「春だよなぁ〜」 クライフは大きなあくびを一つ、洩らした。 レオアリス達が転位陣を用いてレガージュへ出発したのは早朝の七刻頃で、それから既に八刻近く経つ。 明るい午後の陽射しを身体の右側半分に受けてのんびりと椅子の背もたれを軋ませつつ、クライフは陽射しが落ちてくる窓を見上げた。 青い空に薄い雲が棚引いている。飛竜が数騎、雲を横切るように飛んでいた。近衛師団の黒鱗だ。第二大隊か第三大隊か、どちらだろう。 「どうなってんのかねぇー、向うはさ」 たったそれだけ口にする途中にまたあくびが混じった。 「何なんだ、気の抜け切った声で」 ヴィルトールが隣の机から呆れた眼を向けてくる。クライフは伸びをするように両腕を頭の後ろに組んだ。 「さっき会談を始めるって伝令使があったじゃないか」 「もう終わったかなぁ」 「全く緊張感が無いね。現場が離れてるからって留守を預かってる立場なんだから、それはどうなんだ?」 レオアリス達がいないからと言って少し気を抜き過ぎのクライフを、ヴィルトールは面倒そうに眺めた。 「全く、ろくな事を考えてなさそうだなぁ」 「だってよォ、レガージュってどんなトコか気になるじゃねえか。南国だぜ、リゾートだぜ言ってみりゃ。羨ましくねぇ? 俺も行きたかったなぁー」 「任務だよ」 「そりゃ判ってるけどよ、レガージュって一年中泳げるだろ」 何が判っているのやら、とヴィルトールは半ば書類に戻りかけながら生返事を返した。 「そうだったかな」 「どうせ船に乗るならやっぱ水着だよな」 何がどうせなのかやっぱりなのかさっぱり判らないのだが、ヴィルトールは適当に頷いた。「うん」机の引き出しから便箋の束を取り出す。 ヴィルトールの手にした筆先がさらさらと紙の上を滑り、金具の先を再び墨壺に浸けた。 「もしかしたらさぁ、もうすっかり片が着いてて、あとは海水浴を楽しんでるんじゃねぇか?」 「うん」 クライフは何やら目を閉じた。「見てェー」 相好が崩れる。 クライフの脳裏に浮かぶのは青い海と空、照りつける陽射しに椰子の木が伸びる白い砂浜だ。 水着姿のフレイザーが輝くような笑みを零し手を振っている。 胸…… くびれ…… すらりとした脚…… ……天国 唐突にくわっと眼を見開き、クライフは拳で机を叩いた。 「くっそう、ロットバルトの野郎、一人だけいい思いしやがって!」 「――びっくりしたな」 「ずりぃ!」 「で、何でもっと重要な人物の名前を出さないのかな、お前は」 「んだよ、ほっとけよ」 「逃げやすい方にばかり逃げて……情けない。そんな弱腰だから女の子に相手にされないんだ」 ヴィルトールはふう、と肺から息を吐いた。 「あーあ。私もロットバルトみたいにクライフの心をえぐるような突っ込みが出来たらなぁ」 「充分だよ! もぉオ腹一杯だっつーの! 大体何があーあだ何でそんなに残念そうなんだよ! つか何で俺限定?」 「何でって」 「大体よォー、何でこんなタイトルなんだよ何このタイトル。何の意図だよ」 「すぐ判るだろう。お前を(からかうのが)好きな作者がさ、今回(六話)は全然(からかう)出番がないって(フラストレーション溜まってるんだよ)。愛だよ愛」 「何かチラチラ隠れてる! てかいらねぇそんな愛」 ヴィルトールは非常に憂いを含んで眉を寄せ、首を振った。 「そんな愛だってお前には貴重なのに……」 「アぁ?!」 「じゃ、お前の出番が無くて可哀想だったんじゃないかな」 「じゃって何だ、軽く切り替えてんじゃねーよ! 大体そりゃ最近お前もじゃね? お前影薄いよ? ここんとこ」 「私はほら、動くと格好良すぎて何でも解決しちゃうから」 「違うねー、お前が親バカだからだねー」 それからふとヴィルトールの手元に目を止めた。 ヴィルトールは初めに見ていた書類は脇に除け、会話しながらもずっと何やらしたためている。 「何やってんだ?」 「これ? 記録」 「記録?」 