INTRODUCTION



グノーシスとは何か


  《グノーシス》とは何であるのか。世のなかにはいい加減な憶測や、自分自身で存在論的・実存論的思索を試みることもなく、どこかの誰かが記している適当な説明を読んで、グノーシスについてなにごとかを語ろうとする者が存在する。グノーシスは「秘教」であり、理性では認識できない「秘密の知識」を真髄とする「神秘主義」である、等々。グノーシスの思想・教えは果たして「秘教」であったのか。非合理的「神秘主義」であったのか。私たちは「違う」と述べる。

  何故このような錯覚や誤謬や臆断の解釈や解説が流布し、横行するのか。端的にそれは、《グノーシス》を「知らない人」がグノーシスについて語ろうとするからだと云うべきである。では私たちは《グノーシス》を知っているのか。私たちは、「しかり」と答える。「グノーシス(γνωσις)」とは「知識」であるという説明は多い。しかし、誰も、この言葉が、また同時に、「認識・覚醒・気づき」と云う意味を持つことを述べる人はいない。「グノーシス」とは仏教の「覚り(bodhi)」と似たような意味を持つと述べる人はいないのである。

  しかし、キリスト教的グノーシス主義の福音書である『トマス福音書』の様式を考えてみればよいであろう。これはイエズスの語録集の形をしているが、それぞれの言葉に対し、福音書編纂者は「解説」を加えていない。寧ろ冒頭の言葉から分かるように、読者がイエズスの「言葉の解釈」を見出すこと、意味に「気づき・覚醒すること」を求めている。「グノーシスの教え」あるいは「真理(Veritas)」とは、グノーシスの「知識」とは、「三角形の内角の和は180度である」とか、「至高のアイオーンの名はビュトスまたはプロパトールである」と云うような、形式的な知識ではないのである。しかし、だと云ってそれは非合理的・神秘主義的な「隠された知識」と云う訳でもない。

  「グノーシスの知識」は「隠されている」と表現される。しかし、この言明は同時に、「人がそれを忘れてしまった為に、いまは何か分からなくなっている」という補足の言葉が付くのである。私たちは「グノーシスの再想起・アナムネーシス(anamneesis)」と云う表現を幾度も使用した。プラトーンのイデアー説が語るように、「存在世界の真実」は実は、私たちの霊あるいは魂においては、「既知」なのである。魂あるいは霊の超世界的次元が、永遠世界の「イデアー的真理」を本来的に(ア・プリオリ a priori に、あるいは超越論的 transcendental に)「知っている」のでなければ、そもそも一切の「永遠的真実」に関する知識は、人間には「不可知」である。グノーシスの教えは、人はそれを「知ることができ、思い出すことができる」と述べている以上、「グノーシス」とは、本来的に人の魂が「すでに知っている」真理なのである。

  「グノーシス」とは何か、「グノーシス主義」とはいかなる世界観・存在論であるのか、私たちは、用語集のなかの「グノーシス的現存在姿勢」の項目で、本質的規定を記したと考えている。この項目の説明において、『「至高の光の霊のなかにわたしがあり、わたしのなかに至高の光の霊がある」とは、グノーシスの真理に「気づいた」とき、本来性を求めていた自己は、本来性が、それを求めていたという「わたしの現存在のありよう」において、実はすでに自己の内部で現成していたという真理を自覚することである』と述べている。「グノーシスの真理」とは、端的には、人の魂のなかに、「光明の萌芽」あるいは「永遠の世界に通じる光の道標」が存在している云う存在真実の自覚なのである。

  確かにグノーシス主義においては、「反宇宙的二元論」と云うものが同時に主張される。これを「善悪二元論」と素朴に解釈し考える人がきわめて多いとも言える。しかし「善悪二元論」はむしろ、ゾロアスター教やキリスト教・ユダヤ教・イスラ−ム教を本質的に規定している宗教原理であり世界観・存在観である。グノーシスは人の魂における「救済の光明」の既存を語るのであり、これに従えば、人の魂は本来的・本質的に「救済されている」存在である。しかし、人の生における経験的事実として、現に人の魂は「救済されていない」現存在状況にある。何故、人の魂は光明の霊をうちに持ちながら、この世の暗黒にあって苦しまねばならないのか、何故、現に「故郷なき者」として苦しみを受けて已まないのか。これは人の現存在の「根源的問いかけ」とも言える。

  グノーシスの真理は、まさに「根源的根拠は分からない」と答えているのである。グノーシス的「現存在の姿勢(Daseinshaltung)」とは、なにゆえ私はこの苦しみの暗闇の世界にあるのか「分からない」という「自覚」である。キリスト教・仏教をはじめとして諸救済宗教は、「苦しみの原因」を知っていると声明する。キリスト教であれば、それは「神と人との離在」であり、仏教であるならそれは「存在世界の本来的ありよう」である。それ故、キリスト教は「信仰」によってみずからの魂を高め、自我の驕りを悔い改め、神との「離在の距離」を神が恩寵において解消してくれることを「信仰希望」とし、他方、仏教は、人の苦しみのありようは本来的な世界のありようの反映であって、これを「受容」すること、この「現実」の外に、想像の救済は「ない」という事実を「悟る」ことが救済であるとする。

