[ノイス・グ ノーシス主義論考試論]

超越ロゴスの光核と宇宙的孤児性


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  現代グノーシス主義或いはグノーシス主義一般を考えるにおいて、 私たちは、「宇宙的孤児性」と云う特殊な概念を提言したのであった。 いま、この提示概念がいかような意味を持ちえるのか、私たちの拙い思 索において考察を試みてみよう。

  私たちは、「宇宙的孤児性」を、いわゆ る処の「疎外(Aelination)」或いは「実存疎外(existentielle Entfremdung)」 の特殊な形態であると説明した(参照→『現代 グノーシス主義原理試論』)。そこにおいて、「宇宙的孤児性(Kosmische Waisenheit)」なる実存の姿勢を、 「存在の不条理」に対する鋭敏な感性による現存在把握であると説明し た。いま、この説明のより具体的(或いは、より原理根柢的)な意味に ついて考えてみたく思う。


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I

  最初に(en arkheei), 「存在 einai」についての問いと云うものは、 哲学の生成の原基に淵源するもので あり、哲学はそもそも、存在に対する「驚異 θαυμαζειν」 の自覚より誕生したと述 べたのは、かのアリストテレースであった。「存在物 ens」が存在する ことは自明のことであり、それが自然であるとする、自然的態度よりす れば、存在物 on の存在性 einai そのものに驚異を感受する精神のあ りようと云うのは、 反自然的であり、不合理であり、理なき「理性」即ち「不条理の理性」 であるともなる。しかし、「存在の存在に対する驚異」の自覚は、一面 で、概念の抽象的織り上げのソピストケートの果てに現れた一種の精神 の病理のようにも思えるが、他方、この「驚異する精神の境位」こそが、 実は、普遍なるべき「理性」が潜ませていた、秘教的真智、或いは、理 性=ロゴスの普遍性の底に暗在する「永遠宇宙」のアポリアであり、課 題であり、精神の達成目標、その報いなき試練であったのかも知れない のである。

  このことは、「存在 ens の存在 existentia の驚異の覚知性」が、 ロゴスの普遍根柢 原理に底通し、ロゴスの永遠本質の「光核」の閃光覚知であったのでは ないかと云う、妄想的思念を私たちに喚起させるのである。世界や存在 物が「ある」ことは、いかにも自然事態であると云える。これに疑問を 提示する精神と云うのは、何かの意味で病んでいるのだとも、或いは狂 気の様態にあるのだとも一面で理解される。しかし、現代的な意味の狂 気の整序構造性の問題とは別に、「あること esse entis」に「自然」 ではなく、むしろ「疑問」と「謎」「不可知性」を感応する精神の様態 と云うのは、上に示唆したように、ロゴスの隠された、暗き根柢の「光 核」の構造性へと到達し得る、精神の姿勢(ハルトゥング, Haltung)の 超越構造性破片である可能性を私たちは構想するのである。

  「存在」と云う概念、あるいは「了解」は、諸生物が生存において、 世界を了解乃至相互確認する仕方・様式における、人間と云う特殊存在 者における「特権的世界了解」のコア様態であり、この人間・現存在の 世界了解・存在了解の本来性構造は、世界に対する「根源的関心」であ り、世界存在との「相互織りなし」において、「時間における自己」へ の根源関心であるとしたのが、ハイデッガーの存在論であったと私たち は考えて見るのである。「時間における自己」とは、言い換えれば、時 空の共織世界において「みずからを気遣う・意識し・自覚する」「魂 psyukhee」 であると云うことの確認自覚であり、超越論的認識である。時空の共織 世界における自己存在の存在自覚と、「存在の存在性の不条理性」の驚 異或いは覚知が、普遍ロゴス的存在の一者たる人間の特権的ありようであ り、このような特権的普遍ロゴス的人間存在の存在自覚或いは存在違和 了解の現前が、逆に、昼光的自然性において「忘却されていた」ロゴス の真理様態への「超越感性」を鋭敏化させ、現存在の姿勢において、存 在の超越的謎の「光核」の暗在的構造への自覚を促進させる、或いは、 「資格性」を付与するのだと私たちは考えてみるのである。

