続・京女の歴史(大谷光瑞の業績U)
シルクロードにおける大谷探検隊の業績について(H・F氏 論文)
第一章・大谷探検隊の概要



はじめに
 まえがきで述べた如く古谷三代吉の描いた図面、京都高等女学校の設計図から、そして伊藤平左衛門の設計による東本願寺御影堂、東西、本願寺に関係ある図面を公開するにあたり少し内容としては飛躍することになりますが,・・西本願寺、法主大谷光瑞は京女を婦人と共に開校しています。京女の歴史を調べて行くうちに、このような展開になりました。
近代建築のページとは少し離れましたが、同じ日本の近代化に於いて時を同じくして列国に混じって学術的に中央アジア、シルクロードを探検した個人の業績です。
 第一章では主に論文と大谷探検隊の辿った軌跡、当時の中央アジアの地図を掲載します。第二章からは門外不出の写真等を多数見ていただきたいと思います。       管理人。

 第一章・大谷探検隊の概要
 西域、或いは中央アジアと呼ばれる土地は、ほんの最近まで未知の地域であった。
張寒や班超、或いは玄奘三蔵やマルコ・ポーロ、これら中世の人々はシルクロードに足跡を残したが、科学調査と云う点においては一般に18世紀に、そして考古学的な注目を集めたのは19世紀中、末期である。
今でこそ我々は詳細な地図を手に入れることが出来るが、当時の地図は其のほとんどが空白地帯であった。カラコルムと崑崙の山系の区別も明確ではなかったしタクラマカン砂漠を流れる川節の方向も不明であった。ゆえに人々は地理学的調査を目的とし、探検を始めたのである。そして次の段階として考古学的調査が行われ、各国の調査隊が西域に派遣されたのである。
其の中に日本の大谷探検隊もいるわけであるが、大谷探検隊の事を語る前にこの時代のシルクロードにおける背景を知るために、他国に派遣した探検調査隊、特に
トルファンを訪れた探検隊に注目してみたい。

オルデンベルグ将来
トルファン・シクシン壁画

ロシアは、1909年から10年にかけて
オルデンベルク(Oldenburg)が率い
る発掘調査団を天山南道北辺のトル
ファン、クチャを中心とする地域に送っ
た。

 ロシアは1898年クレメンツ(Klements)をトルファンに派遣し高昌国の首都を発掘調査した。1909年から1910年にかけてはオールデンベルグ(Auldenberg)が調査している。彼は零細な資料を徹底的に探求し、破損寸前の壁画、彫像類だけを採集した。
あとで述べるドイツの探検隊とは調査方法が大きく異なり、事実壁画を多量に剥奪したドイツ隊を批判している。 


アルベルト・
グリューンウェーデル
  (1856〜1935)


アルベルト・
フォン・ル・コック
  (1860〜1930)
 ドイツは1902から1903年かけて仏教学者グリューンウェーデル(Grunwedel)を主班とする探検隊をトルファンに送り込んだ。又、1904年四月から1905年にかけてル・コック(lecoq)を送りトルファン文化圏で調査させた。発掘は大規模にわたり寺院址の壁画、塑像群、古文書、工芸遺品を多数得た。また、各地の千仏洞の美術史的調査も行った。さらに1905年の末から1907年6月までグリュンウェーデルが、クチャ・トルファン・カラシャールを調査したが、これにはルコックも一時参加している。ドイツの探検隊は、壁画を切り取りヨーロッパに持ち帰った。その技術と成果は良い意味でも悪い意味でも注目された。

 東洋学、シナ学の伝統を持っていたフランスは、1906年ペリオ(pelliot)を中央アジア派遣した。ペリオはドイツ隊とお互いの仕事ぶりを気にしながら、ガシュガルクチャ、
トルファン方面の調査をした。だが彼の成果としては、この調査より敦煌での調査の方が有名である。 
 イギリスは、スタイン(Stain)を送った。彼は1913年から1916年にわたり前後三回の調査をしているが、トルファンに行ったのは、三回目の調査の時である。彼はホータン、チェルチェン、ミータンと南道ぞいの有名な遺跡を次々と発掘し、最後には北道にも回りトルファン方面での考古学調査をしたのである。

 マーク・オーレル・スタイン (1862〜1943) イギリス 

 スウェーデンの地理学者ヘディン(Hedin)の調査研究は、
考古美術品の発掘採集だけでなく、地理、地質、気候、生物などの調査もした。
1927年中国人学者、ドイツ、スウェーデンの学者から成る「西北科学調査団」を組織しエチナ河畔よりヘミ、トルファン、ウルムチに出る調査旅行を行った。彼はこの調査団に、中国考古学者、史学者を加えたことで他の探検隊とは違う意味をもたせた。