  キリスト教や仏教などのこのような救済の展望を、もし「宗教」と云うなら、グノーシスは宗教ではないとも言える。それは不可視の四枚の翼を銀河の光の彼方に垣間見る思索であるとも言える。「魂において苦しむ者」は苦しみからの解放を得、「霊において悲しむ者」は悲しみからの解放を得るだろう、とするのがグノーシスの教えである。「苦しみや悲しみ」の根拠・根本原因はグノーシスにあっては不可知であるとも言える。「苦しみの根拠」は、「人と神との離在」にあるとか、「世界の本来的ありように対する無知」にあると云う回答は、人の合理思考に訴求する神話的回答ではある。しかし人の魂は、「至福直観」において、あるいは「無上正等覚」において、このような「真理」を理解しているのではない。人の魂は「弱き実存」であり、悲惨なる現存在は、人の生きてある現なるありようである。「至福直観」や「無上正等覚」は言葉や概念としてはあるが、実際に人の魂がその状態にあって、魂と世界の真実を覚知するのではないのである。

  人の魂に分かっていることは、自己の内部に「救済の光明の萌芽」が存在するという真実であり、何故人がこの暗闇の世界に「落下」してあるのか、「根拠は分からない」という真実である。人の魂のなかの「光明の霊」とは、まさに「人が救済を求めている」という現存在のありようを述べている。「美」とは稀な均衡であれば、このような均衡、救済の天国の均衡を人の現存在が求めることは、「救済への能動的志向性」であり、同時に「イデアー的救済受動可能性」でもある。「救済の概念」があるということは、必ずしも、それに対応する「救済の実現態」の実在を保証するものではない。しかし、人の魂の苦難と希望の自覚的事実は、概念と実在の二項対立把握を超越する「普遍精神」構造とも云うべきである。

  《グノーシスの真理》とは、精神の銀河宇宙の超越的次元の更に超越的位階に垣間見られる、精神的自覚の「救済原理」なのである。私たち人間は、「救済の証たる光明のうちなる霊」を知るが、「世界の闇の根拠」は「知らない」のである。グノーシスを知らない者には、「悪の原理」が地上の肉と物質であり、グノーシスの救済は、肉と物質を越えた「霊的アイオーン」への魂の帰還(エピストロペー)であると云う「神話」を教えるであろう。しかし「真実」はそうではないのである。肉と物質、「この世の悪」もまた「イデアー的原理」であり、それは精神の超越的階梯において、「人の霊とは何であるか」を定めている何かだとも知るべきであろう。「救済」とは「霊の完全性」の復元だとも言えるならば、そのような「完全性」の実現は、存在する世界のどこにも現在しないと云うべきであろう。

  しかし、それでは《グノーシスの救済》とは、単なる言葉の遊びであり、概念の戯れなのかと云えば、それらは寧ろ、キリスト教や仏教や、様々な宗教の救済教義にこそ妥当するものであると云うべきである。人の魂は救済の可能性=《うちなる光の霊》を持つが、それだからと云って、個々人の実存の苦悩を通じての「現存在的了解」なしに、「救済の了解」が可能であるかと云えば、寧ろ、これこそ疑わしいと云うべきである。そしてすべての宗教的救済教義は、このような錯誤に陥っている。敢えて云えば、グノーシスは肉と物質の「この宇宙」を否定しているのではない。「魂における両性具有」こそがグノーシスの救済の象徴であれば、実は、肉と物質の「形あるサルコプシューケ(Sarkopsykhe)」を媒介にして「グノーシスの救済」は垣間見られるのである。

  《グノーシス》とは「隠された知識」「秘密の知識」「反理性的な神秘主義的知識」ではないのだと述べた。グノーシスの《叡智》に「気づくことない人」にとっては、そう映ずるのかも知れないが、グノーシスの知識は、覚醒であり気づきであり、暗闇のなかの「光明」として燦然と理性とイデアーの光輝で光り燿いているものである。それは、人の魂には「救済の光明の霊」が存在すると云うことを教え、また自覚することを求め、と同時に、人の理性・実存的理解能力では、理解できない「この世の悪と暗黒の根拠」を「イデアー的不可知」として教えるのである。あるいはグノーシスを求める者は、「不可知」であることをまさに知る。存在の宇宙の階梯において「不可知」なるものを、不可知と知ることこそが《グノーシス》である。

  時間と永遠のあいだにいかなる調和があるのか。完全と不完全のあいだでいかなる均衡があるのか。生きてある苦しみはまた、生きてある喜びの源泉でもあり、人は何かであるが故に、「救済」は可能性を持つのであり、《グノーシスの救済》は、死を越えた彼方にあって、静謐の無と至福直観の光の充満(Pleerooma)を約束するであろう。ただひとたびの生と死は、無限回の輪廻にも通じ、苦しみと悲しみは、それを限りなく克服するために、人の魂にあって不滅であろう。人の魂はこうして、イデアー的に、「精神の両性具有」を志向して、《聖なる翼のレートー》が述べたように、「完全にして不完全な超越精神の世界で永遠」であるだろう。我々は、暗黒の銀河にあって、透明な四枚の翼となるであろう。永遠に祝福のあらむことを(Χαιρας Αιονσι)。


− Marie RA. et Noice et Sophia7 −
2004:1012:0744







Hermaphroditos

‘ερμαφροδιτος







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