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書評
使




 



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前 文


  このたび、淀川乱歩氏の短編作品集『根暗野火魂』が文庫版で刊行された。淀川氏は、十五年ほど前より、少年愛・やおい・耽美小説・コミックなどを総合的に扱った、『JUNE』、『小説JUNE』等で、独特のスタイルの「耽美少年愛的短編小説」を発表して来た。寡作な作家であるが、その作品世界は、一種独特異様な耽美怪奇的オーラを放射していた。二十世紀末にほの青い焔をあげて輝いた異郷の夢幻だとも言える。

  その作品はどのようなものであるのか、これは実際に作品を読む、または文章を眺めてみないと、説明のしようがないものとも言える。「このような話である」と云う作品紹介では伝達し難い特異なスタイルの作品であり、後述したく思うが、これは限りなく「散文詩」に近い少年愛的小児性愛的「ポルノ」であるとも言える。それでは「ポルノ」とは何なのか。相当な回り道になるが、まず、「ポルノとは何か」という反省考察を試みて、そのなかで淀川乱歩と云う希有なスタイルの「ポルノ作家・ポルノタブロー詩人」の本質を定位してみたい。

* * *

  さて、「ポルノ」と云う言葉は、「ポルノグラフィー(pornography)」の省略形としてあり、ドイツ語などでは、Porno という形で独立した単語ともなっている。「ポルノ」の西欧語での意味は、「春画、春本、ポルノ映画、ポルノ小説」などで、文字による文学などの作品と、いま一つ、こちらの方が古典的な用法であるが、視覚的な「絵画」またはそれに準じる「映像」を指している。

  ポルノグラフィー(pornography)がこのように、絵画的な意味と文章による物語的な意味を持つのは、この言葉の元々の起源から来ている。pornography とは、語源的には、「 porno+graphy 」である。グラフィー(graphy)は、ギリシア語の語源では、「筆で描かれた・記されたもの」というのが原義である。「筆」は絵画を描くのにも使えれば、また文章を書いて、物語を記すのにも利用できるため、「筆の所産」とは「絵画」と「文学」の二つの意味が出てくるのである。

  では、ポルノ(porno)とは何かということになると、この言葉もまたギリシア語を語源としており、「娼婦・売春婦」を意味する「ポルネー(pornee, πορνη)」または、「売春宿・娼館」を意味する「ポルネイオン(porneion)」等の合成語構成のための結合形である。従って、「ポルノグラフィー」とは、ギリシア語の原義からすると、「売春婦・売春の絵画/物語」という意味になる。




  前置きがたいへん長いのであるが、しかし「ポルノグラフィーとは何か」ということは、この書評の対象である淀川乱歩の『根暗野火魂』の作品を理解するにおいて、是非、明らかにしておかねばならない「キーワード」であるとも言える。端的に言えば、世のなかにポルノグラフィーと称される作品は多く、好色文学とか官能小説などとも呼ばれている作品は数多あるが、言葉の原義からして、「ポルノ」に値する作品とは、淀川の作品がまさにそうではないのかと思えるからである。

  ポルノグラフィーとは、分かりやすく云えば、「低俗かつ赤裸々な、扇情的絵画、またはそのような扇情効果を持つ文章−物語」だと言える。ポルノとは、高尚な芸術的絵画や教養主義的な文学などを意味しはしないのである。「好色文学」とか「官能小説」とは、極めて通俗的な呼称であるが、しかしなにがしかの部分で、「文学である」「小説である」と自己主張している作品だとも言える。「官能小説などと云うものは、所詮、本質はポルノである」というような断定が成立するのは、官能小説・好色文学という呼び名は、何かもっともらしい「芸術性」を錯覚させるが、つまる処は「欲情文章」だという本質を暴露しているからである。

  「ポルノグラフィー」とはその本来性から云えば、それを「見る者」「読む者」を「欲情」させ、性的に興奮させると云うことが本質的に重要な要素である。ただ「性」に関する内容を猥褻に・扇情的に描いたと云うだけでは、果たして「ポルノ」と呼ぶだけの価値があるのかどうか不明である。日本においては、非常に多数の作品が、官能小説、好色小説、あるいは端的にポルノだとして出版されているが、果たしてそれらは「ポルノ」の名に値いするのかと云う疑問がある。

