続・京女の歴史(大谷光瑞の業績)
シルクロードにおける大谷探検隊の業績について(H.F氏 論文より抜粋)



続・京女の歴史(大谷光瑞の業績U)第一章・大谷探検隊の概要,2003・5・5
続・京女の歴史(大谷光瑞の業績V)第一章・大谷探検隊の概要2003・5・16

まえがき・管理人所見
 管理人は「京女の暦史」のあとがきで述べたことを新たなページとして公開します。其れは大谷光瑞が探検隊を中央アジアに派遣し、シルクロード・西域文化研究に関する貴重な資料を収集した大谷探検隊の軌跡を検証していき、またこのときに持ち帰った資料、特に西洋の探検隊が興味を持たなかったミイラの写真を数体公開していきたいと思います。
このページは管理人にとって「ちょとアンチークな写真展」と同様に異色なページになりますが、しかし古谷三代吉が京都高等女学校の校舎の図面を画いていることもあり、又三代吉の曾孫にあたる学芸員の資格を持つ人物が大学の卒論で大谷光瑞について、論文を書いています関係でこのページを公開する運びと成りました。
 平成十五年は規模は違いますが東西の本願寺御影堂の平成大修復を記念して西本願寺に関係するページを立ち上げることとなりました。
尚大谷探検隊将来品篇としては、将来的には英訳でも公開したく思っています。
東本願寺関連は伊藤平左衛門建築図面としてこのページにて公開しています。

 大谷探検隊が中央アジアで発掘したミイラ数体を我が国に持ち帰り、そのミイラの分析を清野謙次氏は人類学的計測を行いたいと申し出てその研究を許可され、論文を、関東廳(庁)博物館蔵版として大谷氏及び橘氏とともに
昭和五年四月に発表しています
 管理人は平成16年の初めに新しいページとし、大谷氏及び橘氏将来の「中央アジア発掘のミイラに就いて」清野謙次博士の論文を転載する予定です。そこで詳しく述べたいと思います。

(注)京都大学自然人類学研究室が現在管理している縄文人骨標本は、清野教授
により収集されたもので、清野コレクションと呼ばれています。
京都帝国大学清野謙次教授医学博士(1885〜1955)
このページについての、ご投稿、ご意見、ご感想を、お待ちしております。
                                  管理人

 大谷光瑞
 明治9年12月27日〜昭和23年10月5日
西本願寺第23世門主。 九条武子の兄。
宗政の刷新・学事の興隆・人材の養成に尽くした。
明治35年から43年にかけ、三次にわたって大谷探検隊を中央アジアに派遣し、シルクロード・西域文化研究に関する貴重な資料を収集した。
女学校名誉校長籌子夫人が急逝した後、
大正元年12月には甲斐駒蔵に代わり京都高等女学校・京都裁縫女学校設立者となる。

シルクロードにおける大谷探検隊の業績について(H.F氏 論文より抜粋)

はじめに
 19世紀の末から20世紀の初頭において中央アジアは、各国の注目を集めた。
各国の探検隊が挙って西域と呼ばれる地域に足を踏み入れ多くの発掘遺物を発見し
た。その結果西域文化研究が著しい発展を示すことになる。
 当時我が国からも中央アジアに探検調査に向かった人々がいる。
西本願寺の大谷光瑞である。彼は昭和九年に伊東忠太に設計さしたインド・アジャン
タ様式の伽藍を東京の築地に、西本願寺別院として建てた人物でもある。




