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風邪をひいた。 剣士なんかが風邪をひくのかとレオアリスは自分でも意外だったのだが、とにかく風邪をひくと普通は周りが優しくなるものじゃないだろうか、とレオアリスは寝台に埋もれたままぶつぶつと呟いた。 結構寝返りも億劫なくらい、頭がぐらぐらしているのだが。 (ふつうとか、まあいいけどな……) そう呟いた心持ちはちょっと諦め半分の 朝館を尋ねてきて、レオアリスの状況を見て取り、問題の相手――ロットバルトが言ったのはこの一言だ。 「世話役の一人も雇っていないとは、考え方が甘いですね」 いやいや、一応誤解の無いように言えば、ちゃんと転がっていた玄関先から寝室まで連れ戻し、医者を呼び、水分補給用の水に濡らした手拭いと桶まで用意するという細やかな気配りまで見せてくれている。 その上で吐いた言葉だ。 「あのまま誰にも発見されずに二、三日過ぎていたら、笑い話にはなりませんよ」 「誰かしら来るって。現にお前が来たし」 「今日はたまたま、朝書類を届けに上がったからでしょう。明日は伺う予定がありませんでしたが」 「あ、じゃあ今日で良かったな」 ロットバルトの視線は冷たかった。熱が冷めそうだ。 軽く息を吐き、ロットバルトは手にしていた水差しを枕元に置いた。 「上将、こういう時の為に身の回りの世話をする者を雇った方がいいと思いますが」 「自分でできるし、できる事を人に世話させるってのが何かちょっとなぁ」 一般的にこうした官舎に暮らしていると人を雇うのが主流で、レオアリスもこれまでグランスレイやロットバルトから何度か勧められていたが、あまり乗り気ではなかった。 自分でできる事は自分でやり、なおかつ周りの手助けをするのが幼い頃から身についた習慣だから、人にやってもらうという発想がそもそも無い。 それに料理、洗濯、掃除は全て人並みにはできる。 「――お気持ちは判りますが、今回のような事もある。それに近衛師団の大将が一人も身の回りの世話をする者を雇わないのは、余りいい事ではありませんしね」 「いい事じゃないって、」 何度かむせるように咳をすると、ロットバルトが水を渡してくれる。 「『富める者の義務』、ですよ」 「何だそりゃ。富める――?」 聞き慣れない単語が出てきて、レオアリスは水を口元に寄せたまま首を傾げた。 「端的に言ってしまえば、富を還元するという事になります。貴族や富裕層が人を雇うのは何も自分達が楽をしたいからや見栄の為だけではありません。雇用を生む事は重要な義務でもある。それを富める者の義務と言うのです。要は社会的責任の事ですね。本来もっと広義な道徳的意味を持っていますが、還元を求められるし地位が伴うほど積極的に還元すべきでしょう」 「へえ――」 そんな考え方があるのかと、何だかただ感心した。贅沢をしているばかりでも無いようだ。 「まあ義務の果たし方がそればかりという訳でもありませんし、今は余り言っても仕方ない。とにかく何か召し上がって、それから薬を飲んで寝てください。何か見繕って来ましょう」 そう言ってロットバルトは部屋を出た。 (義務か……) 地位には本当に、色々なものが付随する。 (面倒とか言ってちゃ、良くないんだよな……) 何度か咳をして呼吸を鎮めるように息を吐き、レオアリスは瞳を閉じた。 「――」 ロットバルトは厨房に入って室内を眺めた。 普段レオアリスが自分で調理をしているせいか、意外と資材が整っているようだ。 だが、何かすぐに食べられるものはと見回しても、これといったものは見当たらない。第一病人には胃に優しいものがいいのだろう。 どんなものを食べていたのだったかと、ロットバルトは記憶を辿るように瞳を細めた。 彼の弟が寝込んだ時は、米や根菜を柔らかく煮込んだものが多かった。 棚にはその為に必要な材料が揃っている。少し迷って、ロットバルトは壁に掛けられていた鍋を手に取った。 生まれてこの方、厨房になど立った事も無かったが。 「……まあ、理論は判る」 ふっと気付いて眼を開ける。