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「竜の宝玉とはじまりの森(仮)」

第六章「重なる軌跡」 (五)


 漸く立ち止まった時には既に兵達の影も形も見当たらなかったが、肺は酸素を求めて破裂寸前になり、もう一歩も動きたくないと思わせるほどだ。
 アナスタシアもアーシアも、疲れ果てて樹の幹に寄りかかり、呼吸をぜいぜい言わせながら膝に顔を埋めている。
 漸く呼吸が落ち着いてきて、レオアリスは寄りかかっていた樹から身体を起こすと、荒い息のままアナスタシアを睨み付けた。
「何、やったんだ、お前等」
「……別にっ」
 アナスタシアは苦しい呼吸に肩を揺らしながら、ふいと顔を背ける。
「軍に追われてながら、別にじゃねぇだろ!」
「よく、この状態で、叫べる、ねー」
「誰のせいだっ」
「怒鳴ん、ないで、よー、やばーん、っ」
「あのなぁ」
 息を切らしながらアナスタシアも良く喋る。
「ま、まぁまぁ、取りあえず、もうちょっと、ゆっくり、しましょうよ」
 疲労困憊しながらもアーシアは穏やかな笑みを変えず、二人を眺めた後レオアリスは再び樹の幹にぐったりと身体を預けた。
(何なんだ、こいつら――)
 もしかしたら、とんでもなくヤバイ相手に関わってしまったのかもしれないと、荒い息を抑えながらレオアリスは汗の噴き出した額を手の甲で拭った。
 見上げた樹々の葉から洩れる木漏れ日が、奇妙なまでにきらきらと輝いている。もう朝靄は大分晴れて、緑の爽やかな香気が満ちていた。
(あー、いい天気……ホント訳判らねぇ……)
 朝っぱらから猛然と森を走って、一体自分はこの場所に、何をしに来たのだろうと、そんな事を思った。
 瞳を閉じ、深く息をつく。
 目蓋の裏に、あの炎が甦る。
 無軌道で、奔放な。
 再び見開いた瞳に、木漏れ日はどこか陰って見えた。
「あの炎、あれ」
 アナスタシアが視線を上げる。深紅の瞳と漆黒の瞳が、正面から向かい合う。レオアリスは僅かに身構えた。
「見たことがある。おとといの晩だ」
「あ、あれね」
 レオアリスの予想に反して、アナスタシアは驚きもせず、あっさり頷いた。アナスタシアからすれば、あの時レオアリスがあそこに居たのはもう判っている事だ。
「――術じゃない。何なんだ」
 レオアリスの問う声は、緊張と警戒を孕んで低い。今や再び、二人は睨み合っている。
 緊張を破ったのはアナスタシアだった。
「――のど渇いた。」
「……え?」
 レオアリスは思わず瞳を瞬かせ、少女の顔を眺めた。こんな時にも関わらず、周囲からくっきり浮き上がって見えるくらい、可愛らしい顔立ちだ。
 ついうっかり、状況も忘れて見惚れかけていて、次の発言で我に返った。
「のど渇かない? あんだけ走って全然?」
「え、いや……そりゃ、喉は渇いてるけど……今はそういう話じゃなくて、」
 何の話だっただろう。レオアリスが戸惑っているのは何も見惚れていたからだけではないはずだ。
「こんなのどをからっからにして話す話でもないじゃん」
 そう言うと、アナスタシアはまだ言葉を失っているレオアリスを尻目に、きょろきょろと辺りを見回した。
「ねぇアーシア。この辺って水ないのかな。小川とかさ、昨日流れてただろ?」
「……昨日の場所からは、だいぶ離れてしまいましたから……」
 アーシアはまだ樹の幹に寄りかかったまま、疲れが残っているのか俯いている。
「ええー! もうすっごいのど乾いてるんだけど」
 あれほど全力疾走をすればそれも当然だろうし、レオアリス自身もひどく喉の渇きを感じてはいたが、それでこの場を逸らされてしまうのが納得がいかない。
