一覧へ戻る ちよだ No.2 昭和55年1月1日(1980)発行
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馬羅屯歳時記 橋本 徒歩
 しぐれつつ 女子マラソンの白手巾
 歩幅伸ぶ 風の山茶花 こぼる道
 底厚き マラソンシューズ 寒に入る
 起重機の濠の倒影 冬かすみ
 ヘリ横とび 走者なだるる 梅日和
 わが影も 孤独の走者 渓(たに)の梅
 梅満開 異国語 われのあとさきに
 婆や子等 叱咤(しった)がうれし 梅の里
 梅の街道 杉の丸太と 落伍者
 残雪の 嶺ようやくに 復路かな

短歌五首 いづみ
 十年(ととせ)あまり馴滲める湯の宿ほど遠く 妻の手をひき山坂を登る
 奥鬼怒の加仁湯(かにゆ)の宿は秋深く 川原の風呂に湯気のみぞ立つ
 野天風呂に近き梢(こずえ)の頂きに 猿一つ来て葡萄の実を喰(は)む
 湯の宿のいろりかこみて今宵また 見知らぬ人と雑談に耽(ふ)ける

日本一高き湿原 鬼怒沼も 秋深かければ 木道きよし 奥鬼怒の温泉郷は鬼怒川の源流近く、鬼怒川温泉よりバスで二時間余りの女夫渕温泉から更に、川沿いに歩いて一時間半の山奥にあります。宿は他に八丁湯、日光沢温泉、手白沢温泉があり、いづれも歩いて十分、二十分、三十分と飛び飛びに四軒あります。加仁湯はその中心地点にあって、ベランダ、便所洗面所付きの特別室が数室あり、設備は良く、内湯のほか露天風呂二つあります。ぜん息に特効があり、風邪も引かなくなり、神経痛にもよいと言われています。

地名の由来とその略史 池畑 泉
3.竹橋
 皇居東御苑北の丸公園と千代田区一ツ橋一丁目を結ぶ橋で、創建は天正年間(1573−92)といわれているから、豊臣秀吉(1538−98)が後北条氏を滅ぼし、徳川家康(1542−1616)に関東の地を与えたので、家康が江戸を本拠地と定めて入府し、当時は石垣一つない土塁だけの見すぼらしい江戸城の拡張大改築を初めた後に架橋されたものと思われる。
 大江戸城の完成は寛永年間(1624−42)で、幕府は元和6年(1620)東北地方の大名に命じて、竹橋の内側に枡形(城門を前後二重に設けて、その間の四角な平地の周囲に石垣を造り、出陣のとき軍勢が集まる所。またここで表門を打ち破った敵を迎えうつ)門を造らせ、竹橋御門と称した。内郭(くるわ)門の一つである。それまでは橋の名を在竹橋と呼んだが、在の字をはぶいて竹橋とした。門の別名に簀の子門、御内方通行門がある。
 家康の孫娘で、芝居やさまざまの俗説で有名な千姫(1597−1666)が再婚した桑名城主本多忠刻(ただとき)が若死したので仏門に入り、天樹院と称して晩年を送った吉田御殿は竹橋門内にあった。
 明治維新後江戸城内に皇居がうつされると、その警護のため北の丸に近衛兵の屯所を置き竹橋御門を正門とした。昭和11年に起こった軍隊の反乱二二六事件はすでに半世紀近くの昔となっているが、不思議な暗合というが、百年ほど前の明治11年に一部の近衛兵160名が反乱を起こしている。竹橋騒動である。その動機は前年の西南戦争の論功行賞のおくれと、給料の減額に対する不満の爆発で、反乱は即日鎮圧され、主だった者53名が死刑に処せられた。正規軍の最初の反乱である。
4.清水濠、清水門橋、清水門
 竹橋から北西の濠を清水濠といい、清水門橋の下で牛ヶ渕とつながっている。清水の名は昔清水寺という寺があったからという説があるが寺の名前もきよみずでないところから考えると、しみずの涌く寺として名付けられたらしい。
 清水門は北の丸の郭門(くるわもん)の一つで(郭とは城や砦のまわりに築いた土や石のかこいをいう)竹橋門と同じ年に造られ、清水門橋はもと清水門土橋といったが、今は木橋である。九代目の将軍家重(1711−62)の次男重好が成人して清水門内に邸を賜り清水家をおこした。徳川三郷(きょう)の一つである。
 明治37年(1904)日露戦争の開戦以来兵員の輸送船常陸丸がロシア兵隊に撃沈され、乗務員と共に全員悲愴な戦死をとげたのは近衛師団の一部隊で、清水門から戦地に向かっていたのである。それ以来、この門はあかずの門とされた。
5.千鳥が淵、北の丸
 田安門(九段坂上から北の丸へ入るところの郭門)から半蔵門までの内濠で、現在は竹橋から英国大使館敷地北部へ向かう道路で分断され、半蔵濠と呼ばれているから、千鳥が飛んでいる姿と形が似ているとして付けられた名前であるが、片方の翼を切り離された形となっている。
 丸とは中世、近世の城郭で本丸、二の丸、三の丸など城を構成する部分の名称で、江戸城には西の丸、北の丸を合わせ、五つの丸があった。北の丸は江戸城の内濠の中で北方に突出しており、幕府の後期には田安、清水の両家の屋敷があり明治維新後第二次世界大戦の終了までは近衛兵の屯所が置かれていた。
 昭和44年(1969)今上天皇の還暦を記念して、北の丸公園として一般に開放されて今日に至っている。(北の丸には将軍の正妻が居住する家を意味することもある)

第一回東京国際女子マラソン マンネリ社会にさわやかな新風
 去る11月18日世界で初めて公認された女子マラソンが東京オリンピック以来15年ぶりに小雨降る都心を舞台に、30万の応援の中、華々しく繰りひろげられた。
 多くの男女問わず、いろんな層に新しい話題を提供した。この大会について会員の方々に感想をうかがって見ました。わが走友会の面々、どのようにこの大会をとらえているのか。

○ ママさんでありながらあれだけの記録に驚いた 西村
○ すごい、速いだけ記録に驚いた。 渡辺
○ 女性はすごい、見直した、ゴールのスタミナ 松本
○ 女性だって男性に負けない、特に男に比べ高年令の中でやれること 藤田
○ 毎日の練習、コーチの素晴らしさ、私も走れる限り走りたい 茂木
○ 思ったより日本選手の記録が良かった、
      あの年であれだけ走れたということに感心した
島田
○ 赤坂見附の坂を最後まで変わらずに走れたこと
○ 主婦の人が多いのにびっくりした 曽我
○ スポーツに限らず国民に与えた影響は大きい、私もやれるということ 榎本
○ ねばりと走る姿に迫力があった 中村
○ ネバリとマイペース、フォームが良い 田中
○ 交通規制の素晴らしさ、青梅来年マラソンの東京版をやってもらいたい 菊原
○ 東京のどまん中で走れる女性が羨ましい 橋本
○ 若い人じゃなくて良かった、希望がもてる
      男女とわず練習の準備期間の過程と精神力、男女なし
高畑
○ 驚いた、日本と外国選手のちがいは、
      日本選手の場合楽しむマラソンから初めたからだろう
佐竹
○ 観衆、警備、交通事情、よく協力してくれた、これからも続けられよう 会長

 いろんな意見がでて楽しいですね。女性の素晴らしさを、あらためて見直すと同時に、みんなで参加したいものです。
 ぜひ東京の都心で誰でも参加できる大会を行いたいものです。男女の世界にあぐらをかいて甘えていたのに、いいわけができなくなった男達、女達。                     ×生
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