一覧へ戻る ちよだ No.2 昭和55年1月1日(1980)発行
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11月3日 千葉サンスポマラソン 橋本徒歩
 一般15キロ  一般15キロ
 石井 由治 0:47:10  桜井 守 1:15:27
 前島 幸雄 0:52:38  大金 多助 1:19:53
 川島 聴一 0:55:37  菊原 敏明 1:21:45
 河野 正雄 0:56:53  今村 有禧 1:23:03
 種田 一登 1:00:56  石橋 重徳 1:23:43
 林田 益幸 1:03:04  奥野 精一 1:24:06
 野村 賀啓 1:04:11  40才代 10キロ
 高石 真太郎 1:05:24  菊田 鶴次郎 0:49:51
 山田 耕二 1:05:28  50才代 10キロ
 大川原 圭佐 1:06:18  児玉 久 0:58:15
 原田 晶雄 1:07:45  60才以上 5キロ
 林田 文明 1:08:31  下島 一郎
0:25:32
 長渕 圭司 1:09:59  柏木 良之助 0:32:02
 新田 英雄 1:13:47  ラッキー賞  石橋 重徳

素晴らしき思い出(2) 西村 政男
 民家に入り込んでご飯をご馳走になった神君は1時間ほど横になって疲れを休めた後、バスで弘前市内に入ると、落伍者収容のバスが来たので乗りかえて帰って来た。という全く呑気な話で、今でも当時の選手仲間では語り草となっている。
 優勝は3年連続、新城の佐藤繁太郎で所要タイム2時間46分33秒は前回の3時間7分50秒をはるかに上廻っており、完走者も前回は53名中の21名で半数にも達していなかったのに較べ、今回は87名中の58名で70%弱という好成績、新聞は大成功を収めた岩木山参拝マラソン大会を称賛していた。
 この大会は私が走り初めてから3月日で第1回は青年団の地区対抗のロードレースで、5つの地区から6名宛選手を出すのだが、私の地区には5名しかいなかったので、途中で止めてもよいから是非私に出てくれというので、出ることにしたが出る以上は、と私は夕方人目につかぬよう岩木山の土手を八百米ほどをユックリと二度三度走って練習した。
 そして1週間後1万米のロードレースに出たが、初めの五百米は一生懸命に走った積もりもビリであった。しかし三千米あたりから調子が出て、折り返し点では3位を走っていた。七千米では2位となり、先頭との差は百米余りとせまっていたが、練習不足のせいで、遂に力つき、八千米でダウン、ゴールまで歩くという仕末であった。
 だが、その時私は考えた。奴らは5年も前から走っているベテラン揃いだ。それで、この程度なら、毎日練習して鼻を明かしてやろうと。そして明くる日からは雨が降ろうが風が吹こうが、5キロから10キロを欠かさずに走り続けた。その結果2ヶ月後の町内対抗陸上大会では並みいる先輩をおさえてアッサリと優勝した。そうなると、こんどは絶対負けられないという気持ちになり、毎日走ることにした。
 おりもおり、1週間後の岩木山登山参拝マラソンに4人で行こうと、友達が誘いに来た。私は42キロなど走れるはずがないから断ったが、友達はマァマァといって私のぶんまで申し込んでしまった。今になって思えばアレから34年後の今日でも、こうして毎日の重労働に耐えて、若い者と一緒に働いていられるのも、あのとき「根性、忍耐、精神力」が育成されたのであろう。
 若いとき、毎日毎日の苦しい練習に耐えて走ったことに較べれば、何糞という気持ちが今でも強く働く。東京に出て17年、初めの14年は仕事、仕事で、また子供も小さく、金の一番かかるときであり、ヒマもなかったが、最近急に健康マラソンなるものが流行し、猫も杓子も走るようになった。
 根が好きで、むかし走った身体、目の前をモタモタと走っている人を見るたびに、ついムラムラとしてきて、2年ほど前から毎週日曜日に走ることを心がけている。毎日仕事が終わるとビールの3本も呑んでいるくせに、日曜になると自分の年も忘れて清麿公園に足が向く、そして1秒でも早く皇居のまわりを走ってやろうと頑張っている。
 健康なんてものではないのに自己満足している。世の中には色々な人がいるけれど、それでよいのではないか。このたび昔のことを書かせて頂き有り難うございます。千代田走友会の皆さま、今後ともよろしくお願い致します。 (おわり)

箱根駅伝出場当時の思い出 前号のつづき 堂山 和一
 山下記念マラソンは山下勝選手が後年、当時一万米の雄村社講平選手を敗り、藤沢市の英雄となり、彼が大東亜戦争で戦死されたので、彼の霊を弔い、且つ彼の業績を称える意味でこのマラソンがあると思う。したがって、当日は専修大学の全選手が出場して今でも走っていると思う。これは私の想像であるが。