 自分が持っていた水袋を、アナスタシアに向かって投げる。
「それ飲めよ。そしたら話せるだろ」
「水?」
 レオアリスから放られた水袋を嬉しそうに受け止めて――その少なさにアナスタシアは顔を上げた。
「……三人分無いよ」
「いいから飲め」
「でも、三人分じゃない」
 頑なにそう言って、ぐい、とアナスタシアは水袋をレオアリスに向かって突き出した。
「いらない」
「――いらないって、お前が喉が渇いたって言ったんだろ!?」
「アーシア、水探そう」
 水袋をレオアリスに押し付け、アナスタシアは立ち上がった。
「どうやって探せばいいのかな。音? 匂い? 水って匂いする?」
 手を庇のようにして、アナスタシアは木立の間を透かし見ている。レオアリスは仕方なく、息を吐いて立ち上がった。
 話を逸らしているのか天然なのか、どっちにしろ水がないと話が進まないなら、先に水を見つけて思う存分飲ませるしかない。
「俺が探す。うろちょろしたって見つかんないんだから、お前等は座ってろよ」
「うろちょろじゃないもん! 人手がいるだろっ」
「いらねぇ。お前役に立たなさそうだし」
 アナスタシアは思いっきり顔を顰め、レオアリスの背中に向かって舌を出し、アーシアへ同意を求めるように顔を向けた。
「ほんっとこいつムカつく! ね、アーシア――アーシア?」
 アーシアは樹の幹に寄りかかったまま、肩を落とし、じっと俯いている。
 その肩が苦しげに上下している事に気付いて、アナスタシアは駆け寄った。ぐったりとしていて、アナスタシアが両手で頬を包んでも目を開かない。
「アーシア! 」
 アナスタシアの声に動揺の響きを聞きつけ、レオアリスは振り返った。アナスタシアが樹の根に寄りかかったアーシアの身体を抱え込み、何度も身体を揺すっている。
「アーシア! しっかりしろ!」
「揺らすな」
 咄嗟にそう言って傍らに膝を付き、レオアリスはアナスタシアの腕を押さえた。
 きっと睨みつけてくる瞳と、そこに浮かんだ必死の色に圧倒されながらも、アーシアの身体からその手を離させる。
 レオアリスから見ても、アーシアの状態は良くないように見える。呼吸が早い上に、ひどく浅い。
「だって」
「とにかく地面に寝させて、あんまり刺激するべきじゃない」
「お前何? 医者?」
 心配のあまり挑みかかるような口調になるアナスタシアへ、レオアリスは努めて冷静な口調を保った。
「術士。医療の心得は無いけど、薬草なら知識はある」
「そんなの、どれだけ役に立つと思ってんだよ」
 アーシアの今の状態は、医者だの薬草だので何とかなるものではない事は、アナスタシアが一番良く知っていた。
(何て馬鹿なんだ)
 判っていたのに、森を無理に走らせて。
(私が炎を使ったから?)
 その事もアーシアに注がれているアナスタシアの力を、更に弱くしたのかもしれない。
 昨日の夜、すっかり具合が良くなっていたから、安心してしまっていた。
(昨日……)
「役に立つかどうかは状況次第だ。それで、お前はこの状態に思い当たる事はあるのか?」
「術士?」
「だから今はそんな事」
 ぐっと強い力で腕を掴まれ、レオアリスは口を閉ざした。
「術だ。何でもいい、昨日のヤツでいいから、術を使え」
 戸惑って、レオアリスはアナスタシアの真剣な顔を見返した。
「あれは、別に治療の為の物じゃ」
 それにレオアリスは、治癒の法術の知識はない。そう言おうとしたが、アナスタシアの手には有無を言わせない程の力が込められていた。
「何でもいいんだってば。森の力さえ強くなれば! 黒竜の気がアーシアと私を分けてるんだから!」
 言葉の中に交じったものに、レオアリスは眉を潜めた。
(分けてる?)