  ロゴスの「光核(Phoos-pyreen, Phoos-kardiaa)」とは、人間理性 の階位にあっては到達できない「普遍ロゴス Logos pankoinos」の超越 的構造性より放射される光明としての「叡智理性」 の淵源として仮定される、ロゴスの構造コアである。純粋理性は、ロゴ スの光核より放射される光明の光線の一本を手繰っているあいだに、或 いは、光線を辿っているあいだに、一本であったはずの光線が、実は多 様に分岐しており、更に、「上昇追跡」していたはずであるのに、エッ シャーの絵のように、論理の理線が、何時の間にか「降下整序」作業を 行っていたことに気づき、そこに、理性の限界を自覚するのだとも云え る。人間の使用する「概念」と「理性」の論理演繹操作は、純粋な光明 のなかに燦然と輝いているように思える他方、「概念」は、透明なガラス が暗闇の前に置かれる時、暗闇をそのまま透かして見せるように、「暗 在構造」を私たちに示唆しているのである。論理体系の公理的無矛盾性 と完全性が、それら自身として完結しないのは、或る意味で当然である とも云えるのである。

  「概念」や「理性」は、私たちがそう考えている程度には、普遍で も明晰でもないのだと云う真実がここに開示されているのだとも云える。 それは比喩的に言えば、「論理」や「理性」は、曇り、或いは、或る「暗 さ」を備えているのだと云うことでもある。

  この人間理性或いは論理・概念の「暗さ・晦暝さ(Trübheit)」が、 逆にイデアー界の光明を弥増しにするのであるとも云えるであろうし、 或いはまた、超越的世界からの光核の光散の放射において、初めて補完 される理性やロゴスの普遍性は、「グノーシス(知識・認識),Gnoosis」の 光明ではなく、不合理にして不条理な「信仰 Pistis」の 普遍性であろうとも云える。アリストテレースは、可視秩序の彼方に超 越的不可視秩序を仮定したのであり、それは、ロゴスの超越光核の秘か な暗在的要請であったとも云える。ネオプラトニズムは、ロゴスの超越 光核そのものを、「一者 To Hen」の名において、公然と名指したのだと も云え、原始キリスト教の教義もまた、「一者」の超越的光核の光明の余 光の放射を人間の存在救済の原理として前提していたのだと云える。

  しかし、これらの耳慣れない言葉で私たちが述べて来たことが、す べて「超越的永遠界」、即ち超越ロゴスの暗在の光核に関する人間の側 の一方的な「期待」乃至「希望」であったと云うことを強調せねばなら ないであろう。プラトーンが伝える処では、ソークラテースは、その死 の間際に、なお、「言語嫌いは避けよう」と述べていた。「言語」とは、 この場合、ロゴスであり、思考の理であり、また純粋概念の「世界共織 的普遍性(katholikon kosmosynyphainikon)」のことであった。そ してソークラテースは、死後の人間の生について、否定も肯定もしない 「答え」において自死して行った。「死はまた、神々が人間に与える最 高の幸福であるかも知れない」。ソークラテースは「生成する自然」の 「根拠 rhiza, raison」を少なくとも自分は知らないことを「知ってい た」。彼は、「智者 sophos」と自称していた人々と議論し、その議論 の過程で、智者と自称していた人々が、実は、技術的知識と疑似ロゴス の狡知において智者たりえたことを論証した。とはいえ、その論証過程 は、実は、ソークラテース自身が、まさに誰よりも「無知 agnoia」な る者だと云う自覚を導いたのであるが。ロゴスの狡知が人を容易に瞞着 できることの発見は、ロゴスの「暗さ」の予感であり、覚知であったと も云える。

  プラトーンは、ロゴスは明るくなければならないと云う要請を恐ら く持っていたのであろう。でなければ、師ソークラテースの「死」は無 意味となるのではないか。或いは、自己自身の生と死もまた「無意味」 に落下するのではないか。しかし、ロゴスは暗さ(amydron)を事実持っ ていたのであり、世界 の根源基盤に安定性を保証しようとする時、プラトーンは、超越的光核 の実在ではなく、光核の幻像(エイドーロン, eidoolon) の存在を、それも比喩的に語った。プラトーンは、理性の二元論哲学を 論じたが、ロゴス自体の明晰性或いは超越的光明構造の現存については、 神話(Myuthos)を語ったのである。

