを見回せば、そこはアナスタシアが水を汲みに出たあの池のほとりだった。
 あの時は何もなかった場所に、今は池の淵の狭い草地に沿うようにして幾つかの小ぶりの天幕が張られ、多くの兵達がその淵で立ち働いている。
「アナスタシア様!」
 振り返るとアーシアが駆けてくるのが眼に入った。
「アーシア……」
 優しい青い瞳を見たとたん、抑えていたものが込み上げて来て、アナスタシアはアーシアの首に抱きついた。
「アナスタシア様――?」
 アーシアはアナスタシアの様子に心配そうに眉を顰めたが、それでも何も言わずに背中を撫ぜた。
 ワッツはアナスタシアを探す為に、二百五十もの兵がこの森に投入されているのだと言った。一人の為に、二百五十だ。それは、アナスタシアが王都を飛び出す切っ掛けになった事と、とても良く似ていた。
 アナスタシアの不注意な行動の為に、ファーガソンを始め館の者たちが解雇される事になった、その事と。
 結局、自分がやっている事は何にも変わっていないのだと、アナスタシアは唇を噛み締めた。
 知っていて、判っているつもりで動いていても、本当には判っていなかったのだと。
 優先していたのは、自分の意思ばかりだ。
「――アーシア」
「――」
 強く抱き締めてくる腕の、裏腹なか細さに、アーシアはただ背中を撫ぜた。
 ワッツは暫く黙ってそれを眺めていたが、一つ咳払いをして口を開いた。
「申し訳ない、ご案内させていただいても?」
 アナスタシアは少し恨みがましい眼をしたが、それでも何も言わなかった。背中に添えられたアーシアの手の温もりだけを追うように、じっと意識を向けていた。
「まあ、貴方をお見送りしたら、我々もすぐに森を発ちます。」
(……良かった)
 それだけは良かったと、心からそう思った。
 アーシアは驚いた瞳でアナスタシアの顔を覗き込んだ。アナスタシアは口元を引き締め、アーシアの視線から逃れるように瞳を逸らす。
「アナスタシア様――王都に、お帰りになるんですか……?」
「うん」
 短く頷いて、アナスタシアは促されるままに、ワッツとリンデールに挟まれるようにして歩き出した。
 アナスタシアに気付くと兵士達は次々と膝を折り、感激したように声を震わせてその名を呼び、敬礼する。
「アスタロト様」 「公女」 「正規軍将軍」 「炎帝公」
 どれも恭しく感極まった声で、それが自分を過剰に崇めるように感じられ、早くこの場から離れてしまいたくて、アナスタシアは顔を伏せたまま足を早めた。それでも、彼等の声は嫌でも耳に入る。
「アスタロト公」
「炎帝公だぞ」
 逃げ出したいと、そう思った。
 そんな呼び名に、自分は相応しくない。
「炎帝公」
 耐え切れずに耳を塞ごうとした時、空気を切るように、聞き覚えのある声が響いた。
「アナスタシア!」
 思いがけない声に呼ばれて、アナスタシアははっと顔を上げた。声の主を探してさ迷った視線が、対岸に近い池のほとりに立っているレオアリスの姿を見つける。
「――レオアリス?」
 何で彼がここにいるのか全く判らず、アナスタシアは束の間立ち尽くした。
 それでも驚きの影から、ゆっくりと安堵が込み上げ、胸を満たしていく。
「レオ……」
 駆け寄ろうとして――そこで漸くアナスタシアは、レオアリスの周りに数人の兵士が張り付いている事に気付いた。アーシアが不安そうにアナスタシアの顔を見つめる。
「もしかして、何か勘違いされたんじゃ」
「――っ、どういうつもりだ! あいつは関係ない!」
 アナスタシアはワッツを睨み付け、食ってかかった。
「いや、彼は」
 ワッツの言葉を皆まで聞かず、アナスタシアは身を翻した。慌てて道を開ける兵士達の間を抜けて、レオアリスに駆け寄る。彼の横にいた兵士達がさっと跪いた。
 アナスタシアと兵士達とをレオアリスは交互に見つめた。その顔の上には驚きと当惑の色がありありと浮かんでいる。
 アナスタシアはそれに気付かず、腕を掴んだ。
