Détails du Aion Abraxas

アイオーン・アブラクサス詳細説明

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I

  【説明】 : すでに、「用語集」でアウトライン説明を行っているが、 アブラクサス(Abraxas)またはアブラサクス(Abrasax)と云う名は、バシ レイデース派グノーシス主義におけるアルコーン・アイオーンであった。 その名は、バシレイデースまたはその弟子・信徒たちが発明したものである と云われているが、ギリシア語文字数字で、丁度、一年の日数である365 に等しい数が算出されるような名称は、やはり偶然の所産と云うより、意 識的な造語と考えるのが妥当であろう。(ラテン語の abir[雄牛]と axis [極・軸]の合成語であると云う説は、この人工的に造られた言葉と云う 想定を退けるものではない)。
  その姿については、簡単に「用語集」で説明したが、もう少し詳細に は、「アブラクサス石」と通称される、卵型または楕円形の石の表に刻ま れているその像は、頭部が「雄鶏」で、これは「不寝番」を表し、胴体部 分の「人間」は、「ロゴス」即ち、「言語と霊」を表し、「蛇」の形の両 脚は、「用心深さ」を表す。また右手に、「力」を表す「鞭」を持ち、左 手には、「英知」を表す「楯」を持っている。戦車に乗る時、彼は、四頭 の白馬に車を引かせたが、これは、「太陽の力」が宇宙を循環するのをた すける四体の精霊を表しているとされる。

  その名前は、古代ギリシアの「文字数字」において、合計すると365 になるのであるが、アブラクサスの場合、「’αβραξας (abraxas)」で、1に当たる「α(アルパ,a)」が三個あり、2に当たる「β(ベータ,b)」が一個、「ξ(クシー,x)」は60に当たり、「ρ(ロー,r)」が100、そして「σ(シグマ,s)」が200に当たるので、確かに、 3+2+60+100+200=365 となる。(ヒッポリュトスの報告に よるバシレイデースの教説では、名前が「アブラサクス abrasax」 であるが、この場合も、単語を構成している文字は同一なアナグラムである ので、文字数字の合計はやはり365になる)。→〈ギリシア語文字数字〉)。
  これは、アブラクサスがアルコーンとして支配する365の天の数であ るとも、一年の各日を支配するアルコーンが存在し、それぞれが自己の天を 備えており、アブラクサスは、これらの365アルコーンとその支配天を、 更に支配する高次権力アルコーンであるので、365の数字名を備えるのだ と解釈されていた。

  「アブラカダブラ abracadabra」と云う魔術の呪文は、ヘブライ語起源 であるとする説があるが、これはアブラクサスの名前の変形であると云う解 釈も広く流布している。ヘブライ語起源説では、この呪文は、「Abreq ad habra(雷石を投げ、死に至らしめよ)」と云うヘブライ語の言葉の変形で あるとも云われている。(また、キリスト教の「三位一体教義」における、 「父・子・聖霊」を、ヘブライ語で続けて言った時の発音が起源であると云 う説もある)。



II

  アブラクサスは、ヘレニク・グノーシス主義の初期教師であったバシレ イデースの「宇宙論」に付随して提示されたもので、これが魔術や呪術と関 わりを持ったのは、すでに述べたように、ユダヤ神秘主義のカバッラーの体 系に組み込まれた結果であるが、それにしても、「アブラクサス」は、なお 特殊な固有名である。
  この名前は、独特のニュアンスで、日本の青年層のあいだで使用される ことがあり、この場合、「生と死」を支配する、或いは、人間の「生と死」 の循環を管轄する「悪魔的天使」乃至「精霊」のイメージで把握されている ように思える。このようなイメージが存在し、またこの名称が、日本におい て多くの人に知られているのは、云うまでもなく、ドイツの青春ロマン派的 作家ヘルマン・ヘッセ Hermann Hesse の小説『デーミアン Demian』の影響 であろう。
  ヘッセの『デーミアン』は、象徴的手法が用いられ、第一次世界大戦が ドイツの知識人や一般の人々に与えた衝撃が、世界の没落と再生・新生のイ メージと云う形で表現されているとも云える。ヘッセは、この作品で、遠き 東洋の世界・未知の世界・未知の時代を語り、また「母なる原型」を提示し、 「アブラクサス」と云う意味不明な「名」の神についての言及を行っている。 ヘッセが、どこからこの古代グノーシス主義のアルコーンの名を知ったのか、 それについては、相当の蓋然性を持って、ある可能性が成立する。

