山のエッセイ3005  up-date 2001.03.13 山エッセイ目次へ

登山の効用
14年ほど前、登山を始めたのは癌との姿を変えた闘いという、大きな気負いがありましたが、「山登り、山歩きの効用」などということはあまり考えたことはありませんでした。
思いつきで言えば健康作りというようなものが、一番の効用として頭に浮かびます。
小さな山でも、山歩きとなれば休憩は挟みますが、2時間や3時間は歩きつづけます。体によいスポーツはたくさんありますが、3時間とか5時間とかいう長い時間、持続して体を動かしつづけるというものは少ないです。一般的なスポーツの中ではマラソンくらいのものかもしれません。
それだけ考えても健康への効用が大きいと言えます。

ここでは、山歩きを「非日常性」という観点から見てみたいと思います。
登山という非日常行為が結果として、ストレス解消に役立っているということです。
日常の生活リズムから離れて、汗を流し、きれいな景色を眺め、おいしい空気を吸い、ほどよい疲労感が日常生活で蓄積されたストレスを解消させてくれます。
一つの山を登り終わったあとの満ち足りた気分は何とも言えないものです。
ときには自分が生まれ変わったような新鮮さを感じ取ることがあります。トゲトゲしていた気持ちが凪いでいるのに気づくこともあります。精神衛生的に大変大きな効用があるようです。

つまりそれは「非日常」であるからです。旅行、コンサート、外食・・・・何でもいいのですが、日常繰り返されているサイクルから、一時離れることでストレスを解消する。非日常的行為をするのはそういうことだと思うのです。

先夜、テレビドラマでの話。 医師と看護婦の不倫のきっかけは、死が日常となっている病院にいると、頭がおかしくなってしまう。そうした日常から逃れたい。そんな風な会話が出て来ました。
我々には死というものは、日常をはるかにかけ離れた大事件です。日常というものは、その人ごとに違ってくるもののようです。

さて登山ですが、毎週のように登山を続けていると、いつのまにか非日常的という感覚とは違っているのに気づきます。
登山のプランを作る。持ち物の準備をしたり、昼食には何を作って持っていこうか、何を着て行こうか、そんな準備の楽しみも大きいわけです。
ところが山行頻度があまり高いと、持ち物も、昼食の準備も、何もかもがパターン化していて、あらためて考える余地がありません。持ちものもいつも整理されていて、日帰りなら思い立って10分もあれば準備か整います。登山用の靴は年から年中自動車の中です。
出かける前から、目的の山のおおよその見当がつきます。
つまり登山はすでに日常そのものとなってしまっているわけです。
こうなると非日常性をもってストレスを解消するとか、気分転換とかいう効用は大幅に減衰することになります。

今の私がそうです。登山は日常的行為に近いのです。極論すれば日常生活の一部です。
ですから1ヶ月近くも山へ登らないでいると、なんだか仕事をさぽっているような後ろめたさを感じます。山へ追いたてられているようなプレッシャーさえ感じることがあります。登山が日常化したために、せっかくの趣味がストレスにもなり兼ねないのです。 趣味にはまりこんでいる人なら、こんな気持ちは少し理解してもらえるかもしれません。

効用というものはあとから付いてくるもので、最初からそれを狙って山へ登る人は少ないでしょう。要するに楽しいから登るわけです。それで十分なのです。

私について言えば、「非日常性による効用」という効き目が少なくなっているかもしれません。しかし他に私を山へ向かわせるファクターはいっぱいあります。ときには惰性もありますが、まだまだ当分は山へはまり込んでいると思います。
(理屈っぽい話ですみません)