 レオアリスには、それが何を差すのかは判らない。
 それに。
「――黒竜? 一体何言って」
「いいから、頼むよ!」
 レオアリスの言葉を聞いているのかいないのか、アナスタシアは焦りと必死な色に見開いた瞳をレオアリスに向けている。レオアリスが何を尋ねても、今は全く会話になりそうになかった。
「――判った」
 押されるように頷いて、レオアリスは立ち上がった。すぐ横の枝を一本折り取り、数歩後ろへ退る。
「俺が知ってるのは森との会話の法術だ。ほんとに効くかは判らないぜ」
「いいよ、早く」
 レオアリスは中空に視線を投げる。
「カイ」
 レオアリスの呼び声に、どこからか昨夜の灰色の雛鳥が姿を現し、その肩の上に降り立った。
「お前は、水と気つけの薬草を探すんだ。じいちゃんが良く合わせてた、香りの強いやつだよ。判るか?」
 カイは心得たとばかりに鳴き、空中に舞い上がって姿を消した。それを見届け、レオアリスは折り取った枝で足元に法陣を描き始める。昨日描いた法陣と、全く同じものだ。
「早く」
「静かにしろ。集中が必要なんだから」
「――」
「その代わり、術はちゃんと成功させる」
 アナスタシアに向けられた漆黒の瞳には強く明確な意志の光があり、アナスタシアは不安が和らぐのを感じて口を閉ざした。
 法陣を描き終えると枝を中央に差し、レオアリスは陣の中に立った。
 瞳を閉じ、ゆっくり呼吸を整える。その都度、空気が研ぎ澄まされていくようだ。
 物音を立てるのも憚られ、アナスタシアはじっとその様子を見つめた。
 大きく息を吐き、レオアリスが瞳を開ける。
 微かな、歌うような詠唱が零れ落ち、木々の間に広がっていく。
 レオアリスの足元の法陣が薄い光を纏って浮かび上がった。
 初めて目の前で見る法術に、アナスタシアはアーシアの身体を抱えたまま、知らず知らずに息を潜めた。
 静まり返った森がざわりと騒めき、身を軋ませる。
 まるで自分達を覗き込んでくるように感じられ、アナスタシアが恐々と辺りを見回した時、アーシアが微かに身動いだ。
「アーシア……」
 法陣が輝きを増すごとに、アーシアの頬に赤みが差していく。覗き込む視線の先で、額に刻まれていた苦しそうな筋が、ゆっくり薄れていった。
 アナスタシアはアーシアの頬に手を当て、覗き込んだ。
「アーシア、大丈夫?」
 返事はないが、呼吸は落ち着いて来ている。アナスタシアはレオアリスを振り返り、声を弾ませた。
「効いてる、すごい……」
 ぴり、と張り詰めた空気を感じて、アナスタシアは続く言葉を飲み込んだ。
 法陣の光はますます強くなっていて、陽光よりも黒々と下草に影を落とす程だ。アナスタシアに背を向けて法陣の中央に立つレオアリスは、じっと深く術に集中していて振り向く様子はない。
(危ないなぁ)
 何となく、ふと思った。術に完全に集中している事が逆に、周囲からの影響に対して無防備にしている。
(術って、一人でやるものじゃないんじゃないの?)
 それはレオアリスが未熟な事と、今施している術式の性質もあったが、肩をつつけば倒れそうなほどの無防備さに、アナスタシア少し呆れて唇を尖らせた。
 まだ意識を取り戻さないアーシアの身体をぎゅっと抱え、それからアナスタシアは周囲にも視線を巡らせた。


 レオアリスは再び、昨日の感覚を甦らせていた。
 精神が研ぎ澄まされ、ゆっくりと、全ての形の溶けて交ざった、色の無い広大な空間に降りていく感じ。
 個々の意識ではなく、あらゆるものが交ざり合ったカトゥシュ全体の意思が、感覚としてそう捉えられているのだろうと、思考の片隅で思う。
 言うなればここは、カトゥシュという存在の精神の世界だ。
 ここでは、空間に交じり合うことのないレオアリスは相当な異分子ということになる。
 術の補助が無ければ、垣間見ることの叶わない世界。
 辿り着いた底で、レオアリスは周囲を見回した。同時にあらゆる角度から見つめられる感覚がある。
 二度目だからだろうか、昨日よりもずっと、感覚は鋭利になっている。
 土、岩、草、木、森――カトゥシュという存在そのものが、紛れ込んだレオアリスに意識を注ぐ。
 何の用かと、そう問われているように感じて、レオアリスは頭上を振り仰いだ。ただ振り仰ぐという仕草も、レオアリスの意識の中の事でしかない。
 第三者がここにいたら、お互いにその姿をどう捉えるかは、互いから受ける印象が決めることになるだろう。
 ただ、今、空間から見たレオアリスは、青白く冴えていながらどこか不安定な、丸い光だった。
「……今日は、特に質問がある訳じゃないんだ」
 空間が揺れた。レオアリスの言葉に対して、否定でも肯定でもない答えだ。
 レオアリスは首を傾げた。
「いや……やっぱりもう一度聞きたい」
 昨日の問いかけの答え――、あの枝の倒れた先がそうなのか。
「竜の棲み処が、どこにあるのか」
 カトゥシュは黙り込んだ。今まで絶えず聞こえていたさざめきすら返らない。
 やはり駄目か、と諦めかけた時――、
 ふいに、空間が歪んだ。
 目の前の虚空が裂け、粘ついた闇が吹き出し、走る。
 レオアリスが身を引く間もなく、闇は上も下も無く、右も左も無いままに、周囲を染めていく。
「何――」
 唐突に、耳をつん裂く咆哮が、空間を震わせた。
 耳を塞ごうとした刹那、視線の先から巨大なあぎとが飛び出した。
 ぐんと迫り、視界一杯に広がる。
「!」
 ズラリと並んで剥き出された牙の一本一本までが、鮮明に見て取れる。
(飲まれる――!)
