山のエッセイ3008 up-date 2001.04.11 山エッセイ目次へ
あのころ既に“夏の思い出”という歌があった。
尾瀬ケ原は、歌詩にあるように、東京からも「遥かな尾瀬」だった。 尾瀬の代名詞ミズバショウは、尾瀬ケ原以外にもたくさんあるのに、私は尾瀬にしかないものと思っていた。 尾瀬という言葉には、青春の恋ごころをくすぐるようなロマンチックな響きがあった。憧れだった。若者たちは尾瀬へ尾瀬へと草木のようになびいていた。 高校を卒業して就職しました。勤務地は花の都の東京です。 信州の田舎からSLに乗って上京し、千駄ヶ谷駅前にあった独身寮へ入りました。隣に津田塾(今は津田大学というのかな?)があり、向かいが東京都体育館、当時は徳川邸の大きな屋敷などがあり、こんなところに独身寮があったとは考えられないような良いところでした。 独身寮の友人と私が、それぞれ付き合っていた女性(二人ともその後結婚して夫婦となった)合わせて4人で尾瀬ケ原へ行く約束が出来あがりました。 それは1961年6月10日〜12日、今から40年前、私が24歳のときの遠い昔のことです。
上野発19時36分の夜行列車に乗りこみ沼田駅へ。大混雑のバスを敬遠して乗合タクシーで大清水へ向かいしまた。登山ブーム華やかなりしときでした。年寄りなんかはほとんど見かけない。みんなピチピチした若者ばかりです。 汽車が沼田駅に着くと先を争ってバス停へダッシュ。すごい迫力だったのを思い出します。 乗合タクシーが大清水に着いたのは真夜中の1時。 今ではマイカーですうーっと行ってしまうケースが大半ですが、そのころはアプローチだけでも大変な時代でした。不便でしたが、そんな当時をとても懐かしく思い出します。 懐中電灯片手に4人は三平峠から尾瀬沼へ。さらに尾瀬ケ原へ入り見晴十字路の燧小屋へ泊まりました。どの小屋も満員の張り紙が出ていたのですが、時間が早かったので思ったよりすんなりと泊めてもらえたのはラッキーでした。 今のように、社会で一仕事なし終えた高年組が、山を占拠しているのとはちょっと違って、ほとんどが我々のような青年男女ばかりです。そのため山の雰囲気も今とはかなりちがったものだっような気がします。二日間の尾瀬ケ原で、われわれ4人のうち3人が尾瀬で友達と顔を合わせました。偶然とは言え、それだけ大勢の人が尾瀬を訪れていたと言うことにもなります。 二日目は竜宮小屋へ泊まり、尾瀬ケ原散策を十分楽しんだ後、富士見下からバスで帰りました。
湿原と言っても、原の中には比較的乾いている場所もあり、ぐしょぐしょせずに歩けるところもあります。そこには自由に入っていました。あるいは立ち入らないように指導されていたかもしれませんが、それをとがめるようなことは、まったくありませんでした。 雲一つない青空、池塘を眺め、花を愛で、歌をうたい、至仏山や燧ケ岳に登るわけでもなく、4人は日がな一日、草原の上で過ごしました。 写真を見ると、池塘の浮島に乗っていたり、草原に座って絵を描いていたり(相棒の友人は絵が趣味)、4人が池塘のそばで寝転がって昼寝をしていたり、あるいは麦藁帽子でトンボを追いかけていたり、そんな場面がたくさん写っています。今ではとうてい考えられない光景です。 その後アヤメ平の湿原が全滅、今必死で復元を図っている。そんな原因をつくるのに一役買ったかと思うと忸怩たる思いがする。 あの尾瀬ハイキングから時は流れ、50歳を過ぎて山へ登るようになった。燧ケ岳、至仏山も合わせると、春、夏、秋季節を変えて7回ほど尾瀬を訪れた。 今でも尾瀬は、私の青春の思い出につながる忘れ得ぬ地となっている。 |