 スヴェン・ヘディン (1865〜1952) スウェーデン


 以上に上げたのはトルファンに足跡を残した主要な探検調査隊であるが、西域という広い範囲で見た場合、より多くの様々な国の探検隊が出かけているのである。
又別の意味で19世紀末から中央アジアは注目されていた。ロシアの南下政策、インドに植民地を持つイギリスの動向、又各列強の思惑など政治的な背景があったのである。このような中で我が国も中央アジアに出かけて行くのである。
 西本願寺第22世法主大谷光瑞が、自ら率い派遣したことから大谷探検隊と呼ばれるものがそれである。外国の探検隊が其の探検調査を国家事業として行ったのに対し、大谷探検隊は本派本願寺、いわゆる西本願寺が私財を投じた行ったのである。
この探検調査を企画立案し実行に移したのは、まだ20代の大谷光瑞であり、まだ法主の地位にもなかった。では何故大谷光瑞は中央アジアの調査を行ったのであろうか、其の動機や理由は「西域考古図譜」の序文の中に見出せる。(この序文に就いては長くなりますので、ここでは割愛さして頂きます。)
 大谷光瑞が中央アジアに対する学術的調査を実行する機会をつかむことが出来たのは彼がロンドンに留学していたからであった。
 ヘディン、スタインらの西域での活躍は、ヨーロッパの新聞や雑誌に報道されていたし、ロンドンの王立地理学会は世界中の地理学上の情報マーケットであった。
1900年当時、大谷光瑞と西本願寺の先鋭的な僧侶達はロンドンに留学していた。彼は、その留学の帰途を利用して自分の意志の一端を達したいと思ったのである。
 大谷光瑞はこのように述べています。(明治35年8月、私はたまたまイギリスのロンドンに遊び、日本に帰ろうとした時、ふとこの帰途を利用して私の意思の一端を達すべきであると考えた。そこでついに決心して、自ら西域の聖蹟を歴訪し、別の人を派遣して新彊の内地を訪れさせた。)
このようにして前後三回にわたる西域調査が行われることになったのである。
以下三次にわたる旅程の概要は「西域考古図譜」に修められている大谷光瑞の
「大谷探検隊の概要と業績」を主な参考とした。

 第1回西域調査は大谷光瑞、渡辺哲信、堀 賢雄、本多恵隆、井上弘円の五人で、
明治35年8月15日から明治37年2月27日迄行われた。

 これら第1回探検の軌跡は大谷光瑞の「パミール紀行」や渡辺哲信の「西域旅行日記」「中央亜細亜探検談」に詳しく見ることができる。以下を要約すると明治35年8月15日、ロンドンを出発ロシアを経由して同年9月カスピ海沿岸のバクーに着く。サマルカンド、コーカンドを経てオシュに、テレク嶺を越えてカシュガルに入り、さらにヤルカンドを経て、パミールのいち都会であるタシュガンに至る。この地で一行は二手に別れることになる。ひとつは大谷光瑞、本多恵隆、井上弘円グループでミンタカ峠を越えフンザやキルギットを経てカシュミールに向い、インドに入り各地の仏蹟を歴訪した。
もうひとつのグループである渡辺哲信、堀 賢雄は、大谷光瑞の命でタリム盆地の遺跡調査に向かう。彼らは再びヤルカンドに戻り、天山南路南道をカルガリックからグマを経て明治35年11月にコータンに達する。彼らはここで越冬し、明治36年1月2日コータンを出発し道を北方。すなわち南路北道を行きコータンダリアの流域に沿って進み、アクスゥにそして同年2月20日に再びカルシュガルに戻った。3月5日にカシュガルを出発、南路北道を東にマラルバシ、トムシュク、アクスゥ、バイを通って同年4月23日クチャに到着する。彼らは約三ヶ月滞在し、その周辺のキジル・ベシケラム・ハサタ等の調査と発掘に従事する。特に着目されるのは、まだ各国の調査の手が伸びていなかったキジル千仏洞の調査研究であった。又キジルではトルファンからの帰途についたグリューンウェーデルの一行と出会うことになる。8月11日クチャを出発、コルラを経てトルファンに到着する。トルファン周辺は、南ルクチン・カラコージャの遺跡を2週間程調査し、そしてウルムチ・古城子・ハミを経て甘粛省に入り、西安府に達したのは、明治37年2月29日のことであった。

第1回西域調査。終  第2回西域調査に、つづく

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