  スイスの精神科医であり、「ユング心理学」の創始者であるカール・グ スタフ・ユング Carl Gustav Jung の「原型理論」を参照して、ヘッセの 『デーミアン』を読んで見る時、確かに文学的創造と昇華が行われてはいる が、ヘッセのこの作品は、ユングの原型理論乃至その深層心理学的理論構造 の「敷衍小説」と云う感がある。 カール・ユングは「個性化の過程」を提唱したが、この過程において、彼は 無意識に存在する「諸原型」と自我とのあいだの経時的・共時的相対と相互 作用を論じており、ヘッセの『デーミアン』は、カール・ユングの云う「個 性化の過程 Individuation/Selbstwerdungsprozeß(個体化・我化)」に際し起こる神話的心的ドラマを、文字通りなぞってい るとも云えるのである(少なくとも、『デーミアン』の純粋に文学的な要素 のなかにあって、わたしたちにはそう映ずる)。
  「影」としての、或いは「永遠の少年」にして「老賢者」の相貌を持つ ストレンジャー・デーミアンとの関係において、『デーミアン』の主人公シ ンクレールは 無意識的原型の起動体験を受ける。「大いなる母の原型」との出会い、そし て更に大いなる「永遠の原型」の予感において、「アブラクサスの名」が何 か忘却されていた「真実」を喚起するのである。ヘッセの作品では、主人公 は最後には、「宇宙的な孤独感」のなかで、新しい痛みに満ちた歩みを、「こ の世」へと踏み出して行く。「善にして、同時に悪なる《両位》の霊なるア ブラクサス」こそが、「この世」の秘密の真理であるのだと云う示唆におい て。

  ユングの「原型理論」や、またその錬金術研究やゼルプストとしてのキ リスト解釈論(つまり、『アイオーン Aion』でユングが論じた、西欧の 「神」の深層心理的研究)を参照しつつ、『デーミアン』を眺めれば、ヘッ セとユングのあいだに、明確な何かの共通認識があったことは明らかである ように思える。それは、そして偶然的に両者が遠隔的に共時的に同じヴィ ジョン・境位に到達したと云うのとは、少し異なっているであろう。
  ヘッセは、そもそも「アブラクサス」と云う「両位の神」の名を何処で 知ったのだろうか。また、善にして悪なる神、或いは、善でもなく悪でもな く、しかし、同時に善であって悪であると云うような、パラドキシカルな神 霊の概念を何処で得たのであろうか。
  これについては、歴史の証言は、ヘッセが、それらをユングから受け取 ったのだと云う(直接的にせよ間接的にせよ、或いは共時的共鳴にせよ、い ずれにしても、心理の深層の経緯において)明らかな事実を提示する。ヘッ セとカール・ユングのあいだに、当時、ヘッセの末子の神経症治療を通じて、 間接的とはいえ交流があったことは確認されており、ヘッセが、ユングの心 理学理論を知っていたことはまず当然として、のみならず、かの『死者への 七つの語らい』をヘッセが読んでいた可能性が非常に高いのだと云える。



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III

  『死者への七つの語らい Septem Sermones ad Mortuos,1916』は、 カール・ユングが、第一次世界大戦の期間を通じ、その心の奥で求め、尋ね ていた「宇宙の謎」また「人間の謎或いは根元的ディレンマ」についての、 内面的なる魂の探求の所産であるとも云える。この《秘蹟の書》にあって、 カール・グスタフ・ユングの名は、二十世紀いや第二千年期最高の「叡智の 探求者=グノーシスの達人」として、永遠の光を闇の狭間で耀やかせている とも云えるのである。
  ユングは、この短い冊子文書の冒頭を次のように始める :