  しかし、師のディアレクティケーを継承して慎重であったプラトー ンに比し、彼以外の思索者、哲学の学徒たちは、「神話」と称して、超 越的ロゴスの真実についての臆断を多く語った。或いは、ストアの禁欲 主義は、知においても発揮されたのであり、超越的世界の光散の存在保 証について、彼らは語ることを止めることを旨としていたと主張する。 だが、超越的ロゴスの普遍性の原拠たる光核の光明放射は、理性の暗闇 (amydron)を越えて、「存在 esse」に条理性・実体根拠性を与える原 理であったはずなのである。その意味では、超越を語ろうとしなかった ストアも、また、超越神話を神話だと云って語った……或いは、自然が 根拠付与を現在させていると主張したエピクロス 派も、共に、普遍的ロゴスの人間的位階ロゴスよりの瑕疵を認めない意 味において、超越的光散の被浴を暗黙に前提していたのである。それは、 存在世界の存在が、自然的に基盤付けられている、或いは、何かの更新 儀式において、世界は存在基盤を維持できるのだと云う態度(世界把握 のハルトゥング)と基本的に同じものであったと云える。


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II

  原始キリスト教が擡頭し始めていた、紀元一世紀のヘレニズム世界 の世界把握のモードは、このような状態にあったのだとも云える。原始 キリスト教は、ユダヤ教が特異的に主張していた「絶対一神教」原理を、 混淆思想の巷であったヘレニク世界において適合させるにおいて、「絶 対一神」に「宇宙普遍原理」の位相を与えた。光核の光散の比喩で云う ならば、ユダヤ教の絶対神は、ユダヤ教徒・ユダヤ人だけに特権的に超 越的光散を付与し、その超越的存在根拠基盤を保証してくれる、「異常 な神」であった。

  何が「異常」かと云えば、「神」とはそもそも、光明 光散の神話象徴であり、根拠原型であり、縦令世界に夥しい神がいたと しても、これらの神々は、実は、超越的存在世界の超越基盤を前提とし て、共織し合って、諸部族・諸文化・諸国家のあいだで秩序を構成する 「世界の超宗教的ロゴス構造」の結節的要素であり、そのことは昼光的 に自明であり真理で あったのである。それに対し、ユダヤ教のヤハウェは、「存在世界の超 越的基盤」は自分そのものであり、共織的世界の多文化世界のヴィジョ ンは「誤謬」乃至「僭称」であると主張して憚らなかったのである。そ して、歴史的に明らかなように、そのような「狂気の論理」は、ユダヤ 人の社会・文化においてしか、有意味ではなかったのであり、更に『旧 約聖書』が伝えている通り、かような「狂気にして異常のヤハウェ」の 超越光散の独占妄想を喧伝する預言者たちは、彼ら自身、ユダヤ社会の 正統権力よりしても異端であったのである。しかし、イスラエルの超越 的な、狂える預言者たちの超越世界論と絶対一神の光散の独占宣言が、 歴史上希有なことであったと云うべきであるが、イスラエル共同体・ユ ダヤ文化において、「正統伝統」と化したことが、ユダヤの異常性であ り、また唯一絶対僭称神ヤハウェの異常性でもあった。

  原始キリスト教は、ユダヤ教の、そしてヤハウェの「狂気」を継統 しつつ、しかし、イエズスは、「太陽の光はすべての人に分け隔てなく 与えられる」と説き、「神の子となるために祈れ」と語った。超越僭称 者ヤハウェの超越存在基盤の光散は、ユダヤ人にのみ付与されたもので あり、それがヤハウェの、そしてユダヤ教の超越選民的光散原理であっ た。しかし、ユダヤ人の肉と心魂を持ちながら、その教養・知性・ロゴ スはヘレニズム人であったパウロスにおいて起こった実存的自己定位の 精神的旋回運動は、キリストが自己に与えた「盲目の肉体」こそ、非本 来的・反選民的現存在様態であるとする「解釈」を齎し、その「光明 phoos」 の復活において(すなわち、パウロスの視覚の回復において)、パウロ スは、ユダヤ教的僭称超越光散は、ユダヤ人の神「唯一者」ヤハウェの 独占物ではなく、復活のキリスト、そして復活の自己の「本来性」、即 ちその「ロゴス・知性 nous」へのカリス(恩寵, KHARIS)としてある ものであり、ヤハウェの民たるユダヤ人ではなく、まさに「異邦人 allogenes」にこそ、存在世界の超越 的ロゴスの根拠光散の被浴はあると云う了解・啓示的真実開示に覚醒し、 このような現存在的真理了解を、「キリストの福音」であると主張し宣 明した。

