続・京女の歴史(大谷光瑞の業績V)
シルクロードにおける大谷探検隊の業績について(H・F氏 論文)
第一章・大谷探検隊の概要
第二回西域調査



はじめに
 古谷三代吉の画いた設計図面、京都高等女学校の設計図、そして伊藤平左衛門の設計図東本願寺御影堂。同じ頃、明治、大正、昭和初期といった時代背景のなかで、西本願寺の法主大谷光瑞もまた偉大な業績を残しています。
近代建築は明治に入って外国の優秀な建築家を我が国に教授として招き、その指導のもとに大学に建築学科が誕生し、優秀な建築家が多数輩出し、其の中には大学に残り教授となり、また或る者は官僚となり其々の役所の中で、又或る者は苦学して後世に残る建築を設計した。
若き建築家たちは、国費にて、或る者はスポンサーを見つけて外国に留学し、諸外国の技術を持ち帰ったのである。そして雇われの外国人建築家をも凌ぐ建築物を多数建築すれのである。
 同じ頃西本願寺(後の法主)大谷光瑞は目を中央亜細亜に向け幻奘三蔵が辿ったシルクロードの探検に大谷探検隊を派遣し自らも中央亜細亜に赴くのである。このページの最大の意義と目的はこれらの明治人の心意気を題材にしロマンと冒険のページを展開していきたいと思います。     管理人

第一章・大谷探検隊の概要(第二回、第三回西域調査)
 第2回西域調査は、日露戦争が終リ、三年経った明治41年6月16日から明治42年10月下旬まで行われた。これに従事したのは、橘 瑞超と野村栄三郎のふたりである。彼らは明治41年6月16日北京を出発し、外蒙古からクーロン、エルデニツォ、ウリヤスタイ、コブトを経て古城子にいたり、同年10月26日ウルムチに到着する。
この地に20日余り滞在し、其の後南下してトルファンに入る。ここで彼らは、ヤールホト、ムルトック、ベゼクリク、カラコージャ、センギム、アギス、トクユなどのトルファン文化圏の諸遺跡の発掘調査を行う。野村栄三郎はこのように日記に書いています。
一部を紹介します。

  ウイグル王女
壁画 66.0×57.0
Uigurian Princesses
ウイグル王子(壁画 62.4×59.5)
9世紀 ペゼクリコ
Uigurian Princes


 11月29日 晴
 人夫30人を率い山腹の洞窟を試掘すること6箇所、殆ど得るところ無く、恰も欧人発掘の跡を掃除せし感ありて遺憾窮まり無し。是を断念して、山腹によじ登り、四方を物色せるに、雨水流注して自ら穴を穿てる痕あり。或いは地に空隙あらんと察し、直ちに発掘せば、一の窟殿を発見し、佛頭二筒、絹地の佛書房、壁の佛書を獲たり。
 11月30日 晴
 人夫26人を雇い、吐魯番街道側の破屋の付近を発掘し、経片三枚と佛頭六筒を得る。・・・・(略)
 12月1日 晴
 人夫五人を伴い47箇所の洞窟に至り、観るに足る壁書七枚を切り持ち、佛体七体を得る。多くの壁書は概ね損傷せり。現地人の言に依れば、発掘した欧人は最良の壁書を持取し、然らざるものは故らに損傷を加え去らんと、・・・このこと真ならば、文明国の学者を以って任ずる欧人が世界の至宝を一人に私せんとする心事は盗賊よりも卑劣なりと謂うべし。
古洞内部の構造は山腹を横に五米乃七八米、書の如く堀抜き、最も小さいものに至りれは二米至三米ものもあり、高さは三米乃至四五米位のものにして、又二米位のものも見受けリ。・・・・洞窟を調査研究した日記はまだまだ続きますが、誌面の都合で割愛させて頂きます。(管理人)

 そして両名は明治41年1月6日トルファンを出発、1月15日にカラシャールに入り
次いでコルラに一週間ほど滞在した後、野村栄三郎は別れてクチャに向い、キシリ、スバシ、クムトラなどを調査し、4月25日クチャを出発キジル、アクスゥ、マラルバシを経由してカシュガルに達した。一方橘 瑞超は2月21日コルラを出発しタリム河沿いに南東下して3月8日ロプ砂漠に至り、そしてチャルクリクに到着し,約1ヶ月の間チャルクリクやローランの調査を行った。しかし、其の詳細は橘 瑞超の日記の火災焼失の為不明である。そしてコータンに向かって出発し、4月24日、チェルチェンに入り、ニアに出、ニアの古住居址を調査し、ケリヤを経てコータンに入った。約2ヶ月の滞在後、橘は6月21日コータンを発し、ヤカルカンドを経て7月7日カシユガルにて再び野村栄三郎と出会う。8月16日京都から電報により、11月インドにて大谷光瑞と再会するように命を受けた。両名はその間を利用し、橘はマラルバシからヤルカンドに、野村はパミール山麓やヤカルカンドに至った。彼は10月2日ヤカルカンドを出発し、カラコルムを越えインドのカシミールに入った。