  「ポルノグラフィーの成立」において非常に重要なモメントとなるのは、「人間の想像力」である。絵画にせよ文章にせよ、ただ「性的な場面・性に関係する情景や話」を描いただけでは、ポルノにはならないのだということは重要である。どこかに記されていた話であるが、「想像力」が如何に重要かと云うことの例示として、新婚初夜を迎えた若い二人が、寝室で二人きりになったものも、ただ相手を見つめ合うだけで何もできないでいたとき、男性の方が花嫁に向かい、「ぼくたちで、今から《いやらしいこと》をしよう」と言った処、二人の性欲が急速に昂進し、うまく初夜を過ごすことができた、という話がある。

  この話は、人間の「性的欲情」においては、言葉の持つ「猥褻性」が大きな要素を占めるということを示している。動物は、性ホルモンの昂進やフェロモンによる「発情」によって性行動へと移行するが、人間の場合、フェロモン誘導の欲情以外に、「観念的欲情=想像力の扇情」というモメントが大きな意味を持っているのである。淀川乱歩の作品世界、その言葉の妄想世界を鍾愛・玩味するには、読者には、まず「想像力」が要請される。


II


  想像力の問題と云う観点からは、ドイツ・ロマン主義の代表的作家であるノヴァーリスの『青い花』のなかの挿入物語を一つのサンプルに考えることができる。この著名な作品において、或る青年が異国の美少女に出逢い、二人で一夜を洞窟で過ごすあいだに、自然な風に二人のあいだに「愛」が生まれ、二人は「愛の交わり」を持ったのであった、という記述が出てくる。きわめて清純に甘美な描写で表現されているが、この短い記述の行間に、我々は「猥褻な妄想」を観念として読み取ることも可能なのである。どのように二人は口づけあったのか、どのように愛撫の行為が進み、青年と少女の裸身が、どのようにむきだしとなり絡み合って行ったのか……このような「観念的想像」による行間の読みとりを通じて、ノヴァーリスの清純この上ないロマン主義作品が、「ポルノの情景」を含むことも可能になる。つまるところ、それは読者の「想像力」の問題だと云うことにもなる。

  「ポルノグラフィー」とされる作品は、その技巧の程度は様々でも、読者の「性的妄想・性的想像力」を扇情させるために、物語のプロットを構成し、情景の描写を行うとも言える。とはいえ、多数の商業出版されている「ポルノ」作品において、どういう風に読者を欲情させようとしているのか、シチュエーションの設定やプロット、行為や情景の「描写」において、作者が「扇情技巧」を駆使しているのか、客観的に「透視」できてしまうものがほとんどである。簡単に云えば、ストーリーテリングやプロットや描写に「手垢」が付いていると云うことである。無論、このような作品でも、想像力のキャパシティがそれほど豊かでない読者には、十分な欲情小説として機能する。

  さて、最初に「ポルノグラフィー」について、「春画、春本」というような訳語を提示したのであるが、これらの言葉は現代語としては、些か古めかしい言葉だとも言える。「官能小説・好色文学」と「春本」では、何か相当に違うような印象がある。「春画」とでは、もっと隔たりがあるとも言える。何が違うのかと云うことを考えると、SM小説にしても、官能小説にしても、やおい・耽美小説にしても、それらは起承転結のストーリーを備えた「話」であるという点だとも言える。「春画、春本」もまた「物語性」を備えているとは言えるが、それは読者あるいは閲覧者が自己の「想像」のなかで観念的に構想構成するもので、作品自体は想像力への「暗示的イメージ・状況」の提示に終始して、起承転結を必ずしも要請しないのが春画・春本だとも言えることである。

  淀川乱歩の『根暗野火魂』に収められている作品は、このような意味で、SM小説とか、やおい・耽美小説というよりも、寧ろ、「春画・春本」の類だと説明した方が、作品のありようにおいては適切だと考えられる。「物語性」への志向が皆無であるとは言えないが、総体的に、物語を期待すれば、それは満たされないと云う結果になると思える。淀川の作品は、こうして「扇情性」と云うポルノの要素を十分過ぎるほどに満たし、かつ「情景描写のタブロー」がその本質であると云う点で、文字で描かれた「春画」だとも言えるのである。


III


  このような淀川の作品の特徴を念頭して、わたしは、「耽美扇情タブロー小説」と云う言葉を造語した。これは「小説」とは名づけているが、実体的には起承転結等の小説的・物語的構造とは無縁な位置にある「文章による春画」であり、それ故「タブロー(情景画・場面画, tableau )」と名づけるのである。


