山のエッセイ3032  up-date 2001.11.24 山エッセイ目次へ

不見識な山のゴミ
額の汗を拭いながら山頂へ登り着く。
「やれやれ着いた」そんな気持ちで山頂を眺めまわすと、ときには満艦飾と言いたいほど数多くの私製プレートが、木の枝や幹に七夕の短冊と見まがうほどに、ひしめいているのを目にしたことがありませんか。
北アルプスなどではほとんど目にしないのは、プレートを付ける樹木がないためか、あるいは自然保護パトロールが撤去しているのかもしれません。

何が書いてあるのかと思えば、氏名(または山岳クラブ名)、山名、登頂年月日です。
山頂には何も表示がなくてもかまいませんし、地元市町村などで設置したものが一つあればそれで十分です。
今日(2001.11.23日)登った奈良県観音峰山の山頂にも10個以上の私製プレートが樹木にくくりつけられていました。
いったい「プレートを残してくる」という行為は何なんでしょうか。私にはわかりません。人類未踏の頂きに初登攀した記念というのなら意味があります。無用の痕跡を残すことで何か満足感が得られるのでしょうか。それとも自己顕示なのでしょうか。どうも理解できません。

風雨にさらされて針金一本でぶら下がっているもの、地面に落ちているもの等、ゴミ以外の何物でもありません。 木製のものはまだしも、合成樹脂ときたら腐ることもないし、こんなものが増えたらいったいどうなるのかと心配です。
以前石狩岳とペテガリ岳山頂で、東京の有名私大K大学ワンゲルの、赤と青に塗り分けた大きくてけばけばしい合成樹脂製のプレートが、岩の上に置いてありました。私の登った数日前の日付でした。このような手段で世間に喧伝するほど、このグループがこの山に登ったことに価値があるとも思えません。誰でも当たり前に登れる山です。

こうした行為は、山へゴミを捨ててくる行為と何ら変るところがないということに気づいて欲しいものです。