 彼が組織した大谷探検隊は、明治35年8月から三回にわたり発掘調査旅行を果す。
仏教東果漸のルートであるシルクロードにおける彼らの業績は決して小さなものではない。





 築地の西本願寺別院、これぞ南方趣味の化身。設計者伊東忠太はアジア建築史の権威だった。
 参考資料
  古谷三代吉設計図面の行方パナマ太平洋万国博(1914〜1915)博覧会場の裏門(帝室博物舘前)を入って左右両側に、高さ18メータ程の五基ずつの、よくインドの大伽藍の前にあるような博覧会の旌旗柱(オベリスク)が建てられた。これは東洋建築野権威、伊東忠太博士の得意とする異風の東洋式デザインで、道行く人が仰ぎ視て奇異の感にうたれ絶賛したものであった。
伊東忠太・・明治45年に本願寺伝導院を建てています。

 本論文では、前後三回にわたる大谷探検隊の概要について述べ、ついでミイラが
出土した地であるトルファンを中心に論を展開していき、そしてトルファンを歴史的、
風土的に又トルファンから出土した遺物ついても考察していきたいと思います。


 幸いなことに、私は京都文化博物館で開かれた「旅順博物館所蔵品展」において
旅順に流出していた大谷コレクションの一部を眼にするという貴重な体験をし、又
東京国立博物館の東洋舘で展示されている将来品を見てきました。
このことは、本論文を書くにあたり、おおいに参考になる出来事であった。
この経験を生かし、シルクロードにおける大谷探検隊の業績について言及してみたいと
思います。


ミイラには伴出する人首蛇身神像
 絹地へ彩色せる書。左手には尺度を、右手には鋏を把持す。
周囲の円及線は星宿を象って居る。此書の類品は関東廳(庁)博物館にも収蔵せられて居る。
 (英国人、スタイン氏極央アジア[Iunermost Asia]より転載)

大谷氏及び橘氏将来の
中央アジア発掘のミイラに就いて
緒 言
 永い間大谷家から関東廳(庁)博物館に寄托せられて居た中央アジア発見のミイラ10体は博物館が昭和4年に買い受ける事となった。
そしてミイラに副葬せられたる土偶土器の類を初めとし、中央アジア発掘品の大部分は同時に大谷家から博物館に寄付せらるる事となった。其れに就いては大谷光瑞氏の宏量特志とを特筆せねばならぬが
、此美饗によって大谷光瑞氏将来の中央アジア発見遺物の大部分は
名実共に関東廳博物館の所有に帰したわけである。
 私の知る限りに於いて大谷氏等将来ミイラは旅順博物館に10体と
朝鮮京城博物館に2体ある。此中で旅順蔵品中の1体は小児のミイラであるのを除外すれば、合計11体は成人のミイラであって人類学的計測の好材料である。それで両三年來私は此ミイラの研究を行いたいと希望して居たのであったが、丁度此移管時機に精細なる研究を行い得るの幸福を得た。・・・・・・・・・

H.F氏の論文は
はじめに
第一章 大谷探検隊の概要
第二章 トルファンの歴史と風土
第三章 トルファン出土物
第四章 トルファン出土のミイラについて
おわりに
 この四章から構成されていますが、ここでは前書き(はじめに)、そして後書き(おわりに)を、著作者
の許可を得て転載する運びとなりますた。次回は5月に第一章から連載していきたいと思います。
H.F氏の論文を骨子とし、資料及び写真等は 東京国立博物館図版目録・「大谷探検隊将来品篇」
ILLUSTRATED CATALOGUES OF TOKYO NATIONAL MUSEUM
CENTRAL ASIAN OBJECTS BROUGHT BACK BY THE OTANI MISSION
この中から選んで公開します。ご期待ください。管理人が公開している全ての資料は今後安易に手に入
るものではありません。特に近代建築の分野を研究する若人に見ていただき参考になれば管理人とし
てはホームページを立ち上げた意義があったと思います。