  溶暗と薄明の謎の世界を生きたプラトーンは「神話」を語ったが、 その遥かな後継者である、新プラトン主義の智者プロティーノスは、神 話ではなく、明晰なる理性の思索において、そして感性的至高体験にお ける超越的ロゴスの自己顕現としてのエクスタシス経験において、純粋 なるロゴスの超越的一者が、晦暝の理性の超越的永遠界に純粋形相とし て、「無」において充満しているとのヴィジョンにあって、超越ロゴス の晦暝のディレンマ或いはアポリアに、疑似理性的構造回答を提示した。

  このようにして、ヘレニク時代と云う位相世界は、文明の爛熟期に して黄昏の時代、そして新しい思想や信仰の生成される時代であったが、 同時に、存在世界と自己存在の根拠原理を求め、「救済の光線」の超越 的光散を喧伝する救済宗教、或いは、古き已に死に瀕した伝統がもたら す根拠光散を信奉する伝統的既存宗教・思想・哲学が同居し、「宇宙の 超越的秩序構造基盤原理」について、少なくとも「その存在」を疑う者 は、原理的に「いない」はずの時代であり世界であった。

  しかし、ヘレニク文明は、その世界の隅々にまで、文明の光明を齎 したのであり、そのことは逆に言えば、ギリシア古典の高度な哲学的形 而上学的思索を通じて透かし見えていた「超越ロゴス」の晦暝的位相の 存在と、存在世界の存在の驚異の実在、それを基盤付ける超越的ロゴス の光核の光散原理と云う存在宇宙の共織的アスペクトの根柢に関わる思 索や理論が、広く多数の人に知られていたとも云えるのである。パウロ スは、超越ロゴスの瑕疵たる晦暝の光核幻像をキリストに措定して、 「信仰 pistis」によって、壮麗な超越的存在根拠の神話を構成したの だとも云える。それはパウロスの現存在、実存において、決定的な意味 を持ち、光核幻像キリストの伝道が、すなわち生ける神話となったパウ ロスの実存の実践課題であった。パウロスは自己を神話化し、そしてま さに光散神話そのものとして死んで行ったとも云える。

  原始キリスト教は、狂気の僭称絶対唯一神ヤハウェの異常なる超越 的光散原理を導入しつつ、「原人間 Adam」たるイエズスの霊肉を彼らの 地上的存在の受影原像とし、存在の超越的根拠の光核光散の被浴を、彼 らの原始祭儀において神話化して行った。彼らはやがて、プロティーノ スを初めとするヘレニク思想形而上学の精髄を自己の超越ロゴスの光散 原理の説明理論として導入することによって、形而上学的「宇宙秩序肯 定」神学を構成して行った。しかし、その根柢にあったのは、普遍光核 幻像たるキリストの原霊を、洗礼儀式によって受影分与され、また、麺 麭と葡萄酒の聖餐儀式を通じてキリストの原肉と原魂を受影分与される 秘儀過程における現存在充足であり、文字通り、彼らはキリストの「霊 と肉の子 Ta tekna tou Pneumatos kai tees Sarkos tou Khristou」と なって救済の超越保証を得たのである。


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III

  「存在が存在としてあること(Ens esse ut existentia)」の不条 理性や超越ロゴスの晦暝の謎(mysteria)等は、古典ギリシアの強力な 秩序宇宙ヴィジョンへの信頼性とロゴスへの確信性から、逆に、その綻 びが人間実存の理性にあって自覚されたものであったが、かような超越 普遍ロゴスの神話的補完の事実性や、その晦暝の矛盾事態、すなわち 「理性・ロゴスの限界」の苛烈な自覚は、ヘレニク文明にあって、高度 な知性を持ち、存在の超越根拠について、その理性理論の超越的破綻を 目の当たりにした人たちにとっては、まさに「悪夢」に他ならなかった のであるとも云える。そのことは、ヘレニク世界のほとんどすべての住 民・市民が、古典ギリシアの思索とヘレニク文明自体が生み出した、強 力な「秩序宇宙・整合超越ロゴス神話」の無意識的確信の影響の下にあ ったことを示唆しているのである。