 両腕をかざした瞬間、レオアリスを突き抜けるように過ぎ、あぎとも闇も跡形もなく消えた。
「――何……幻影……?」
 余りの鮮明さと圧迫感に、レオアリスは瞳を見開いたまま、腕を下ろすのも忘れて荒い呼吸を繰り返した。冷や汗がどっと吹き出してくる。
(今の、竜……?)
 “こ……ども”
 低い呟きにはっとして、レオアリスは辺りを見回した。声は足元から響くようでもあり、頭上から落ちてくるようでもある。
 聞き取りにくい微かな呟きが、波のように周囲から寄せてくる。
「カトゥシュ! 何なんだ!?」
 再び、カトゥシュは沈黙した。ただそれは、拒絶ではなく、じっと考え込むような沈黙だ。
 色の無い世界が渦巻いているように感じられ、眩暈を覚える。
「今のは――」
 次第に強く、のしかかるように深くなる眩暈に、レオアリスは膝を付いた。


 突然、レオアリスが法陣の上に膝を付き、アナスタシアは驚いて身を縮ませた。
「――どうしたんだ?」
 おそるおそる問いかけたが、返事はない。背を向けている為にレオアリスの表情は見えず、アナスタシアは腕の中のアーシアとレオアリスとを見比べた。
「……おい。――ねぇ」
 取り敢えずレオアリスに呼び掛けてみたのだが、レオアリスも、アーシアも返事を返さない。
「ねぇってば。もういいよ。アーシアも楽になってるし、無理すんなよ……」
 アナスタシアの声は何かに聞かれるのを恐れるかのように、遠慮がちになり、最後の言葉は口の中で消えた。
 ざわりと、森が大きく身を揺すった。先ほどまで惜しみなく降り注いでいた陽が、陰ったように感じられる。
「ねぇ……!」
 急に不安になって声を上げた時、レオアリスの身体がぐらりと揺れた。
 糸が切れた人形のように法陣の上に倒れ込む。
「ちょ――おい! 大丈夫?!」
 アナスタシアはアーシアを抱えたまま、倒れたレオアリスの傍へにじり寄った。
 右肩を下に、アナスタシアへは背を向けて倒れていて、顔は見えない。ただ、力なく地面に投げ出された手足が、まだレオアリスの意識が戻っていない事を伝えてくる。
 光っている法陣の線に触れそうになってちょっと手を引っ込め、それからレオアリスの肩を掴んで揺らした。
「ちょっと……しっかりしろよ……何なの、ねぇ」
 揺らした感じは、本当に人形のようだ。どんどんと不安が増してくる。
 覗き込もうとした瞬間、触れた肩から流れ込むように、声が響いた。
 “剣――の子供”
「うわっ」
 耳からではなく、直接頭の中に響く、しかも割れ鐘のような大音量に、アナスタシアは堪らずぱっと手を離した。
 “救え”
 離す直前に欠片が流れ込む。
「な」
(こいつ、どこに――あんな音の――声の中にいるのか……?)
