大谷光瑞の業績・第二章
第二章・トルファンの歴史と風土
シルクロードにおける大谷探検隊の業績について(H.F氏 論文より抜粋)





 トルファン東南方にあるホッチョ(高昌故城、イディクト・シャーリ)・・西南から見た遺跡

 この章では、本論文が中心として取り上げるトルファンの歴史と風土を考察したい。
 中国、天山山脈の東部南麓にあるトルファン地方は、紀元前2世紀初めて前漢に知られた。その頃、この盆地は車師の一部として車師前国(車師前部)といわれ、交河城、現在のヤールホト遺跡を都としていた。
当時すでに、この国は中央アジア有数の交通の要地でありタリム盆地の国々と密接に結ばれていた。又東方のクムルや北方のボグド、オラ連山を越える山道によって天山北方の遊牧勢力とも深い関係を持っていた。
このことが、中国諸王朝の西方進出にとって、この地方が重要な意味を持ち、遊牧勢力との争いの場になるのである。
 前漢は、匈奴の前線基地であった車師前国から、要約兵を退けた。「「漢書」」西域伝に「其後置戉己校尉屯田、居車師故地」とあるように、高昌壁、現在のカラコージャに屯田を営み、戉乙校尉を置いて統治した。
又三世紀以来中国本土の動乱をさけ多くの流民がトルファンへ移入し、四世紀には一大勢力を形成するように至った。この漢人集団は、前涼国に属した。晋代の336年、前涼の張駿は初めて高昌城を高昌群として建地した。
この時代に、本論文に非常に関連する一つの事件がある。高昌群太守としてトルファンに駐在した超真は、張駿の命に従わなかった。そこで張駿は、将軍李柏を西域長史として出兵さした。しかし此れは李柏の敗北に終、ついに張駿みずから出征してトルファンを制した。このとき将軍李柏が超真を撃とうとして、ロプ湖まで軍を進めた時、カラシャールの王に書いた手紙が或る。
これは5月7日の日付をもった短いもので漢代とは違う新しい楷書風の書体で、紙に書かれている。当時の墨書を知る上でも貴重な資料である。
この手紙の草稿二葉は、大谷探検隊の第二回調査で、橘瑞超によってロプ湖畔で発見されるのである。後に、この手紙は「李柏文書」として有名になり現在龍谷大学に蔵され重要文化財に指定されている。この「李柏文書」については、西域文化研究会が発行した「西域文化研究第五」詳しく記されている。・・・・・・・・少し省略します。(管理人)

 トルファンから東北に約40キロ離れたベゼクリクは、「絵の或る所・美しく飾られたところ」を意味しセンギムの渓谷に合流する河西岸に57をこえる石窟寺院が残る。開鑿はおそらく7世紀頃にさかのぼり、ウイグル族によって9〜10世紀にかけて造営が続けられたものと思われる。

 仏教東漸の道筋にあたるトルファンは、やはり仏教と密接な関りを持っている。「魏書」高昌伝に{俗事二天神、ゾクテンジンニツカエ・兼信佛法、カネテブツポウオシラズ}とあり「明史」西域伝に{僧寺多於民居、ソウジオオクタミスマウ}とあるように、トルファンの人々は仏教を信仰していた。「解説西域伝」によると、太祖の貞観四年(630年)玄奘は高昌に至り国王 文泰の優待を受け、仏法を説き国民は仏法に帰依した。彼は帰国後「大唐西域記を著わすが、640年に高昌は滅んでいったので、この地を「高昌故地」と草している。

トルファン「高昌故城」  管理人・作画 2003・6・4

 次にトルファンの地理的な位置とその自然風土のあらましについて述べたい。アジア中央部にあるタクラマカン砂漠、それをすっぽり包み込んだタリム盆地、その東北の緑辺部に小さく独立した小盆地、それがトルファン盆地である。


 天山山脈の続きであるボクドオラと天山から分岐したクルック、タグに囲まれた地域である。南北約60キロ、東西約120キロの長円形の低地で、内側にすりばち状の砂漠を含み、盆地の最低点にあるアイデン・グル湖を有する。この湖は海面下約300mにある。この湖を見ても分るように、この盆地は他に例を見ないほどの低地である。緯度だけから見れば、トルファンは北海道と同じであるがユーラシア大陸でも内陸部に位置するため、海洋の影響を殆ど受けない。さらに先に述べたように天山の山なみから張り出してきた無数の屋根や丘陵に囲まれ、海面下の低地の為、極端に乾燥した内陸性の盆地気候に支配されている。冬は寒気が厳しく、夏は摂氏40度以上になり、一日の昼夜の温度差が非常に大きい。又盆地の内と外の温度差、気圧差が非常に強い風を風を生む。これだけを見ていると人が生活する上で不便な土地柄に見えるが、トルファン盆地には人が営んでいくに必要な、そして十分は天の恵みがある。天山から豊な雪解けの水が、小河川や伏流水として盆地に流れ込むのである。さらにこの地は「舊唐書」西域伝に「厥土良沃」
ソノツチリョウヨクとあるように古くから肥沃な土壌を持っている。黄土層に酷似した土壌の推積が広くトルファン盆地一帯を覆っているのである。以上のような自然風土については橘 瑞超の{中亜探検}のなかの「地学上より見たるトルファン」という項目に詳しく述べられている。渡辺誓信の{中央亜細亜探検談}によると、トルファン・オアシスの大半はカレーズと呼ばれるシルクロード特有の灌漑法によって潤されている。中国風には、「坎児井」(カルアンチン)と呼ばれている導水の技術は、雨や雪解けの水が地面に浸透して地下水になったものを利用する方法である。その詳細は、山裾に近い扇状地頂部に元井戸を掘り、そこから次々と下手へ向かって井戸を掘り、それを地下水道で結んで遠くまで導き最後に地表に出し、集落の飲料水や耕地の灌漑に役立てる。普通カレーズは全長数キロから2、30キロにも及ぶ。この水は地下水を通ってくるので塩分を含まず、途中で蒸発して水量が減ることもない。カレーズはイランから伝わったと云われている。
 このカレーズによる水、気温の高さ、肥沃な土地、これによって麦などの穀物は年に二度収穫さえ可能であり、桃、杏、栗といった果樹も盛んに栽培されており、養蚕も行われ、葡萄酒も造られていた。これらの事は{舊唐書}西戎伝に「厥土良沃ソノツチリョウヨク、穀麥歳再熱コクパクトクニフタタビネッシ、有蒲萄酒
ブドウシアリ、宣五果ゴカヨウシテ、有草名白疊、ハクジョウトイウナノクサスラ、國人採其花コクジンソノハナヲトリ、織以為布オリテモッテヌノトナス」と或る。トルファンはシルクロードのオアシスとして大いに栄えていったのである。

第二章 トルファンの歴史と風土 完
次回は第三章トルファンの出土物へ つづく
(第三章では貴重な蒐集品を多数公開する予定です。)

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