  しかし人々は、ヘレニク文明の理性的秩序宇宙ヴィジョンの擬似的 根拠存在光散が壮麗かつ明晰であればあるほど、それに逆比例して、い わゆる実存の「疎外意識」を心の内奥において強烈に抱き、離散のユダ ヤ人と底通するとも云えるほどの「故郷喪失意識」を裡に持っていたの であろう。いや、大なり小なり、多くの人々が故郷喪失の薄暮の自覚意 識にあって、自己の本来的世界、或いは「本来的自己」の希求・探求と 云う、苦痛に満ちた実存の様態位相において、その日々を反復的に、懐 旧的・郷愁否定感的に生きていたのに相違ないのである(或いは、刹那 的生の充足において、快楽主義的・虚無的に、拭い難い黄昏の絶望意識 ・終末意識において、日々をやり過ごしていたのだとも云える)。

  他方、先に述べた、高度に知的で、かつヘレニク文明の最高の知性 が提示した「超越的ロゴスの晦暝性(amydron)と存在の超越的根拠の 不在」を現存在的課題として「実感する」人々にとっては、精神的生存 の事態は更に過酷なものであったはずである。彼らは、世界も、社会も、 自然も、同胞たちも、そして自分自身もまた、超越的なロゴス光核の理 性的被浴による存在根拠基盤の充足を得ていないことを痛感していた。 こうして、知性ある人もそうでない人も、また自己と世界の根拠に理性 的課題を見いだす人もそうでない人も、すべてを含め、この世に存在す る悪しきことごとについて、悲痛の叫びを挙げた哲人皇帝マルクス・ア ウレーリウスと同様に、人々は、「この世=宇宙 Cosmos」の存在自体 に絶望と終焉の兆候を痛感していたのだと云える。

  とはいえ、上で語った、高度な知性を持ち、かつ、存在の超越的根 拠の不在を実感する人々は、ただに「この世」に絶望するのではなく、 「この世 Cosmos」は、「幻像」であると云う認識に恐らく傾いたであ ろう。質料の「この世」が、永遠世界の幻像=エイドーロンであると云 う説明は、古くプラトーンが提唱していた。しかし、プラトーンは、そ うも云いつつ、別のことも語っていた。「この世は、悲しむべきことご との起こる世界ではあるが、しかし、生きてあることには、喜びもまた 存在し、そもそも《宇宙=この世》を創造した神々の意図を知る術もな い我であれば、神々が《善》(agathon)である以上、この世もまた、 善なる秩序宇宙である」。このようにプラトーンが対話編のどこかで述 べていたと云う確証はない。しかし、アカデメイア派は、古来よりの伝 統の神々を敬虔に信仰していた哲学者集団でもあった。始祖プラトーン もまた、信仰していたのであるし、高邁なるプロティーノスも、純然た る信仰心を尚抱いていた。

  だが、ヴァレンティノスであったのか、別人であったのか、高度に 知的で、かつ詩的・文学的想像力に恵まれていた人物は語ったのではな いだろうか。「我々は、この存在世界=宇宙に、超越ロゴス的根拠が存 在しないことを知っている。我々の内なる思考力、裡なるロゴスさえ不 完全なものではないのか。この世は悪の世でもあるが、しかし、それ以 上に悪しきことは、《根拠なき偽りの存在世界》であると云うことでは ないか。我々は、この世=宇宙(kosmos)と同様に、肉体(sarks)に おいて不完全で滅びるべきもので、更に我々の思考力も、ロゴスも理性 も、曇っており不完全で、我々の魂そのもの(psyukhee autee)が不完 全である。『この世=宇宙は、我々の《本来的故郷》ではない。我々の 存在そのものも、《本来的な我々》ではない。我々は、《この世の孤 児》(Orphanoi en tooide Ksomooi)ではないか』。……聞く処によれ ば、《聖なる預言者》は、我々は《上天の父の子》(Ta tekna tou Patros en tois Hypsistois)であり、《父》(Pateer)は、《汝ら子 を、みなしご’ορφανοι, orphanoi)にはしない》と約束したと 云う。この預言者こそ、我々《宇宙の孤児》に、存在世界の究極の根拠 を開示し、我々宇宙の孤児を救済してくれる者であろう……」。