 レオアリスは森との会話の為の術だと言っていた気がするが、あれが森の“声”なのだろうか。あんな音を聞かされ続けたら、それこそ気が変になってしまう。
 アナスタシアにさえ、この状況は不自然だと思えた。
「起こした方が、いいのかな……」
 でもアナスタシアには法術は全く判らない。下手に邪魔をして、却って良くない事になったら……?
「ねぇ……どっちがいいの?」
 誰からも、答えはない。
 アーシアもまだ瞳を伏せたままで、この場で起きているのはアナスタシア一人だけだ。
 しんと静まり返った森を遣る方もなく見回しているうちに、本当に、アナスタシアは世界で一人きりでいるような気持ちになった。
「ねぇ……どうするのぉ」
 ああすればいい、こうしなさい、それは駄目。
 良くアナスタシアはそう言われて、その都度面倒くさいと思ってきた言葉だ。
 でもいざという時、自分が何の知識も経験も持っていない事を、アナスタシアはこんな場所で気付かされた。
 目の前で人が倒れているのに、アナスタシアはおろおろしているだけだ。
 そうしてくれと、アナスタシアが頼んだのに。
 黒竜が目の前にいたのなら、迷わず立ち向かえる自信がある。
 でも、今アナスタシアは、どうしていいか全く判らなかった。
 鳥の鳴き声一つしない森を、風が静かに枝葉を揺すりながら擦り抜けていき、それすら心細い気にさせられる。
「ねぇ……もういいよ。起きてよ」
 じわ、と目の奥が熱くなって、アナスタシアはぎゅっと瞳をつぶった。
「起きてよぉ……レオアリスっ」

「――っ」
 カトゥシュはふいに叫び出していた。
 次々、重なるように次々と、言葉が降り掛かってくる。
 圧倒的な質量を持った言葉の奔流に意識が霞みかけ、呑まれそうだ。
 呑まれたら、術から出られない、――消えるかもしれない、とちらりと思った。
『――』
 誰かの声がする。
 遠くに、法陣の存在を感じるが、それは頼りない糸のように細い。
(戻らないと)
 呑まれる。
 恐らくそれは、死ぬという事だ。
 浮上するために細い糸を手繰ろうとした時、これまでとは比べものにならない、叩きつけるような声が降った。
 “子供”
 わん、と頭の奥に響く。耳を押さえてもまるで意味のないこの状況が恨めしい。
 “剣の子供”
 “森”
 “竜”
「っ――頼むよ、そんなに叫ばないでくれ!」
 レオアリスは負けじと叫び返した。だがカトゥシュの声に呑まれて、届いているとは思えない。
 “剣の”
 “溶ける”
 “救え”
「何をっ」
 次々と言葉が注ぎ込まれて考える余裕などない。
 “救え”
 “竜”
「やめろってば! 頭が割れる!」
 “森”
 “救え”
 “救え” “救え”
 “救え”
「――っ」
 堪らず、レオアリスが身体をまるめた時、カトゥシュの声を打ち消す程の声が空間に響いた。


「レオアリス! 」
 レオアリスはうっすらと目を開けた。最初に見えたのは下草の細かな葉と、樹の根が盛り上がった地面だ。
「――」
 戻ったのだ。視線の先で、法陣の光が消えていく。
 割れ鐘のように鳴り響いていた声は、まるで嘘だったかのように静まり返っている。
(――何だったんだ)
 すぐそばで、ぐすんと啜り上げる音がした。
「目ぇ開けろよぉ、もぉ……」
(――?)