「レオアリス! 何でお前こんなところにいる!」
「何でって、」
 どこから説明すべきなのかと首を傾げ――レオアリスはふとアナスタシアの顔に視線を止めた。アナスタシアの様子が、どことなく違って感じられたからだ。
 彼がこの場にいる事に驚いてもいるのだろうが、見開かれた深紅の瞳には、レオアリスが一番強く印象に残った、炎のような激しさがない。全くの別人のようですらある。
 まるで何かを堪えるようで、その事にレオアリスは知らず息を詰めた。
 疑問よりもまず、何があったのか、それが気になった。
「どうしてお前まで連れてこられたんだよ?!」
「俺は、何となく」
「何となく?! ――お前、バカ?!」
 呆れ返った声に、レオアリスは急いで取り消した。
「あ、いや、その何となくじゃなくて、訳の判らねぇ内に連れてこられたっていうか……そんな事よりお前等、大丈夫なのか?」
 レオアリスはアナスタシア達が軍に追われていたという認識しかない。だから一番心配していたのは、二人が捕まった事そのものだ。
 まだ驚いた顔で、レオアリスはアナスタシアと、彼女を追いかけてきたアーシアと、周りの兵士達を見回した。少し離れた場所では、体格のいい、頭を丸めて岩のような顔をした男が、そのこわもてにどことなく面白そうな色を浮かべてこちらを眺めている。
「――俺はてっきり、アーシアがまた倒れて、それで連れてこられたのかと……」
 レオアリスが考えていたものとは、だいぶ――いや、全く違う。
 捕らえられたというのなら、周囲の兵士達がアナスタシアに対して跪いているのはおかしい。
 正規軍の兵士達が、まるで彼女を崇めるように膝をついて。
「――お前、一体……」
 黙り込んだアナスタシアの隣で、アーシアが瞳を強張らせた。
「捕まった訳じゃ、ないんだな……?」
「私は」
「一体どういう」
 アナスタシアの腕に手を掛けようとして、いきなりレオアリスはぐいと襟を引かれた。首が締まって、後ろによろめく。
「いってぇっ」
「無礼者!」
 襟を掴んだ兵士は、そのままレオアリスを地面に引き倒そうとした。
「何するんだ!」
 アナスタシアが怒りの籠もった瞳を向ける。兵士はアナスタシアの瞳に睨まれて、レオアリスの襟首を掴んだまま、硬直した。
「も、申し訳ございません、しかしこの者が」
「いいからさっさと放せ!」
 兵士は慌ててレオアリスを解放し、畏まった。
「何……」
 首筋を擦りながら、レオアリスがまだ信じられない顔でその様子を見つめた時――きつい女の声が飛んだ。
「御前に跪かぬか! その方は次期アスタロト公爵ぞ!」
 さっと、その場の空気が緊張を孕んだ。そこにいた兵士達も再び、身を硬くして跪く。
 レオアリスは一度、その名前を口の中で呟き――アナスタシアを見つめた。
「――アスタロト……?」
 確認するような、訝しむその声が刃物のように鋭く感じられて、アナスタシアがびくりと肩を揺らす。
 『嘘つき!』
「アスタロトって」
 その名前なら考えるまでもなく、誰でもすぐに思い付く。
 アスタロト公爵。この国の最高位に位置する大貴族であり、正規軍を統括する、将軍だ。
 レオアリスは辺りを見回した。
 正規軍――ここにいる彼等の。
 あの炎。
「炎帝公……」
 半ば呆然と呟かれた言葉に、アナスタシアは耳を塞ぎたい気持ちになった。心臓がまるで早鐘のように、煩く音を吐き出している。
「レオアリスさん、アナスタシア様は」
 アーシアがレオアリスに何か言おうとしているが、その二人の姿すら、アナスタシアの瞳には、いつかの少年達の姿に重なって見えた。
 『騙して楽しいかよ』
「わ――私」
「貴様! 何故公の前で跪かん!」
 リンデールが歩み寄り、レオアリスの肩を掴んで、無理矢理跪かせようとぐいと押した。
「や……やめろっ」
 そんな事をされたら――全部断ち切られてしまう。