     死者への七つの語らい(一九一六)
       死者への七つの語らい。東洋が西洋に接する町、アレキサンドリアのバシリデス著。

  ユングは、ここで、ヘレニク・グノーシス主義のマイスターたる、アレ クサンドリアのバシレイデースを自ら称する。「東洋が西洋に接する町アレ クサンドリア」の「バシレイデース」と。
  そして語り始めるのである。死者たちへの「教説」を。

  死者たちは、探し求めたものを見出せず、エルサレムから帰ってきた。 彼らは私の家にはいり、教えを得ることを願った。そこで私は教えを説き始 めた。
  聞け。私はから説き起こそう。充満と等し い。無限の中では、充満は無と同じだ。は空であり充満である。無 について、お前たちは何とでも言うことができる。たとえば、それは白いとか 黒いとか、それは存在しないとか存在するとか。無限にして不滅なるものは、 何らの特性も持たない。つまり、それはすべての特性を持っているからであ る。
  このあるいは充満を、われわれは「プレロマ」 と名付ける。その中で、思考と存在は停止する。不滅にして無限なるも のは、何らの特性を持たないからである。


  お前たちは尋ねる。自分自身を区別しないとどこがいけないのか、と。
  もし、われわれが区別しないと、われわれの本質を超え、クレアツール を超えてしまうことになり、プレロマの他の性質である非区別性の中におち こんでしまうことになる。われわれはプレロマそれ自身の中におちこみ、ク レアツールであることをやめる。われわれはの中に溶け去ってし まう。
  これはクレアツールのである。かくて、われわれは区別しない 程度に応じて死んでいる。従って、クレアツールの自然の志向は区別するこ と、原初的で危険な一様性への戦い、へと向けられる。これは「個性化の 原理」(PRINCIPIUM INDIVIDUATIONIS)と名付けられる。この原理はクレアツールの 本質である。この点から、不明瞭さや、区別しないことが、なぜクレアツー ルにとって大きい危険であるかが解るであろう。
  かくて、われわれはプレロマの特性を区別しなければならない。その特性 は次のような「対立の組」である。
    活動と停止
    充満と空
    生と死
    異と同
    明と暗
    熱さと冷さ
    エネルギーと物質
    時間と空間
    善と悪
    美と醜
    一と多  など
  これらの対立の組はプレロマの特性であり、それは互いに相殺されている 故に存在しないものである。


  すべてプレロマから区別されたものは対立する組である。従って、 には常に悪魔が属している。
  この一体性は、プレロマ自身と同じ程に緊密で、お前たちがいかに経験を 積んでも、その人生においては解き難いものである。これは、両者がプレロマ ――その中ですべての対立は解け一体となっている――に甚だ近接して存在し ているためである。
  悪魔は充実と空虚、生産と破壊によって区別される。 「はたらき」ということは両者に共通である。はたらきは両者を つなぐ。従って、はたらきは両者の上に存在し、の上の である。何故なら、それはその働きによって充満空虚とを一 にするからである。
  これはお前たちの知らないである。人類がそれを忘れ去っていた からである。われわれはそれを、その名に従って「アプラクサス」と名 付けよう。それは悪魔よりもなお不確定なものである。
  をアプラクサスから区別するために、われわれは神を「ヘリオ ス」あるいは太陽の神と名付けよう。
  アプラクサスは作用であり、それに対抗するものは、非現実以外何 ものもない。従って、その効果的な性質はそれ自身を自由にくり広げる。非現実 とは存在しないものであり、抵抗しない。アプラクサス太陽の 上に存在し、悪魔の上にも存在する。それは不可能な可能性であり、は たらきのないはたらきである。もしプレロマが一つの存在であるとするならば、 アプラクサスはその顕われである。