 レオアリスはごろんと仰向きになった。木漏れ日を背に、アナスタシアが座り込み、何かを堪えるように瞳をぎゅっとつぶっている。
「私、何の役にもたってないよぉ」
 見上げた顔はくしゃくしゃで、ちょっと面白かった。
 ぼーっと見ているうち、ああ、泣いてるのか、とそう思ったから、そのまま口にした。
「――何で泣いてんの?」
 アナスタシアはびくりと瞳を開けた。
 自分を見上げているレオアリスに漸く気付いて、慌てて目元を拭う。
(気が付いた――)
 無事だ、と思った瞬間、どっと気が抜けて、アナスタシアは抱えていたアーシアの上に突っ伏した。
「……おい」
「……泣いてないっ! ――お前こそ、ぶっ倒れて何なんだ!」
 きっと顔を上げて睨むと、レオアリスは転がったまま首を傾げる。
「ぶっ倒れた?」
「倒れてんだろ、今! 術に失敗したんじゃないかっ」
「――ああ」
 自覚は無かったが、まぁあんな状況だったら、それもそうかと思う。
 レオアリスは手を持ち上げて木漏れ日にかざした。これは現実の、血の通った手だ。
 まだぼんやりしたまま身を起こし、それから自分の手元の法陣を確かめて、レオアリスはちょっと得意そうに笑った。
「何だよ、ちゃんと結ばれてんじゃん、法陣。成功だろ?」
 アナスタシアは呆れて、その顔をまじまじと眺めた。
(この状況で得意がるか?普通っ)
 アーシアを抱え込んだまま、恨みを込めてレオアリスを睨む。
 アナスタシアからしてみれば、どうしていいか全く判らない状況で、本当に不安だったのだから無理もない。ほっとして気が抜けた分、憤りもひとしおだ。
「成功したんなら、何でお前ぶっ倒れんの!? 術っていっつもそんなん?! 人生日々綱渡りかよっ」
「知らねぇよ。いつもは違うんだ。それより耳元でガンガン怒鳴んないでくれよなぁ、頭痛ぇ」
 アナスタシアはぱっと口元を押さえたが、またすぐ疑問が沸き上がる。
「剣のとかって何? 変な声してたたぞ。あれが森の声?」
「……判んないよ」
「っ……お前、判んない事ばっか!」
「だから大声出すなって……」
 起き上がってあぐらを組み、まだぐらぐらする頭を押さえながらも、レオアリスは漸くほっと息を吐いた。
(にしても、実際あれは何なんだ?)
 自分の術のやり方が間違ったのだろうか。
 “救え”
(何を――森を?)
「なあ、ちょっと。黙るなよ。何があったわけ?」
 黙り込んだレオアリスに焦れて、アナスタシアは唇を尖らせた。
「お前ホントやりにくいなぁ」
「どっちが」
 レオアリスが呆れて言い返そうとした時、、羽ばたきとともにカイが姿を現わした。レオアリスの肩に留まり、ピィと鳴く。
「あ、水あった? んじゃ」
 立ち上がろうとしたレオアリスを押し留め、アナスタシアはカイを手招いた。というより、脚をわしっと掴んで引き寄せる。カイはピィピィ暴れた。
「おいっ」
 取り戻そうと延ばしたレオアリスの手をはたいて、アナスタシアはカイを自分の肩に乗せた。
「私が汲んでくる。座ってろ」
「いいよ、俺が」
「いいから! ふらふらなヤツは黙っとけ。代わりにアーシアを見てて」
 気付いたばかりで心配だから、と素直に口に出さないアナスタシアも上手くはないが、怒った口調のアナスタシアを、何で怒っているのか判らずに首を傾げるレオアリスも、相当鈍い。
「でもお前、水の汲み方判んの?」
 余計な事を口にして、更に怒らせた。
「バカにするな! 私は何でもできるっ。――第一お前お前って、ちゃんとアナスタシアって名前があるんだから!」
「人の事言えんのかよ。お前だって俺をお前って言うじゃねぇか」
「私は呼んだっ」
 ぷい、とアナスタシアは顎を反らした。
「いつ――」
 言い掛けて、誰かの叫びが、最後に自分を引き戻したのだったと、レオアリスは思い出した。
「そうか……」
 あの声がきっかけで、レオアリスはあの場所から戻って来られたのだ。
 名前を呼ばれたから。
 アナスタシアは知らずにただ呼んだのだが、名前とは、術を扱う上で、非常に大きな力を持っている。
 あの声は、とても鮮明に響いた。とても。
「でかい声」
 笑いを含んだ呟きに、アナスタシアが眉を寄せる。
「何だよ」
「別に」
 レオアリスは目の前の少女の、綺麗に整った顔を改めて見つめた。初めて会った時から、もうだいぶ印象が違っている。
「――アナスタシア」