 この大会(東京府中学校陸上競技大会)出場で、立教大学に入らないかという勧誘を受けることになった。当時の立教は箱根駅伝参加出場3回か4回であったと思う。選手の強化をはかっている時で、私のほか6名の新人選手が入学した年であった。前記の如く、日米大会の感激と、青地選手に対する憧れは私を立教大学に走らせた。それは青地選手のベルリンオリンピック参加の年で、9月に帰国、10月までは一緒に走るというか、ご指導を受けることは出来なかった。
 私たちは9月から箱根駅伝に備えて練習を初めていた。当時立教の野球部は東長崎に立派なグラウンドがあったが、陸上競技部にはグラウンドがなく、毎日ジプシーのように、目白の学習院、滝野川の高等蚕糸、神宮競技場などを転々と歩いた。マネージャーの仕事は大変であったと思う。
 暑い8月の滝野川の練習は相当こたえた。毎日毎日400米や200米のダッシュ。なかかな長い距離は走らせて貰えない。ただ若さがムショウに走る。走っている時は上級生も下級生もない。遠慮もない。気を抜けばメガホンで怒鳴られる。電車に乗って滝野川から東中野の家に帰ると、日はトップリと暮れています。8時頃だったと思う。はうようにして家の玄関を上る。風呂より先づ姉の心づくしのホーレン草の料理。これはパクついたのは私の身体が実に野菜を要求した。3−4人分は食べた。
 9月に入り、いよいよ本格的なグラウンド練習。10月はトラック競技のシーズンで、上級生には全日本選手権があるので、吾々の練習には参加できない。当時立教には青地、森尾、金塚の各選手が全日本選手権を狙っていた。現在とちがい、当時は実業団の選手はいなかったので、優勝を狙う選手はすべて学生であった。
 駅伝の練習というものは不思議なもので、当時の花形選手よりも、最上級生のいわゆる縁の下の力持ちというか、試合には出られない、駅伝の虫というような先輩がリーダーとなって走る。学校裏の天徳湯という風呂屋の前が出発点で、番台に風呂屋の娘で実に美しい人が上がる。吾々立教の駅伝選手が目当であったが奥さんのまた美人で、吾々には非常に親切にして呉れた。
 私たちが最下級生で上級生がゴールするまで先にゴールしていても待っている。そして上級生の三助をやるのを気の毒に思っていたかも知れない。その娘さんをはり合ったのも、この位が下級生の楽しみ、下積下級生の一つの救いであったように思う。誰よりも早く娘さんに言葉をかけてもらい度いために、授業が終わると急いで教室を出て一目散に天徳湯に飛び込むと、もう先陣がいる。おそいはずの先輩が声色を使う。流行歌を歌う。実に楽しい練習後のひと時である。これからの引き立役は皆試合に出られない先輩たちである。後年の私の社会生活において、また良き教訓となっているとつくづく思う。
 統率者の大切なこと、後年の私の人生観というものを植えつけて呉れた貴重な毎日であった。ロード練習のコースは目白通り学習院前から、日本女子大、護国寺、大塚仲町、飛鳥山が主なコースである。途中、学習院、日本女子大、川村女学院などの女子学生が多く通る。立教のユニフォームが走る。早稲田のエビ茶のユニフォームが走る。黒に桐の文理大(後の教育大、今の筑波大)、拓殖大などの練習コースである。互いに牽制し合う。自然にピッチがあがる。
目白通りの練習は毎週必ずあった。疲れが出る頃、上級生がスケジュールを立てるらしい。別の練習コースは無味乾燥、江古田から豊島園の先の中村橋までの往復10哩(まいる)。ここは昔東京唯一の10哩の公認コース。当時フルマラソンは神宮、六郷橋間が公認コースで、このコースを走る時は公認記録がとられ、この記録の集積が箱根駅伝に通じる。20名近くの若者の競走だ。上級生も下級生もない。みな敵だ。ウンウンいい乍ら走る者、チョット並ぶと直ぐスパートする者、上級生は無論であるが、また同級生の新人同士の競争も大変だ。攻玉社出身の栗山、明治学院出の大山、青山学院出の小倉、朝鮮京城の普成専門出の金など強豪の同級生が揃っていた。翌年の駅伝に新入一年生が4名も出場出来たのも、これらの刺激の賜であったと思う。名もない中学校出の私が新人ながら出場できたのは幸運であった。
当時、長距離中央線グループとして、青地御大の吉祥寺、副将の森尾選手の阿佐ヶ谷(当時800米の名選手、片やオリンピックの日本代表《800米1分54秒》片や日満対抗の日本代表《800米1分57秒》池貝鉄工所の営業部長をやった羽木先輩、マネージャー格で7区を走った岡先輩。当時中野、国分寺に住み、練習の帰途たまに一緒になると、新宿で下車して、伊勢丹前の帝都座の地下にあったモナミというビヤホールで、先輩たちによくご馳走になったものである。
銀座に出て若松、立田野などのしるこ屋を歩き、話は駅伝の話だけであった。これから先輩たちの経験談を聞き、良い参考になったと思う。自分の努力もあったが先輩方の推選もあり晴れて一月の箱根駅伝に新人選手として第4区平塚小田原間に出場する事ができた。(以下次号)
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