館の中はしんと静まり返っていた。 咳をすると室内の壁に跳ね返る気がした。 ロットバルトはまだ戻っていないようだ。それとも帰ったか。 寝ている間に汗をかいたお陰で、さっきよりだいぶ楽になっている。 枕元の水を飲み干したがまだ喉の渇きを覚えて、レオアリスは寝台を抜け出した。 鍋の蓋を開ければ湯気がふわりと立ち上がる。それなりに美味そうに見える。 ――見た目は。 米と、薄く切った野菜を数種類合わせて鍋で煮込む。確か、粥とはこんなモノだったろう。 味を見る為にひと匙掬って口に運び……、ロットバルトはコトリと匙を置いた。 自然と口元に笑みが浮かぶ。 深く静かに、溜息を吐いた。 「――不味い」 厨房の扉を開け、あまりに場違いな光景が視界に飛び込んできて、レオアリスはぎょっとして立ち尽くした。 ロットバルトが目の前の鍋に視線を落とし、腕を組んで片手を口元に当て、まるで複雑な陣型や戦術でも読み解こうとするかのように考え込んでいる。 「ど、どうしたんだ……?」 擦れた声で漸く問い掛けると、ロットバルトは顔を上げた。心配そうな色が整った眉に浮かぶ。 「上将……。まだ起き上がるのは無理でしょう」 「いや、大分良くなった。水を飲みにきたんだ」 「足りませんでしたか。すみません」 「結局汗かいたからさ。お陰で熱が下がった」 レオアリスは興味を押さえ切れずロットバルトの傍らに歩み寄り、湯気の立つ鍋の中を覗き込んだ。 「……」 中には暖かそうな粥が入っている。浮かんだ考えを打ち消し、取り敢えず尋ねる事にした。 「誰が作ったんだ? これ」 「……まあ、理論は経験に裏打ちされるものだと改めて学びましたよ」 愕然としてロットバルトの顔を眺める。 「――お前……?」 一瞬の沈黙の後、レオアリスはばっと口元を押さえて身体を折った。 「……ごほっ……」 一度苦しそうにむせ、ぐぐっと何かを押さえ込む。 「……消耗している時に、余計な体力を使わない方がいいですよ」 「――くっ、……ぶは」 さんざん堪えた挙げ句、結局厨房の中に、レオアリスの爆笑と咳が響き渡った。 「――すいませんでした」 深い反省の色を浮かべ、レオアリスは再び戻った寝台の上で頭も深々と下げた。 あんまりな態度だったと、心底反省している。一口味見した味もあんまりだったが…… 「あれはちゃんと食わせていただきます」 「いや、止めた方がいいですよ。あれで余計に体調が悪くなったら心が痛む」 本気で言われた。 「はは……」 誤魔化すように笑い、布団に潜り込む。 「代わりに私より役に立つ者をお呼びしましたから」 「代わり?」 コンコン、と扉を叩く音がして、すぐに開いた扉からアスタロトが顔を出した。 「レオアリス――、うわっ、マジでぶっ倒れてるー! すごー! どうしたの、何か悪いもの食った?」 たった一人の出現でとたんに賑やかになった室内の空気を感じながら、レオアリスは仰向けになったまま、ふっと笑った。 「……おい。アスタロトが身の回りの世話だのでお前より役に立つか? どっこいだろうが」 ひどい事を言った。 「まさか。公のはずはないでしょう。さすがに私の方が役に立つんじゃないかな、合理的に手順を考える点では」 こちらもひどい事を返す。それから扉へ視線を向けた。 「アーシアですよ」 「レオアリスさん、お風邪とか」 アーシアがアスタロトに続いて戸口から顔を覗かせ、柔らかな面に心配そうな表情を浮かべてレオアリスを見た。レオアリスがほっと息を吐く。 「ああ、アーシアの事か、そうだよなぁ。マジでびびったぜ」 「当然です。私がそんな無駄な手を打つ訳が無い」 「お前ら何、焼かれたいの?」 アスタロトが頬を膨らませ、睨み付ける。アーシアは廊下を振り返りながら寝台に近寄った。 「来る時お台所を見せていただきましたが、もう食事は召し上がったんですね、良かった」 「――」 レオアリスは黙った。ロットバルトがアーシアと向き直り、にこりと秀麗な笑みを作る。 「ああ、あれは食物では無くてね。似て非なるものだから気にしなくていい」 「はい?」 「何か胃に優しいものを作ってもらえると有難いですね。