 呼べと言ったくせに、アナスタシアはびっくりしたように瞳を見開いて、キョロキョロと慌てたように辺りを見回した。それから、面映ゆそうな顔を、そっと戻す。
「あ――アナスタシア様って呼べ」
 それは無視して、レオアリスは真っ直ぐにアナスタシアに視線を向けた。
「助かった。お陰で無事に戻れたみたいだ」
「……別に、なんもしてない。――水、汲んでくるから」
 ぱっと立ち上がり、くるりと背を向け歩き出したアナスタシアを、後からレオアリスの声が追いかける。
「気を付けろよ」
「――誰に向かって言ってんだ」
 そう言い置いて、何となく荒い足取りで、アナスタシアは森を歩き出した。
「いつも怒ってるなぁ、あいつ」
 変な奴だ、とアナスタシアを見送りながら独りごち、それからレオアリスは横になっているアーシアの様子を窺った。術の前よりもずっと顔色も良く、呼吸も安定している。
「……一体あの術の、何が効いたんだ?」
 何が効いたのかも、何で彼がこうなっているのかも、さっぱり判らないままだが、取り敢えず落ち着いたようだ。
 アナスタシアが戻って来たら事情を聞こうと決めて、レオアリスはまたごろんと寝転がった。


 ずんずんと、アナスタシアは森を歩く。長い艶やかな黒髪が背中で跳ねる。
 アナスタシアの心の中は、少し――かなり、悔しい気持ちで一杯だった。
 アーシアが意識を失うまで気付かなかった事。レオアリスが倒れても、何も出来なかった事。
 でもそれ以上に――
 名前を呼ばれた事が、妙な気分だ。
 浮き立つような、むずがゆい感じがする。
 実際、アナスタシアは同年代に名前を呼び捨てにされる機会など、ほとんど無い。いつも皆、敬称を付けるか、家名や称号で呼び、アナスタシアが目を合わせる前に顔を伏せる。
 しかしそれは、この国の最高位に位置する公爵家の娘として、仕方のない事だ。
 だから、ついさっき呼ばれたばかりのあの響きを思い出すと、戸惑いや不慣れさも相まって、胸がどきどきした。
 何となく火照った頬に、両手を当てる。
 ただ、前にも一度、そんな気持ちを感じた事がある。
 こっそり王都の街に出て、同じ年頃の子供達と遊んだ時に、彼等はやはり、アナスタシアに何の敬称も付けずに呼んでくれた。
 一番、それが嬉しくて――
 アナスタシアぴたりと足を止めた。
 『嘘つき!』
 ざくりと、アナスタシアの心を切った言葉だ。
 『騙してからかって楽しいかよ』
 『ここは俺達の場所なんだから、貴族は来るな』
 そんなつもりではないと、そう言ったものの、彼等はもう目を合わせてくれなかった。
 『お城にお帰りください、アナスタシア様』と――そう言って駆けて行ってしまい、アナスタシアは足が地面に吸い付いたように、追いかける事もできなかった。
 今も足に根が生えたように立ち止まったまま、アナスタシアは背後を振り返った。
 アナスタシアはレオアリスに、自分の身分について何一つ言っていない。
 せっかく名前を呼んでくれたのに――隠していたのかと言われて、また嫌われたら――。
 カイが急かすように、アナスタシアの髪を引っ張る。アナスタシアは再び歩き出した。
「べ、別に友達とかじゃないしっ。――それに、あいつだって自分のこと何にも言ってないじゃんか」
 アナスタシアは何度も、レオアリスにあの震えるような感覚が何なのか聞いたが、レオアリスは知らないと言った。
「自分のことなくせに」
 知らないなんて、あるのだろうか。
 アナスタシアの感じている疑問は不快な感情ではなく、純粋な興味だ。
 “剣の子供”
 あの時、アナスタシアの頭の中に伝わった言葉。
「剣の」
 繰り返してみて、あれ、とアナスタシアは唇に細い指を当てた。聞いた事がある、気がする。
「あれ、なんか――なんかいなかったっけ、そういうヤツ」
 昨日の、身を切るような感覚。
 さくりと、鋭利な刃物で切られたような、髪。
「危ない感じのヤツらでさぁ」
 とはいえ、レオアリス自身はそういうふうにも見えないけれど。
「そうだよ、いたいた。あれだ」
 身体の中に、剣を宿す種族だ。戦闘種といわれている種族。
 アナスタシアはその位しか知識はないが、それはかなり当たっている推測に思えた。
「剣士」





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