古谷三代吉の設計図面と資料解析(その弐)
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古谷三代吉が武田五一博士に播州御嶽山清水寺の本坊及び表門の図面を依頼されて描いた根拠とは・・・・!!。三代吉は退職する大正元年まで、京都市の営繕課の技師を務め、特に寺院、和風建築を得意とし、又明治末期に京都市の市電の開通に際して、用地課で区画整理に係わっています。
清水寺は其の頃、大火で全山が数回にわたり焼失し、その再建を武田博士に依頼しました。
武田博士は其の頃、京都大学に招かれて、京都に邸宅を構えていた関係で、京都市の営繕課の技師であった三代吉と何らかの接点があったと思います。
大正五年9月に三代吉が亡くなってからは、京都府の営繕課の技師である岩崎平太郎が寺院及び和風建築の設計を、武田五一博士より、依頼されたと聞いています。御嶽山清水寺の再建書によれば、一期、二期、三期工事にうち、本坊、表門は大正六年に完成したとあります。
もっと重要なことは、三代吉は大正元年には京都市を退職し多額の退職金を得、其の後古谷工務所という看板を掲げて独立した。
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