おわりに
 私がここで述べたいのは、大谷探検隊の特徴である。
あの当時各国はシルクロードに探検隊を送り込んだ。当然彼らにも特徴があったが、
其れは調査方法などであった。大谷探検隊は彼らとは根本的に異なる面を持っている
のである。其れは彼らが仏教徒であったということである。言うまでもなく中心人物であ
った大谷光瑞は西本願寺の法主の地位にあった人であり、又探検に従事したのも門
徒であった人々である。
他の探検隊が考古学、人類学、古代言語学的にアプローチしたのに対し、大谷探検隊
は仏教的にアプローチしたのである。大谷光瑞は「西域考古図譜」の序文の中で次の
ように述べている。
 おおよそこの前後三回にわたる探検において、私が其の目的とした所は決して少なくない。
しかも其の最大の眼目は仏教東漸の経路を明らかにし、昔シナの求法僧がインドに赴き遺跡を訪ね、又中央アジアがイスラム教徒の手に落ちた為に仏教のこうむった圧迫の状況を考察するような、仏教史上における諸々の疑問を解こうとするものであった。
 第二に中央アジアに遺存する経論、仏像、仏具等を収集し、もって仏教教義の研究及び考古学上の研究に資料を提供し、もし出来うれば地理学、地質学及び気象学上の種々の疑問もあわせて永解させたいと考えたのである。

 彼らは僧侶であったがゆえに探検を行ったのである。仏教の研究を行う為に。
だが彼らが仏教徒であったがゆえの弊害も多々ある。まず彼らが専門家ではなかっ
たゆえに資料の整理、分類、そして出土場所が曖昧であったり、全く記録されていなか
ったりするのである。これでは資料としての価値は下がってしまい、又持ち帰った資料
を研究する上でどうしても偏りがちになってしまう。美術考古資料よりも文敵、古文書、
すなわち経典類のほうへ研究のウェイトが置かれてしまうのである。
「東京国立博物館図版目録・大谷探検隊将来品篇」によると日本に到着した発掘品
は、京都大学の松本文三郎・狩野直喜・桑原隲蔵・小川啄治・内藤虎次郎・榊亮三郎・
富岡謙蔵・浜田耕作・羽田享、それに東大教授で京大講師であった滝精一らによって
調査研究されたが、考古美術史的関係は、浜田耕作、滝精一の二人にすぎない。また
大谷光端は、全ての資料を研究機関に預けるようなことをせず、多くのものを手元に置
いたのである。このことが、コレクション離散を招く一因となるのである。
 しかし、悪いことばかりではない。仏教徒であったがゆえに、ミイラは持ち帰られたの
である。仏教徒であった彼らは、死者に対して特別な想いがある。それがミイラと言う
形をしていてもである。
諸外国の探検隊はミイラを軽視したのに対し、大谷探検隊は敬虔な気持ちでミイラに
接し、扱い、持ち帰ったのである。大谷探検隊だけがシルクロードよりミイラを持ち帰っ
た事は、非常に意味があることである。
 「西域文化研究」第二巻で小笠原宣秀氏が、吉川小一郎より聞いた事として次のよう
な記述がある。「墳墓を掘るという點については手に數珠を握り、小經を讀誦して冥
を祈るを念頭に置いた」このように死者に対しての冥b祈る気持ちが、彼らの探検隊
としての特色、すなわち仏教徒であることを示している。
私が出土品の中からミイラを、第四章で取り上げたのはこのためである。彼らは仏教徒
であったからこそ仏教東漸の道であるシルクロードを目指したのであり、前後三回にも
わたって探検調査したのである。あの当時日本は国家としては探検隊を派遣していな
いのである。又日本に於いて他の探検隊は組織されなかったのである。
 大谷探検隊はシルクロードで活躍し、決して少なくない資料を発掘調査した。
其の発掘品により日本でシルクロード研究がなされたのであり、現在でもされているの
である。
 第三章で述べますが、今日多くの将来品は外国に離散しました。しかし幸いにも日本
に残っているものは、東京国立博物館で実際に目にすることが出来る。それに、何処
に保管されているにせよ、世界的な視野で見て、又研究という観点で見れば、大谷探
検隊の業績は非常に意味がある事である。
つづく。(次回は第一章より。)

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