  以上のように述べたことが、「宇宙の孤児であること」即ち「宇宙的 孤児性」と云う現存在姿勢のありようであると説明されるであろう。そ れは、社会的・実存的「疎外」に留まらず、「存在の超越的根拠の不在」 と「存在の不条理性」を痛感する精神の抱く「疎外感」であった。


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IV

  このようにして、ヘレニク時代末期にあって、「宇宙的孤児性 (Kosmische Waisenheit)」を痛感し、それを自己の現存在の姿勢とし たグノーシス主義者は、普遍ロゴスの晦暝性の彼方に燦然と輝く「光核 (ポースピュレーン)」の幻像を、それが幻像(エイコーン Eikoon) であり、「彼らの不完全な理性やロゴス」で把握しようもないものであ ることを痛切に実感しているが故に、プロティーノスのような「理性的 形而上学的体系」を築かなかったのであろうし、またキリスト教のよう な合理性的秩序超越神神学を、或る意味で偽りとも云える、晦暝のロゴ ス(理性)の言葉で築こうとしなかったのだろう。

  「オリジナル Arkhikon」のないこの世界にあって、彼らにとって は、光核が、伝統的思想や宗教や、新興救済宗教や秘儀宗教が語るよう な意味では、存在するはずもないことは自明で、「超越性の超越性」即 ち、この当時のあらゆる知のシステムや、救済宗教のヴィジョンの語る 処を超越した超越的トポスに、「偽りの光核幻像」の「超越的至高原像」 を、詩や文学の形式において、それも、「偽りの世界の支配者 pseudo-arkhontes」の 目を欺くため、既存の宗教や思想の形象や概念や言葉を援用して、いわ ゆる処の「合理性に欠ける」、意味不明な「グノーシス創作創造神話 Gnostische Kunstmythus」を構成したのであろう。

  プロティーノスは、グノーシス主義者たちを、その具象的神話構成 や、非合理性の故に批判したとされるが、しかし、グノーシス主義の側 から見れば、「偽りの不完全な理性に信を置く」プロティーノスこそが、 偽りの世界秩序、偽りの宇宙創造者=デーミウルゴスに幻惑されて、 「真智=グノーシス」が見えなくなっている哀れな智者に見えたのだ とも云える。

  こうして「宇宙的孤児性」と云う概念をめぐる、試論としての概念 措定素描を一応描いたのであるが、書いている私たち自身が、自分たち の空性に呆れるような文章であり、我々の実存をめぐる痛切な意識性に おいて、かつ真の「叡智」への希求において、私たちは真摯であり、切 実ではあるのだが、学問的厳格さと云う視点より見れば、私たちの言葉 は、意味不明の非合理的妄言とも響くことであろう。私た ちは、上で、グノーシス主義者たちが、高度な知性の持ち主で、しかし、 そのような高度な、彼ら自身の「知性・思考力・ロゴス・論理」などを、 不完全な偽りのものと見做していたと記した。これはグノーシス主義文 献に、このような記述があるかどうか、疑問であるが、私たちの思索の 「論理的展開」よりすれば、このような展望となって来るのである。

  彼らグノーシス主義者たちが築いた「グノーシス神話」のなかにお いては、愚かにして不完全な造物主=デーミウルゴスが登場し、彼は、 上天の高次アイオーンやプレーローマ世界の完全性を錯覚して、傲虚の 自己満足宇宙を創造する。デーミウルゴスの下には数々のアルコーン (支配者 arkhontes)がいて、人間の霊を、地上の肉に閉じ込めて置く ため、日夜活動しているのだが、このアルコーンに、当時のローマ帝国 の支配者・ 高位官僚たちの姿が投影されている可能性を指摘するグノーシス主義研 究者がいる。確かにそのようにも云えるのだろうと私たちも思惟するの だが、しかし、他方、私たちは、愚かで不完全な思考力・ロゴスしか備 えていないにも拘わらず、なおみずからの宇宙を創造して、自分は至高 者であると自負するデーミウルゴス=ヤルダバオートの姿のなかに、高 度な知性を有していたと想像される、グノーシス主義の指導者たち、教 師たち自身の「自己像 Eikoon autee」の投影をまた感じるのである。