  これらの文章=言明で、ユングは、ヘレニク・グノーシス主義の基本的な用 語である「プレロマ」を使い、また、真の神と偽の神=造物主(デーミウルゴス) の対立を示唆する「神=太陽の神」と「悪魔」の対比を示す。ユングの語る「プ レロマ」は、グノーシス主義の「プレーローマ」概念と云うより、ユダヤ神秘主 義思想の「エイン=エインソフ」の概念にも近い。エインは「原初空虚」であり、 エインソフは「充満空虚」であって、この世界が創造される前に、「無」にあっ て存在した「充満」の形態を表現する「表現し難き根源の世界の様態」で、これ は、プレーローマの原初における「ビュトス(深淵)」と云う把握と対応してい る。また、ユングは、プレロマを「対立の両在」として表現しており、「充満」 と「空虚」をプレロマの根源属性であり、充満と空虚の両在であるが故に、プレ ロマは、人間の認識を超越していることを語る。それは、「対立の両在」従って 「区別」なき「」なのである。

  しかし、ユングがバシレイデース派の神話用語としての「アルコーン・アブ ラクサス」の名を援用して語る「アプラクサス」の概念は、少なくとも、 ヘレニク・グノーシス主義の諸派のシステムにおいては、明示的には存在しなか った概念でありイメージである。これこそは、二十世紀の「グノーシス主義の達 人」カール・ユングの「グノーシス論」の根本概念であるとも云える。
  「アプラクサス」とは何であるのか、それはユング自身の言葉の説明乃至教 説においても矛盾に満ちた、「両位的神霊」乃至「両位的原理」のように見える。 ユングはこれを、「神」と「悪魔」に共通する「はたらき」であり、はたらきと しての「アプラクサス」は神も悪魔も「超えている」と言明している。

  アプラクサスについてユングは、更に不可解とも云える「両義的」言明を、 バシリデスの名において行うのであり、それは、以下に引用する文章から窺える が、これは人間の(或いは生物・すべての存在者の)「無意識」の持つ両義性、 認識や知識を超えた「矛盾両在性」の純粋概念化としての「象徴」なのかも知れ ないとも云える。
  とまれ、「アレクサンドリアのバシレイデース」を名乗るカール・ユングの 「知り難い」アプラクサスについての教説について、今少し耳を傾けてみよう。 (注記 : この引用は、アニエラ・ヤッフェ編『ユング自伝 − 思い出・夢 ・思想 −』原著カール・グスタフ・ユング、河合隼雄・藤縄昭・井出淑子訳、み すず書房刊行1973年の「第二巻」末尾の「付録V」よりの引用です)。

  死者たちは沼から立ちのぼる霧のように近よってきて、叫んだ。その至高 のについてさらに語れ、と。
  アプラクサスは知ることの難しいである。その力は、 人間がそれを認めることができないので、最大である。人は太 陽から最高の善(Summum bonum)を、悪魔からは最低の悪(infimum malum) を経験するが、アプラクサスからはあらゆる点で不確定な「いの ち」、善と悪との母なるものを、経験する。
  いのちは最高の善よりも、より小さく、弱く見える。このため、ア プラクサスがその力において、すべての生命力の輝かしい源泉である太 陽を凌駕すると考えることも難しいのである。
  アプラクサス太陽であると同時に、虚空の永遠の 吸い込み口であり、非難するもの、切断するもの、悪魔でもある。
  アプラクサスの力は二面的である。しかし、お前たちの目には、そ の互いに対向する力が相殺されてしまうので、それらを見ることができない。
  太陽の神の語るところは生であり、
  悪魔の語るところは死である。
  アプラクサスは、しかし、尊敬すべくまた呪わしい言葉を語り、そ れは同時に生であり死である。
  アプラクサスは同一の言葉、同一の行為の中に、真と偽、善と悪、 光と闇を産み出す、従って、アプラクサスは恐るべきである。
  アプラクサスは、一瞬のうちにその餌食を倒す獅子の如く素晴らし い。それは春の日の如く美しい。それはまさに偉大なる牧神[パン]そのものであり、また卑小なものでもある。それはプ リアーポスである。
  それは地下の世界の怪物であり、千の手をもったくらげ、翼のある蛇のと ぐろ、狂気、である。
  それは原初の両性具有[ハーマホロデイト]である。
  それは、水中に住み陸に上がり、真昼にも真夜中にも合唱する蛙や、がま のである。
  それは空虚と結合する満ちたるものである。
  それは聖なる交接である。
  それは愛であり、その殺害者である。
  それは聖者であり、その裏切者である。
  それは昼の最も輝かしい光であり、狂気の最も深い夜である。
  それを見ることは盲を
  それを知ることは病を
  それを崇めることは死を
  それを畏れることは知恵を
  それに抗しないことは救いを意味する
  は太陽の後に住み、悪魔は夜の背後に住む。が 光からもたらしたものを、悪魔は夜の中に引き込む。しかし、アプ ラクサスは世界である。その去来そのものである。太陽の神のす べての恵みに、悪魔はその呪いをなげかける。
  お前たちが、太陽の神に乞い求めるものはすべて、悪魔の 行為をよびおこす。
  お前たちが、太陽の神と共に創り出すものはすべて、悪魔の 働きに力を与える。
  これがまさに恐るべきアプラクサスである。
  アプラクサスは最後のクレアツールであり、その中で、クレアツー ルは己自身を怖れる。



