山のエッセイ3045  up-date 2002.03.28 山エッセイ目次へ

山と感性
ある山岳雑誌に次のような文節が載っていました。
『・・・深田百名山コレクションのようなピークハント・・・』
この文節の意味は、ある文脈の中の一部ですから、前後の文章を加えなければ正確には伝わりませんが、ただ間違いなく言えることは、深田百名山を志向する姿勢を冷ややかな目で見ているということです。
登山道も山小屋も整備されていて、健康でさえあれば誰でも山頂に立てるというようなものは登山ではない。「登山」というのは、ただピークを踏めばいいということではない。そういう趣旨らしいのです。

私はどのように山を楽しもうと、それは個人個人の好き勝手、他人にとやかく言われたり言ったりするものではないと、常々考えています。
名山志向を「登山」と言ってはいけないのなら、「ハイキング」でも「山歩き」でも何でもいい。その人なりに山を楽しめればいい。山頂直下までロープウエイか自動車で上って、山頂から展望を楽しむことが好きならそれでもいい。 こういう人が「私は山へ登るのが好きだ」と言っても、なんら憚る必要はありません。

要は山歩きに関して「ベテラン」を自認する人の中には、自分と同じような登り方をしないと、そんなのは登山ではない。こうした偏見があるのではないでしょうか。
山登りを楽しんでいる人々の圧倒的多数は、日常生活の中で登山の占める部分はほんの僅かなものです。山登りが命、山こそ人生のすべて、山だけと言う小さな世界に凝り固まってしまったている人々と、山に対する感性が異なるのは当然なことです。
この圧倒的多数の人達の方が、山以外にも多くの人生を体験し、自己を磨き、幅広い豊かな感性に満ち溢れている場合が多いように推測します。

ゴルフ場の芝生の上に立って「自然はいいなあ」と感じる人もいれば、「あんなのは自然じゃないよ、人工物だよ」という人もいるでしょう。「自然と感じるのは間違っている」と文句を言う問題ではありません。これと同じだと思います。