 止めようとして延ばした腕がやけに重くて、心臓の鼓動が頭に響き渡るように感じられた時、思わぬところから助け舟が入った。
「まあ中将、ここは一つ穏便に行きましょうや。見たとこそんな無粋な間柄じゃなさそうでしょう」
「ワッツ、貴様こそ、いい加減その口の聞き方を改めろ!」
 ワッツは大した事もなさそうに肩を竦めた。
「申し訳ない。こりゃ俺の性分でして。だから昇進が遅れるんですな」
「貴様、これが終わったら、辺境行きは免れんぞ」
「そうなるだろうと、既に家を購入しとりまして」
 ワッツは嘯いて、一瞬だけ兵士達の間に笑いを堪える空気が流れた。リンデールは忌々しそうにそれを睨んだが、明らかにここでの彼等の信頼は、ワッツに向けられている。
 リンデールは中将であっても、彼等にとっては一時的に派遣されたに過ぎない。正確に言えば彼等そのものが正規の編成ではないが、ワッツにはどこか人を惹きつけるものがあった。
「とにかく、ご存知の通り彼は別件で保護したんで、中将がお手を煩わせる必要はありません」
「別件……?」
 レオアリスはワッツとリンデールの顔を交互に眺め訝しそうに繰り返したが、ワッツはそれには答えなかった。リンデールもまた、納得の行かない様子ではあるものの口を閉ざしている。
 おい、とレオアリスの後ろの――レオアリスを捕まえた時に指示をしていた兵士に、ワッツは顎をしゃくった。
「連れて――いや、俺が預かろう」
 兵士がレオアリスを促す。押しやったり無理矢理引き摺るような事はしなかったが、有無を言わさない雰囲気に押されレオアリスはアナスタシアに視線を注いだまま、それでもワッツの前に移動した。アナスタシアもじっとレオアリスに顔を向けている。
 ワッツは苦笑を浮かべながらも、アナスタシアに敬礼した。
「公女。道中のご無事を」
 それをきっかけに、リンデールが恭しく、だがしっかりとアナスタシアの腕を取る。
「アスタロト様、参りましょう」
 互いに言いたい事があって、それを口に出せず、ただ相手から視線を逸らせないままに、距離だけが離れていく。
 レオアリスの顔にちらりと視線を落とし、ワッツは口の中で笑った。
「未練たらしい面だね。ま、相手があんな高嶺の花だって判って、しかもお別れじゃ仕方ねぇ。同情するぜ」
「……そんなんじゃない」
 そう、そんな事ではなくて……。
 もっとずっと、大事な事を。
「見栄張る必要はねぇよ」
 ワッツはまた笑って宿営地の奥を指差した。
「さて、お前にはこっちに付いてきてもらおう」
 ワッツはさっさと歩き出し、レオアリスも釣られるように二、三歩歩いたが――ぴたりと足を止めた。
 いきなりレオアリスが身を翻し、ワッツは驚いてその肩を押えた。
「おい、何」
「アナスタシア!」
 ワッツに構わず、レオアリスは声を張り上げた。レオアリスの視線のずっと先で、兵士達に囲まれていたアナスタシアが振り返る。
 表情は遠くて良く見えない。
 声が、届くように――レオアリスは大きく、息を吸い込んだ。
「――俺は、王都に行くからな!」
 一瞬の沈黙の後、アナスタシアは頷いた、気がした。
 リンデールに促されて、アナスタシアは歩き出し、周りの兵士の姿に隠されてしまう。
 見えないアナスタシアの姿が森に消えるのをずっと見送って、レオアリスは詰めていた息を吐いた。
「若いヤツは熱いねぇ。俺ももうちっと若かったらなぁ」
 ひゅう、と口笛を吹いたワッツを、レオアリスが少し呆れ気味に見上げる。
「……あんた幾つだよ」
「俺か? まあお前より十は歳上だな」
「え?! 二十四?」
 てっきり四十越えてるかと思った、と言いそうになって、レオアリスはぱっと口を押えた。
「そこまで若かぁねぇ……何だ?」
 気配を察知したのか、ワッツは小さい目を細めた。
「何でもない。――とにかく、あんたが思ってるようなのと違うけど、ただ」
「ただ、何だ?」
「……別に。」