「上将がいない間、一応あった事とか会話とか、記録しといた方がいいだろう。ちゃんと報告しないとね」 「――」 ヴィルトールは書き終えた便箋を束から一枚ぴっと取り、丁寧に折り畳み始めた。 クライフは腕を組んだままそれを見守っている。 便箋は封筒にしまわれ、ヴィルトールが鼻歌を歌いながら溶かした封蝋でしっかり閉じられた。 宛名を書き、立ち上がり、グランスレイの机の引き出しを開ける。 「――貸せそれ!」 クライフは椅子を蹴飛ばすように立ち上がりヴィルトールに手を突き出した。 「いいけど返せよ」 「じゃ寄越せ!」 「寄越せって、お前に渡しても意味が無いだろう。副将が見ないと。あ、フレイザーに渡すか」 「――お願い!」 クライフはグランスレイの机に手をつきぶつけそうな勢いで頭を下げた。 「一生のお願いだから! ヴィルトールさん! いや、ヴィルトール様!」 「一生って……、ホントお前は子供だなぁ」 溜息をつきながらもヴィルトールは仕方なさそうに微笑み、封筒をクライフに渡した。 心底ほっとしたのかクライフの表情がくしゃりと弛む。 「恩に着るぜ〜!」 電光石火、あっという間に封筒ごと便箋を破るとクライフはそれを屑入れに放り込んだ。 「じゃ、これに懲りたら真面目に仕事しような」 そう言ってクライフの肩を叩くとヴィルトールは自分の席に戻り――、そっと顔を背けて、にやりと笑った。 「謹慎?!」 「上将が、ですか? そんな……」 西方公ルシファーが離反した事の衝撃に加え、王がレオアリスへ謹慎を命じたと聞いて、中将達は思わず言葉を失い互いに顔を見合わせた。 レガージュから帰還したあと僅かも落ち着く間もなく、ようやく執務室にレオアリス達が戻った頃には時計は正午前を指していた。 「上将が――、そんな、おかしいっすよそれ」 「妥当だよ」 レオアリスは全て納得しているのか、一度肩をすとんと落とすように息を吐き、中将達と向き合った。 「悪いな……不名誉な思いをさせる」 「そんな」 クライフが拳を握り締めた。フレイザーやヴィルトール、ロットバルトでさえ納得しきれていないのが表情で判る。 「それより近衛師団には西方公捜索に関してのご下命が無かった。実質、俺達は何も動けない――情報収集をするくらいがせいぜいだろうな」 「――西方公が……」 ポツポツと何故、という問いや疑問が出始める。それを聞きながら、グランスレイはちらりと視線を走らせ、レオアリスの様子を見た。 レオアリスの面に浮かぶ普段見せる事のないほど厳しく、そしてやはり沈んだ表情に、グランスレイからもごく微かだが溜息が洩れる。 アスタロトにああ言い、実際自分の立場を受け止めてもいるが、気持ちがそこに納まり切らないのも無理はない。 重苦しい空気が執務室内に漂っているものの、さすがに払いようもなく思えた。 レオアリスは一通り状況のやり取りを終えると自席に腰掛け、積まれていた書類に手を伸ばした。 「書類系はどうするかな。ロットバルト、謹慎中は決裁権も無いんだったか?」 「そうなります。期間中に判断が必要な案件は内容だけご確認いただいて、副将の代理決裁がいいでしょう」 「判った。取り敢えず今日できるものは決裁していこう」 「夕刻、状況含めご報告に伺います」 「悪い。――まあ見る時間だけはたっぷりある、いつもより仕事が進むかもな」 自嘲気味に小さく笑い、レオアリスは書類に目を落とした。 紙を捲る音が響くほど室内は静かだ。 グランスレイはしばらく無言で書類に目を通していたが、書類を取り出そうと執務机の引き出しを開け、太い眉を潜めた。 「何だ」 一番上に置かれていた封筒を取り出し、小刀で封蝋を切る。 しばらく、グランスレイは黙って文字を追っていた。 やがて机の上へ便箋を置き、「――クライフ」 地の底から響くような声でクライフを呼んだ。 「はっ!」 思わず椅子から跳ねるように立ち上がったクライフは直立不動の姿勢を取り、レオアリスも何事かと顔を上げる。 