  ヤルダバオートとグノーシスの教師たちが本質的に、或いは現象的 に異なる点は、根本的には、ヤルダバオートが、「知識=グノーシス」 に耳を傾けなかった、乃至、それを理解するために必要とされる知性の 姿勢、就中、謙虚さに欠けていたと云うことであり、他方、彼らグノー シスの教師たちは、或る意味で虚空の声なる「静寂 Σιγη」の「グノーシス」 に耳傾け、みずからも静寂のグノーシスを人々に教説していたと云うことであ る。しかし、決してそのことで「自己を奢ってはならない」、グノーシ スの探求者には、謙虚さが要請されるのだと云うことが、また、グノー シスの教師たちの自己自身への戒めでもあったと思える。グノーシス主 義の至高超越者、即ち、この文章で使った言葉では、存在の超越的根拠 を支持する超越的ロゴスの「光核」の象徴者である「プロパトール=知 られざる先在の父」について、かくも、否定神学的規定が行われたと云 うことは、グノーシスの教師たちみずからも、自分たちの宣明する「真 実 VeritAs」について、暗在的な疑念を抱いていたと云う証左になるの ではないかとも我々は思惟するのである。


  [UP] [END]
Conclusion

  「宇宙的孤児性」と云う概念乃至現存在の姿勢は、我々の説明が冗 長で、捉えようがないが故に、以上のように、何を述べているのか不明 な内容となるのかも知れないが、しかし、単なる「疎外」とは異なる、 それとは別のより高度な要素が輻輳した「疎外」の特殊形態であると云 うのが、以上の大まかな結論である。そして、その「特殊性」とは、 「存在が存在する驚異と不条理性」をめぐるヘレニク世界の宇宙観全体 を貫く問題意識に、彼らグノーシス主義者が正面から立ち向かい、「超 越的光核の幻像性」と云う言葉で表現した痛切な「本来的超越存在トポ ス=故郷の不在」を彼らが実感していたと云うことである。

  振り返って見れば、一つの文明世界のなかにあって、みずからの生 の実存を営みつつ、 その文明の現実存在性を基盤より支えている「原超越存在規定」乃至 「原存在根拠神話」を、かように明白に否定的に、断固として、かつ詩 的に美しく、壮麗に論じ、しかして自己の「超越存在ヴィジョン」に殉 じた人々の例と云うのは、歴史上、このヘレニク時代のグノーシス主義 者を除いて、皆無乃至、極めて稀なことではなかったかとも思えるので ある。彼らは、その意味においても、「人類の歴史空間宇宙」にあって、 まさに、「宇宙の孤児 Orphanoi Kosmou」でもあったと云えるのである。

/*/ Marie RA. 2001:0416:1015 /*/

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  【補足】: 以下の言葉は、本文書で使用されていますが、基本的に、 私たちの「造語」です。或いは、同じ言葉を他の人が使っているかも知れ ませんが、少なくとも、本文書を起草するにおいて、私たちが意図的に造 語したことは間違いありません。(日本語だけでなく、そのドイツ語形や、 ギリシア語形も造語しました。従って、これらのドイツ語やギリシア語な どが、正確な言葉であるかどうかの保証はできません)。