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IV

  ユングが、この「創作神話」或いは架空の「教説書」で何を述べようと しているのか、それはグノーシス主義の人間観・存在観と云うよりも、寧ろ、 人間の深層心理意識の構造原型についてのヴィジョンを詩的に表現したもの だとも云えるが、しかし、「人間の深層意識の構造原型」と云うまさに、そ のものから、グノーシス主義は、その宇宙観・人間論・存在論を汲み出して 来たのだとも云える。そこから、カール・ユングの神話的教説は、深層心理 学の人間学的基盤についての考察の書であると同時に、存在論的・実存論的 旋回の結果として、再び、「現代グノーシス主義」の永遠の課題の表明神話 教説へと帰還(エピストロペー)しているのだとも云える。

  ユングが、この『死者への七つの語らい』において何を表現しようとし たのか、その問いそのものが、「知識・叡智」即ち「グノーシス」への問い となるのだとわたしたちは思惟するのである。
  この神秘的とも云える「アプラクサスの神話」については、多くの人が、 研究を試みており、暗喩や哲学的・神学的形式で語られているユングの思惟 の志向性について、解読が行われている。しかし、ここに記されているユン グの言葉は、詩的であり、同時に神秘主義的であり、透徹した知性の洞察で あると同時に、言語を超えた次元での「存在世界の奥義」の超言語的解明で あり、そして「認識し難きこと」の認識不可能性を教説する「智慧・知識」 の言葉だとも云えるのである。

  これは、「アプラクサス」の存在の教説の現代グノーシスの聖なるロゴ スであり、我々人間がいずこより来たり、いずこに行くのか、哲学的根本命 題であり、かつ、グノーシス主義の「神話課題」である根元的問いについて の、「知ることのできない両位の超神原理」による、カール・ユングを通じ ての「答え」であるともわたしたちには思えるのである。「プレロマ」と対 比される「クレアツール(被造物或いは、この場合、〈存在具現者〉)」の 運命は、いずこにあるのか。カール・ユングのバシレイデースは、次に引用 するような言葉を、教説の書の終わり近くに述べている。しかし、わたした ちは、このユングの「神話釈義」を手がかりとして、「わたしたち自身の両 位霊の神話釈義」を試みねばならないのであり、それが「グノーシスの道」 であると、我々は知るべきであろう。

/*/ 2001:0328:1909 Marie RA. /*/




  測り難いかなた、天頂に唯一つの星がある。これはその人の世界、その プレロマ、その神性である。
  この世では、人がアプラクサスであり、その世界を産み出し、 呑み込む。
  この星は人間のであり、目標である。
  これは彼の導きのであり、
  その中に、人は憩いを求めてゆく。
  それを目ざして、死後の魂は長い旅をゆく、その中に、人間がより大な る世界からもちかえったすべてのものが、光として輝く。
  この唯一のものに人は祈る。




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