「何だこれは」 「え」 突き出された便箋を手に取ってそれを読むうち、クライフは次第にだらだらと油汗を垂らし始めた。 「こ――、これは、その」 昨日破り棄てたと思っていた、ヴィルトールの『記録』だ。 グランスレイの緑の眼が射るような鋭さでクライフを睨み据えている。 レオアリスが謹慎を受け、グランスレイは神経を尖らせている。いつにも増して、震え上がるほど恐ろしい。 クライフは横目でヴィルトールを恨みがましく見た。 「ヴィルトール、てめぇ……」 「あっ、しまった、」 「何なんです」 ロットバルトが眉を潜める。 「いや、副将不在中のクライフの言動を記録してたんだけど、すっかり忘れてた。さすがにこの状況で見せるつもりは無かったんだよなぁ……」 「――全く。読むまでも無く碌なものじゃあなさそうですね」 呆れた溜息を吐いたロットバルトを押しやり、クライフはヴィルトールの胸ぐらを掴んだ。 「てめ、あん時偽モン渡しやがったな!! 汚ねぇぞ!」 「そんなこと言ったって、あんまりお前がのんびりしてるから反省してもらおうと思って」 「だから反省したじゃねーか!!」 「悪かったって」 「悪かったじゃ済ま」 「クライフ!!」 びり! と空気が痺れるほどの大音量でグランスレイはクライフを睨み付けた。 「――はッ!」 再び直立不動になる。石膏像のようだ。 「貴様は、殿下や上将が大変な任務に就かれている時に、弛(たる)んでいるにも程がある!」 クライフは固まりをぶつけられたように首を竦めた。 「例え出動がなくとも第一大隊に下された任務に変わりはない! それも理解しないとは何事か!」 恐い。ものすごく恐い。久しぶりに本当に恐い。 「も――、申し訳ありませんッ!」 「いっそ貴様が代わって謹慎を受けた方がずっと益がある!」 「そうします!」 「……っ――、ぶ」 レオアリスは半ば俯いて肩を震わせたかと思うと、次には喉を仰け反らせた。 「あはははは!」 思いがけず弾けた明るい笑い声に、それまで張り詰めきっていた空気が一転した。クライフを焼き尽くしそうなほどだったグランスレイの怒りをすうっと溶かす。 「……上将」 「あー」 ひとしきり笑うと、レオアリスは執務机に頬杖をついた。 「悪い悪い、いつも通り過ぎて何か」 ほっとした、と言う。 「――」 グランスレイは喉の奥に残っていた叱責の名残をふうと吐き出し、クライフをじろりと見た。 「クライフ、今回は不問だ」 肺の底から息を吐き出し、クライフが肩を落とす。 「今回だけだ。次は無い」 「肝に銘じます!」 グランスレイは便箋を折りたたむとヴィルトールに返し、執務机にどすりと座った。命からがら生還したふうのクライフに、ヴィルトールが近寄って肩を叩く。 「良かったね、上将も少し気晴らしになったみたいだし、お前の行動も少しは役に立ったじゃないか」 「ふざけんな、何ちゃっかり棚に上げてんだ」 じろ、と睨んで自席に戻りかけ――、ぴたりと足を止めた。 クライフはしばらく腕を組んで何やら考え込んでいたが「ちょ、ロットバルト、ロットバルト」ロットバルトを手招いた。あからさまに面倒そうに眉を寄せたロットバルトがクライフの傍らに立つのを待ち構えて、がし、と肩を組んだ。 素早く周りを確認し、囁く。 「水着見た?」 「――」 「クライフ?」 すうっと首筋が冷えるような静かな声が掛かる。フレイザーが緋色の髪を波打たせ、手を腰に当ててクライフの真後ろに立っている。唇が笑みを刻んだ 「ちょっと、お話いいかしら」 「あっ、いやっ、今の冗談」 「いいから表に出なさい」 フレイザーは問答無用でクライフの後ろ襟を掴むと、半ば引きずるように中庭に出た。 ばたん。 「――」 しん、と束の間の静寂が満ちる。 一呼吸置いて、レオアリス達室内に残った面々は一斉に、さっと耳を塞いだ。 |
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