  宇宙的孤児性(Kosmische Waisenheit): 「孤児性(Waisenheit)」 と云うドイツ語は、私たちの造語ですが、ドイツ語でこういう言葉がある かも知れません。少なくとも、私たちが使った辞書には、「孤児」はあり ましたが、その抽象体形はなかったので、造語しました。なお「宇宙的孤 児性」と云う言葉乃至概念は、これとして造語になります。この意味を表 現するための散文的な言い回しは存在しますが、一語に表現したものはな いと思うので造語です。その意味と云うか概念定義をめぐり、上での文書 を記しています。なお、ギリシア語での「孤児(orphanos)」、そして「こ の世の孤児」ならば、これは『新約聖書・福音書』のなかのイエズスの弟 子たちへの言葉のなかに出てきます。(追記 : 「orphanos」と云う言葉 は、書店店頭で、「新約聖書ギリシア語コンコーダンス」で調べると、『 ヨハネ福音書』と、あともう一カ所にしか確か出てきていませんでした。 そうすると、『ヨハネ福音書』に出てくる「孤児・みなしご」と云う表現 は、グノーシス主義の側に起源がある可能性があります。「聖書コンコー ダンス」を目下所有していないので、確認できないのですが、注記として 取りあえず追記します。−010514−)。

  光核(こうかく): これは、本文中に説明がありますが、形而上学 的超越普遍ロゴスの措定が、そもそも「不完全な我々の理性」の営みであ るが故に、この意味の「超越普遍ロゴス」は擬制であるとする前提におい て、我々の「不完全な理性」を超越する「理性階梯」での展望として、超 越普遍ロゴスの展望を、これまた「仮想・想定」における擬制において構 想し、擬制の超越性の上に、更に擬制の超越性を措定した処の「超越普遍 ロゴス」の超越的超越論的展望のロゴス構造における、「コア」を指す概 念です。超越ロゴスを光・光明(phoos)で比喩し、その中核であるので、 「光核」と造語しました。「Phoos-pyreen, Φως-πυρην(ポース ・ピュレーン)」はギ リシア語で、「光−核」と云う意味で、合成語の場合、「photopyreen(ポ トピュレーン)」の方が形からすると、より妥当なはずですが、光(ポー ス)の音を残すため、「ポース・ピュレーン」としました。(「フォース ・ピュレーン」と云う読み方も可能ですが、「ph」の気息音を私たちは、 「パ」行のカタカナで示します)。また、「Phoos-kardiaa, Φως-καρδια (ポース・カル ディア)」は、「光−心」と云う意味で、これはコアの原語である英語の 「core」が、果実の中心の意味と、ラテン語の原義での「心・心臓」の両 方の意味を持つので、「心・心臓」の方は、「ポース・カルディア」とし ました。場合によって使い分けると便利であろうと考えたからです。「光 核」は従って、「光心」とも云えます。

  世界共織的普遍性(katholikon kosmosynyphainikon): こ の言葉は、そもそも、「共織(きょうしき)」と云う造語から構 成された言葉です。「共織」は、「共に織り上げる」と云う言葉を約めて 一語にしたものです。理性や感性の超越論的構造から現象が主観として現 象するような事態が、超越的世界の「共織構造」と云うことになります。 なお、「synyphainoo(シュニュパイノー)」と云う動詞は、ギリシア語 で実際に存在し、「共に織り上げる」と云う意味で、これは、言葉は同じ ようですが、二人または複数の人が一緒に織物を織り上げると云うよりは、 複数の絲などで「織り合わせる」と云うような意味ではないかとも思い ますが、複数の人が共同作業で「織り上げる」と云う意味を排除していな いはずです。この言葉は、syn + hyphainoo と云う構造で、syn が「共に」 にこの場合当たり、hyphainoo(ヒュパイノー)単独では、「織る」とか 「計画する・考案する」などの意味があります。興味深いのは、「hy」の 部分を外した「phainoo(パイノー)」が、「光を齎す」「出現させる」 「説明する」「明らかにする」などの意味があることです。「織る」過程 において、織物自体、或いは織物の上の模様などが「出現」しますから、 何か関係があるのではないかと思いますが、「hy」と云う語が、何かの接 頭辞なのか、何か意味を持つのかが分かりません。「共織」において、「光 明が齎される」或いは「理性構造が世界に組み込まれる」、このような意 味を内含させて、「synyphainein(シュニュパイネイン)=共織」と云う 概念が提示されれば興味深いとも思うのですが。(追記: キリスト教『新 約聖書・ヨハネ福音書』冒頭の有名な言葉(1:5):「光は暗闇のなかで輝 いている(kai to phoos en teei skotiaai phainei)」に出てくる「輝い ている」に使われているのが、この phainoo と云う動詞です)。
/*/ Marie RA. 2001:0420:0225 /*/


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