では上将、私はこれで」 「――ああ。おかげで助かった、ありがとう」 申し訳ない気持ちを込めて、これだけははっきり口にした。 「いえ」 ロットバルトも笑って廊下へ消える。アーシアはレオアリスの額に手を当てて熱を測り、にこりと笑みを浮かべた。 「良かった、大分落ち着いてますね。でも無理しても駄目ですから、一日寝ていてください。僕何か簡単に作って来ますね」 「悪い――」 「はーい! 私! 私が作ってやろう! 喜べ!」 さっとアスタロトが手を上げる。レオアリスは一旦黙り、視線を逸らした。 「――謹んで、辞退……」 「何?」 じろり、と視線が落ちて来て、レオアリスは口をつぐんだ。 「……何でも」 「よし、じゃあ寝てろ。この私が特別に作ってやるんだから、楽しみにしててね」 「……」 「楽・し・み・に・し・て・て・ね」 「わ――判りました」 アーシアが素早く口を挟み、助け船を入れる。 「ア、アスタロト様、アスタロト様はこちらにいてレオアリスさんの様子を見ていてください。僕が作って来ますから」 「いーからいーからー。私に任せてよ。やっぱこういう時こそ助けてやらなくちゃー」 アスタロトが意気揚々と廊下へ出て行く。 「アスタロト様――すみません、僕も行って来ます」 アーシアが急いで廊下へ向かい、アスタロトを呼ぶ声と階段を下る足音が聞こえ、静かになった。 しばらくして、何かが爆発する音が階下から響いた。 「――ごほっ」 寒さを覚え、レオアリスはまた布団の中に潜り込んだ。 いや、寒気だ、正確には。 「いっただっきまーす」 賑やかな声が傍らで上がる。 アスタロトは粥の入った皿と匙を取り上げ、それからレオアリスを見た。 「あれ、お前もういいの? ほんの少ししか食べてないじゃん」 「ああ、いい。作ったら疲れた。後で食う」 「無理して自分で作るからだよ」 いや、厨房を掃除したせいだ。 とは口には出さなかった。 「しょうがないなぁ――はい」 アスタロトはにっこり笑って、匙で掬った粥を差し出した。 「え――」 「ほら、食べさせてあげるから」 束の間差し出された匙を見つめてためらった後、レオアリスはぱくりとそれを口にした。 「美味しい?」 作ったのはレオアリス自身だが。 「何か、照れくさいな」 「そ、そお?」 ちょっぴり頬を染め、アスタロトはレオアリスを見つめた。 「うん――、ガキの頃風邪ひいて、じいさんに食べさせてもらったのを思い出す――」 アスタロトの笑顔がすうっと固まる。 ぼん! と枕が燃えた。 「うぉあ危ねっ! 何しやがんだ!」 「このじじぃっ子!」 「はぁ?」 掛け布団を掴み、ばす、とレオアリスに被せる。 「心配して損した! 帰る!」 「心配はもうちょっと柔らかく表現しろ!」 途端に咳が連続して出て寝台の上に突っ伏したレオアリスを見て、アスタロトの瞳にさっと慌てた色が走る。 「……ふんっ。ぐっすり寝ちゃえバーカ!」 アスタロトは非常に中途半端な捨て台詞を残し、大股に部屋を出て行った。 「アスタロト様――! すみません、結局ご迷惑を……。明日改めてお詫びに来ますから」 「いや……、気にしないでくれ」 恐縮したアーシアが何度も頭を下げながらアスタロトを追いかけて部屋を出るのを、レオアリスは肘を付いて半分身体を起こした態勢で見送り、扉が閉まると同時に背中を落とした。 肺から息を吐き出す。 「――何だかすげぇ慌ただしかったな……」 特に後半が。 風邪をひいた時というのは、もっと何か違うのではないかと思う。 「誰か人を雇うべきなのか――?」 静かに身体を休めるにはそれが一番いいかとも思ったが、結局具体的な事は何も考えずにレオアリスは瞼を閉じた。 「まあいいや……」 賑やかで、思い返してみると結構楽しかった。 風邪が治るかどうかはともかく、一人で寝ているよりはずっといいしこういうのも悪くはないと思いながら、咳を一つ落とす。 その咳の音が先ほどまでよりもずっと大きく響いたような気がして、口元に苦笑を浮かべた。 |
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