マックス・エルンスト『沈黙の眼』
  「タブロー」とはフランス語では単に、「絵画・板」と云うだけの意味でもあるが、美術的には、例えばわたしがこの言葉で思い浮かべるのは、シュールレアリスムの画家マックス・エルンストのデカルコマニーを駆使した異次元の耽美幻想絵画『沈黙の眼』などである。淀川乱歩のポルノ作品タブローはエルンストのような「芸術的幻想耽美性」と「象徴性」を持つとは言い難いかも知れない。「ポルノ」とは最初から述べているように、通俗的かつ「扇情」を目的とする自己快楽装置だからである。淀川の「タブロー・ポルノ」は、読者・鑑賞者、そして何よりも第一に淀川自身を「欲情させるために」描かれているのであり、そこに教養主義的、または批判芸術的な「意味開示」を求めても、作品は、このような読解に対して、「永遠の反復」と云う極めて通俗的な応答で「無意味」という答えを返すのである。

  しかし「無意味」とは、一体何が無意味なのか、と尋ねてみる価値はある。淀川の作品タブローは、喩えてみれば、全裸の美少年が鏡に映るおのが裸身に欲情してマスターベートし、その行為を永遠に反復して行く情景・場面の「活人画(tableau vivant)」だとも言えるのである。淀川の作品の愛読者になると云うことは、読者が、このタブローにおける自慰に耽る少年と一体化することだとも云え、そのような「行為」は不毛であるとも結論が先取りされる。

* * *

  そして「意味の解読」と云う営為は、いま比喩で述べた、鏡の前でナルキッソスそのものの通りに、自己の裸身に欲情して自慰を限りなく繰り返す「少年」の存在の「意味」への問いかけであることになる。しかし淀川の実際の作品は、このような鏡の前のナルキッソスの自慰のポルノ・タブローではない。どういう事情なのか。説明のために引用するとすると、ドラッグ中毒の妄想幻覚のなかに、少年愛・同性愛の錯乱したポルノ・タブローを鏤めた、ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』の一つの場面・情景描写が適切であろう。次のようなタブローがある(河出書房・鮎川信夫訳):

二人のけだものじみた顔をしたアラビア女が、小さな金髪のフランス人少年のパンツをはぎ取っている。彼女たちは赤いゴムのコックを少年の体内に押しこむ。少年は歯をむき出してうなったり、かみついたり、けとばしたりしたあげく、泣きくずれながら硬直したコックから射出する。……

  バロウズの文章は簡潔であり素っ気ないとも言える。また即物的とも云え、それは耽美的装飾的な淀川の文体とはかなりに異なっている。しかしバロウズの作品に含まれる、この通過する途上で垣間見える情景・場面のタブローは、淀川の作品世界の素朴な原型なのだとも解釈できる。ここにある「少年」の像は、「根拠なく凌辱される存在」のイマージュであり、強制された快楽に抵抗しつつ、快楽に屈服して「凌辱の快楽」に溺れ込む存在のありようである。

  バロウズの作品世界では、ドラッグの見せる幻覚のなかで、悪夢が果てしなく展開されて行くが、それは本来「起承転結」を持っていた物語を作為的に断片化して築いた「悪夢」である。淀川の作品世界は、「通過する悪夢のタブロー」ではなく、「正気の状態で、数限りなく反復経験せねばならない、永劫回帰の凌辱のタブロー」である。

  「グノーシス」における重要な現存在ハルトゥングとして、「根拠なき被投性(Geworfenheit ohne Grunde)」と云うものがある。「なにゆえ、わたしはこの悪と暗黒の世界に生きているのか、なにゆえ、実存の受苦を限りなく耐えねばならないのか?」この問いに対し、「グノーシスの救済神話」の回答を受け入れなければ、あるいは「救済の叡智」を知ることができなければ、「生きてあること」は、「根拠なき受苦」となる。

  何らかの「罪」を犯したが故に、「凌辱の快楽の苦しみ」に落とされているのなら、「凌辱」という「罰」の受苦を通じて、やがて贖罪が結実し、救済が魂に訪れるであろう。しかし、凌辱の受苦に悶える魂には、罪の侵犯の覚えがなく、魂が本来的に「無垢」であり、凌辱される少年が、みずからには罪を持たない「天使的存在」であるとき、そもそも「贖罪」は最初からないのであり、魂の救済も安らぎもないであろう。永劫回帰の凌辱と、強制された快楽が果てしない時間のなかで永遠に反復されるだけである。

  凌辱と強制された快楽のタブローには、「時間がない」のだとも言える。無時間のなかの情景=タブローであるからこそ、永遠に反復されるのであり、根拠なく強制された快楽、受苦としての凌辱であるからこそ、逆に、嬲られ、被虐される少年のたましいは無垢であり、罪なき天使の状態を維持できるのだとも言えるのである。


