山のエッセイ3015  up-date 2001.06.2 山エッセイ目次へ

杉・桧の人工林は美林か

私は登山から帰ると、その山行の様子などをまとめた山行記を綴っています。
以前はワープロ、今はパソコンを使っています。パソコンで作製したものを紙にアウトプットして、溜まったところで製本しています。自分の書いたものが活字になるというのは、それが自分しか読まないものであっても楽しいものです。

前おきはさておいて、その山行記にはよく「薄暗い杉の植林につづく道は陰鬱だった」とか「どうしても杉や桧の植林帯は好きになれない」とか「眺望もなく、野鳥の囀りもなく、ただ単調な杉の人工林を早く抜け出したかった」とか・・・・ そんな記述がけっこうたくさん出てきます。

杉や桧を何十年という年月、親子二代も三代もかけて経済価値のある樹木に育て上げるまでの苦労は並大抵ではなかったと思います。そして手入れされたこの人工林を「美林」と呼んでいます。
へそ曲がりのようですが、私はこうした人工林を「美林」、つまり美しい林、美しい山とは呼びたくないのです。手入れの行き届いた吉野杉の山も、木曾の桧林も、私の感覚では美林と言うのとは少しちがいます。

言葉のあやかもしれませんが、美林という言葉は別に使ってほしいと思っています。
私たちの生活にとって、木材は重要な資源です。木材がなくては暮らして行けません。
杉や桧などの人工林は、その重要な木材を生産する工場です。つまり造林工場と言ってもいいでしょう。木材生産者の生活や経済を支えています。造林工場が、経済価値のない樹木をいくら育ててもそれでは採算が合いません。商品価値のある杉や桧の造林が行われるのは当然です。

桧や杉の人工林は経済造林と呼べばいいかもしれません。ただ、経済性優先でいわゆる自然林が次々と人工林に変わって行く姿には問題を感じます。
杉や桧の人工林を「単相林」と呼びます。その林床には太陽光が届かず、他の潅木類は育ちません。杉一色の林となります。落葉広葉樹の葉や実を食する昆虫も住めません。その昆虫を食べる野鳥もいません。獣もいません。人工的に育てられた杉や桧以外は“死んだ山”と言うこともできます。
そんな山に「美」というような称号をかぶせる気には到底なれません。

人工林はそれなりに大切です。しかしあまりにも無造作に、従来からある自然林を杉や桧にとって変わらせて来たのではないかと思います。
東北地方などで、天を覆うようなブナの大木が立ち並ぶ山を歩いてみると、あれだけ葉が茂っていながら、林床にはちゃんと太陽光の木漏れ日が注いでいます。低潅木類も光合成が可能で元気に育っています。ブナ一色ではありません。混生林をつくっています。ドングリやトチの実がたくさん散らばっています。分厚く積った落葉は天然のダムという大切な役目も果たして、また大雨による土砂の流出も防いでいます。ブナやミズナラの大木の下でも、森は明るさに満ちています。決して陰気な暗さはありません。野鳥が囀り、獣臭がたちこめています。山全体が生きているのを実感できます。

こうした森や林こそ私は「美林」と呼びたいのです。
私の住んでいる奈良県は、「吉野杉」に象徴されるように杉造林の盛んな土地柄です。どこの山へ行っても杉の植林が目に付きます。それだけ自然林が少ないと言うことです。 2年ほど前に奈良県下を襲撃した台風がありました。人手をかけて育てられた杉の高木がいたるところ、列を作ってなぎ倒され、その残骸が今でもたくさん放置され、問題になっています。人口林のひ弱さを露呈したものです。自然植生の杉は簡単には倒れないそうです。

造林可能な斜面は、すべて杉や桧に変わってしまうのではないかという恐怖を感じます。
人工林同様、自然林の大切さも忘れずに、真の美林を大切に残して行きたいものです。