 自分でも上手くは言えない。あんな状態のまま別れては駄目だと、そう思っただけだ。
 驚いたのは当然、物凄く驚いた。それは誰でも、突然相手が公爵だ正規軍将軍だと言われては驚くだろう。正直に言えば、レオアリスはまだ信じがたいくらいだ。
 ただ、傷付いたような、何かを堪えるような顔をしていたから――。
(どっかで見たな)
 同じような表情を、と考えて、思い当たった。
「ああ――」
 法術から引き戻された、あの時だ。泣きそうな。
「何だ?」
「別に何でもない」
「また別にか」
「いいだろ、何だって。それよりあいつらが無事なら、何で俺を捕まえたんだよ」
 レオアリスの物怖じしない言い方に、さすがのワッツも呆れた。
「お前、いい度胸してんなぁ。将来大物になるぜ。ま、俺みたいに出世にゃ縁遠くなるかも知れねぇけどな」
「あんたは辺境に家買ったんだろ。そんな事より」
 鼻先に皺を寄せたワッツの顔を睨む。
「早く解放してくれよ。俺もこの森に用事があるんだ」
 もう一つ、王都に行く理由ができたばかりだ。
「御前試合か? 竜の宝玉」
 レオアリスは立ち止まり、それから驚くというよりはもう半ば呆れ気味に、短く息を吐いた。
「――そうだよ。そんな事まで知ってんのか」
「軍の情報網を舐めんなよ」
 そう言ってから、ワッツはレオアリスをじっと見下ろした。
「――残念だが、そりゃ無しだ」
「何で……まさか御前試合が中止なのか?!」
「そうじゃねぇが、この森に入るのが今、禁止されてんだ」
「――黒竜……?」
 小さい緑の目が、レオアリスに対して剣呑に細められる。
「おめぇ、それが判ってんのにここにいるのか」
「はっきり判ってた訳じゃないけど……聞きかじったくらいで」
「状況判断できねぇ奴は早死にする。軍ではな」
 端的に事実だけを述べた言葉は冷たい刃物のようで、レオアリスは返す言葉もなく黙り込んだ。
 ワッツは肩の張った身体を揺らしながら歩き、レオアリスを小さな天幕に導くと「例の少年をお連れしました」と声をかけてから、顎で入れと促した。
(例のって何だ……)
 ワッツを見ても何も言わない。アーシアの為にではなく、もう二人が捕まった――捕まったというのは少し誤弊があるが――以上、レオアリスには軍が自分に何の用があるのかが判らなかった。
「――」
「ほれ」
 もう一度促され、渋々天幕の布を捲る。樹々の枝に器用に縄をかけて造られた天幕の中は、意外と広い。
 見回すまでもなく、入口の反対側に男が一人座っているのが目に入った。レオアリスの後について入ったワッツが、その前に敬礼した。
「ウィンスター大将殿、連れて参りました」
(大将――)
 ワッツと同じ濃紺の軍服の胸には、確かに地位を表すように幾つもの紀章があしらわれている。男――ウィンスターは表情を変えないまま頷いた。
「ご苦労だったな。貴様は下がれ」
 一瞬だけワッツはレオアリスに視線を送り、同席を願い出るべきか迷うような素振りを見せたが、再び敬礼した。
「――はっ」
 行ってしまうのかと言いたげに、レオアリスが首を巡らせてワッツの姿を追い掛けるのへ、口の端を歪めて答える。
 厚い布地を捲って天幕を出ると、ワッツはその前で振り返った。
(公女にゃ顔も見せねえで、単なるガキと面会か?)
 大将まで出張って来て、てっきりアナスタシアを迎える為だと思っていたワッツには、それは意外どころの話ではなかった。
(あのガキに何があるってんだ?)
 アナスタシアの捜索の為に組織された特殊小隊に、わざわざ名指しして探させた程だ。
(そんな大したボウズには見えなかったがなぁ)
 ワッツは暫く入口の布の隙間に目を凝らしていたが、薄暗い内部は伺えない。
 ただ、この場にいるなとも言われていないからと、その場に留まる事に決めて、傍の樹に寄りかかった。





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