IV


  このような永劫回帰の無垢なたましいの凌辱の受苦と云う、或る意味で形而上学的な「意味開示」は、淀川の作品の異様な耽美的なまなましさと、にも拘わらず、特徴的に作品の異郷世界を支配する静謐の凌辱タブローを賞味・玩味し尽くした果てに出てくる迷宮宇宙の存在論的様相解明である。しかし、淀川の作品は、すでに幾度も繰り返し述べているように、「ポルノ・タブロー」であり、以上のような、一見した処、高尚で抽象的な実存分析などとは、ほとんど無縁の地平で、そのポルノグラフィーを展開しているとも言えるのである。

  淀川乱歩自身が、自分の作品は、「春画」に過ぎないとも述懐している。私もまた、淀川の作品は「耽美小児愛的ポルノ・タブロー」であり、卓越した、本物のポルノグラフィーであると、最初に述べているのである。何故、「少年愛的・小児愛的ポルノ」かと云う疑問が起こるかも知れない。そういうのは、異常心理学の扱う対象ではないのか。

  確かに、異常心理学において「小児性愛」はパイドピリアー(paidophilia, παιδοφιλια )として「異常心理」の範疇に入っている。しかし、『根暗野火魂』に収められた作品のなかでも、恐らくもっとも優れていると思える「ポルノ・タブロー」作品である、『地獄の玩具』 『悪魔の玩具箱』 『悪魔の秘宝館』 などにおいては、登場する少年・子供たちは、あたかも「意志なく、言葉なく、感情なく、ただ凌辱の快楽に受動的に嬲られる、水晶細工の像」のような存在として規定されている。これは、生きた人間を「もの」として捉える物象化=ネクロフィリアの結果かと云えば、間違いなくそうでは「ない」のである。

  淀川の描く少年たちの凌辱の受苦のありようは、反ネクロフィリア、反スカトロジー、そしてこれが重要であるが、反サディズム・反スプラッターだと云う規定である。これは、何故「小児性愛なのか?」と云う問いに対する答えとなっている。他者によって強制される快楽、永劫反復の凌辱の対象である「少年」は、「無垢」であり「無原罪」でなければならなかった。「罪なくして強制される凌辱の罰」こそが淀川の作品の実存的な主題であれば、登場人物は、可能な限り幼くなければならず、しかし「自我」がないほどに幼な過ぎることは認められないとすれば、結果的に、それは「少年・男の子・子供」となるのだとも言える。

  また、もう一度戻れば、作者自身で、自分の作品は「ただの春画だ」と云う述懐を述べているとも記した。しかし、「ただの春画」とは、それだけでもの凄い意味を担った言葉ではないかとも思う。「春画」と云う言葉でわたしが思い起こすのは、金井美恵子の詩集『春の画の館』である。金井は、彫琢された緻密な言葉で、「春の画の館」と呼ばれる「娼館」では、客の相手をするのは少年たちであり、「春の画の館」とは従って「男娼館」に他ならないことを述べる。

  金井の散文詩における「淫靡さ」は粘着するエロティシズムであり、淀川の作品世界に充満している「透明な静謐さ・簡潔さと清楚さ」は、いわば、金井の世界の対極にあるとも言える。金井の世界にある「血の匂う猥褻性」は淀川にとっては無縁だとも言える。しかし、両者に共通するのは、緻密な「描写」を積み重ねて行くと云う文体であるとも言える。それによって紡ぎ出される世界は、まったく異質であるが、淀川の文章が織りなすものは、冗長な描写過剰な文体に見えて、しかし計算された「適切な分量の装飾」描写であると云うべきである。

  ここで、淀川乱歩の文章世界は、物語性の喪失において、限りなく「詩」に近づいているのだと思える。金井は、或る脅迫観念から逃れるために、華麗な言葉のイマージュを発散させ、精巧なタペストリを織り出すとすれば、淀川は、まさに「或る脅迫観念」を結晶化し彫琢するために、その装飾文体を展開して行くのである。

  罪なく、根拠なく、果てしない凌辱の受苦に、静寂のなかで耐え続ける「無垢の天使」……作者が、自己で紡ぎだした「タブロー」を見つめて、その鏡面に映るのは、このような無垢の天使的存在の影像であるかも知れない。


結 語


  さて、ここまで書いて来て、これは果たして「書評」と呼べるものかどうか、はなはだ疑わしいと感じざるを得ない。『根暗野火魂−ネクラノビコン−』は薄い作品集で、九本の短編を所収している。九個の作品は、それぞれに固有の旋律を持っているとも云え、読み方次第では、以上に述べて来たようなこととは、まったく無縁な世界の広がりを、読者は感想として抱くかも知れない。