橘 瑞超(1890〜1968)
 この第二回の調査は輝かしい成果を上げている。有名なものではローランでの「李柏文書」の発見がある。この「李柏文書」については第二章で詳しく触れたい。また本論で中心として取り上げるトルファンにおいても両名は発掘に専念している。橘 瑞超の謂うところによれば、「この辺りは、何処を見ても、殆ど至らざるところがないくらいだった。」と言う。そして残紙、絵画、人形など多くを発掘した。
  1908年から西域探検隊のリーダとして二度にわたる中央亜細亜探検を行った。
ロブ砂漠、敦煌、トルファン発掘、タクラマカン横断など、ヘディン、スタイン、ル・コック
など欧米の大探検家と比肩する唯一日本の探検家だった。


羅漢 絹本著色 29.0×47.5 8〜9世紀 トルファン地方 Angry Arhat
 第三回の西域調査は、明治43年から大正3年にわたり橘 瑞超と吉川小一郎の二人が従事したが、其の行動はほとんど一緒ではなかった。彼らの行動は橘 瑞超の「中亜探検」や吉川小一郎の「支那紀行」に詳しく見ることができ、以下彼らの軌跡を要約すると、第二回の調査が終りイギリスのロンドンに赴いていた橘 瑞超は明治43年8月に出発、ロシアを経由して10月19日ウルムチに達する。ウルムチに約20間滞在した後トルファンに赴き、付近の古址の調査をし12月2日トルファンを出発し、ロプ砂漠を横断、ローランを発掘しアブダルに至った。その後アブダルを出発、チャルクリクからチェルチェンに至り、ここでタクラマカン砂漠横断の準備をする。



2月4日に出発するが、この旅行は生命の危険すらあった、非常に困難なものであったが、無事3月4日クチャに達し、さらにカシュガルに行き、そして5月7日にコータンに入った。彼はここで2ヵ月間滞在し付近の遺跡の調査やアルチン山脈の探検をしている。7月3日コータンを出発しケリヤ川の上流を遡り、チベット高原に入った。そして10月中旬ケリヤに帰還した。その後チェルチェン、チャルクリクを経由し12月24日敦煌に至り、ここで吉川小一郎と出会う。吉川は橘が消息不明になったと中国の辛亥革命による人身不安をきずかって派遣されたのである。両名は明治45年2月6日、敦煌を出発し安西に到着するが、中国内地を通過するのは危険なので西に引き返しトルファン地区で、カラコージャやアスターナなどの古墳群の発掘を1ヶ月近くする。
そして4月10日ウルムチに行き、橘 瑞超のみタルパガタイ、セミパラチンスクを経由しシベリア鉄道で、本国に帰還した。

阿じゃ世王・王妃・行雨大臣
壁画 41.0×72.0 7世紀前半 キジル
Three Half-figures : King Ajatasatru, his Wife and his Minister Varsakara
 一方、吉川小一郎はそのまま新疆にとどまり発掘調査を継続する。5月5日ウルムチを発してトルファンに戻り、再度調査しようとしたが、炎暑により発掘は困難だったので古城子に至り、ジムサ付近、ボグド山中で約50日費やした後、ウルムチを経由して8月末トルファンに帰還する。これから約5ヶ月間古址の研究に従事し、大正2年2月11日トルファンを出発、カラシャールを経て3月5日クチャに達した。ここで約2ヶ月間、付近のクムトラ、スバシなどの遺跡を調査し、そしてバイ、アクスゥを経て7月6日カシュガルを出発、ヤルカンドを経て、8月14日コータンに着く。9月4日コータンダリア川に沿ってタクラマカン横断に出発、10月13日イリに到着。11月2日イリを発し、同20日ウルムチに到着する。大正3年1月5日帰途につき、トルファン、ハミを経て粛省に達し、長城外、ゴビ砂漠からオルドス地帯に進み5月10日張家口に達し、北京を経てようやく日本に帰ったのは大正3年7月10日のことである。これをもって約12年間、前後3回における西域探検調査は事実上終了する。

P,S,
 本論文はトルファンを中心に述べようと思うので、前後3回にわたる探検隊が、トルファンに滞在していた期間を見てみたい。第一回に於いては、明治36年の前半、第二回は、明治41年11月から翌年の1月にかけて、そして第三回は細かく分けられるが、大凡明治45年3月から11月まで、6月下旬から8月の夏期を除く期間、滞在し調査した。又最後の遠征であった第三回の調査は、本論文が中心とするトルファンという観点から見ると大きな成果がある。
 その成果は唐代の美人図や10数体のミイラを発見し持ち帰ったことである。このミイラについては、章をあらためて詳細に触れたい。

第一章 大谷探検隊の概要 完
次回は第二章 トルファンの歴史と風土へつづく

ここに掲載している論文、写真、イラスト画像は個人的にプリントアウトするなどの
場合を除き、著作権法上、権利者に無断で複製、配布、ホームページへの
掲載等は禁じられています。



トップへ
トップへ
戻る
戻る