  しかし、少なくともこれらの作品は、すべて「ポルノ・タブロー」と云う特性を備えていると云うことは間違いないことだと思う。

  また敢えて、この文章では、淀川乱歩の作品から、その文体のサンプルや「タブロー」の実例を部分的でも引き出して提示すると云うことはしなかった。

  ポルノグラフィーを名乗る凡百の作品が書店の棚を夥しく賑わせている昨今である。「ボーイズラブ」ジャンルなどは、一体誰がこのような作品を読むのかと疑問符で頭のなかが一杯になるぐらいに大量に書店で陳列されている(と云って、まったく無視している訳でもないが)。

  だが、淀川乱歩の「エロートタブロー」は、思うに類例のない稀有な宝石的美の均衡であり、読者に想像する力があれば、絢爛豪華にして静謐なクリスタルの淫猥さを「永劫反復」して再現してくれる「現在の稀覯書」だと云うことは事実である。

  実物を手に入れて、あるいは期待にそぐわない可能性もあるが、少なくとも、このような「タブロー」は他に例がないと云うことは断言できる。


補 足


  [*] 以上の評論で述べて来たことは、淀川乱歩の作品の真髄的本質規定が、一方で作品スタイルからは「扇情ポルノ」であると云うことと、他方でそれが実存解析からは「根拠なき被投性」、つまり人の存在の「根拠なき受苦」の具象的タブロー化であると云うことである。作品スタイルと、その取り扱う具象内実は作者の「嗜好」で決まって来るとも云え、実存的に「根拠なき被投」を作品化するにおいては、ポルノの形式を取る必然は必ずしもないとも言えるが、作者にとっては、それが必然な様式であったという可能性がある(つまり、生きてある作者のレーベンが作品の様式を決定していると云うべきである)。同様に、凌辱の対象が「天使の無垢」と呼んだように、「罪なき幼少年」であると云うことにも、作者の内的な生の必然性が関与していると言える。

  しかし、凌辱対象は必ずしも「少年」ではないと云うことにも留意せねばならない。「罪なき存在への根拠なき受苦」は、少年と少女と関係なく実存の様態として成立し得るのである。そのため、上の実存解析的な議論では、男女の性別とは無関係に「根拠なき受苦」を実存主題として述べている。作者である淀川自身に、「少年への凌辱」に対する生の拘泥あるいは必然的要請があるならば話は別であるが、淀川の作品を仔細に検討すると、この「根拠なき凌辱」は性別に関係せず、幼少年・幼少女と、どちらの性に対しても働いていると云うことが看取できるのである。従って、淀川の発表された作品において、「少年」が性的凌辱の対象となっていることは、彼が作品を投稿した媒体、則ち『JUNE』・『小説JUNE』等の編集方針に沿ったものであると考えるべきである。

  淀川の想像志向は、必ずしも「耽美少年愛的小説」の範疇に限定されている訳ではないと云うべきである。本質的には、それは「根拠なき受苦としての凌辱」であって、そこには男女・少年少女の区別はないと云うべきである。実存の課題の幻想的具象化として、パイドピリアー(paidophilia,小児愛)は、その「前此世的無垢への凌辱」として本質的なモメントである可能性はあるが、淀川が男性だとして、その作品志向には「同性愛的契機」は必ずしも本質的ではないとも思惟される。(2005:0202追記)。


La Fin







Miranda Noice et Marie RA.








― 2004:1217:2030 ―






作品データ

 題名:  『根暗野火魂−ネクラノビコン−』
 著者:  淀川乱歩( Yodogawa Rampo )
 発行所: 新風舎
 発行:  初版2004年12月25日
 価格:  683円(税込み)
 文庫:  156ページ
 ISBN:  4-7974-9370-4
 著者略歴 :大阪府出身。悪魔研究家。悪研究家
 内容目次:
   1 地獄の玩具
   2 悪魔の玩具箱
   3 上海童娼窟
   4 ウーム
   5 幼竜童子 ― ドラゴン ボーイ ―
   6 刺青と旅する少年
   7 悪魔の秘宝館
   8 岩魔の谷
   9 月がとっても赤いから
   解説  野阿 梓








参 照
淀川乱歩 著 『根暗野火魂−ネクラノビコン−』 (新風舎発行 文庫 650円+税)
淀川乱歩サイト=『淀川乱歩の館
短評・解説 par 野阿梓 * 「淀川乱歩

REVIEW 「Necranobicon」』 par Miranda ( Khoora Mirandaas )


 "Pie Jesu" par Gabriel Faure (makiron)
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