山のエッセイ3089  up-date 2005.04.12 山のエッセイ目次へ

森は生きているか
私自身の古い山行記録を読んでいたらこんなことが書いてありました。これは鈴鹿山脈の山へ登ったときのものです。

薄暗い杉人工林の急登がはじまる。スギ林は下枝が払われ手入れが行き届いているせいか、他で見るスギ林にくらべると陽光も届いていくらか明るい気がする。
しかしスギ以外の樹木は一切なく、林床にはわずかにシダ類が見えるだけという単相林。森の小動物にとっては実にうとましいスギ林であるに違いない。
「森は生きている」はずが、生きているのはスギだけで、実態は死んだ森にひとしい。 いつもながらスギの人工林に敵意?を抱きながら登って行く。

私が子供のころ、家庭で使う燃料は山からとってくる雑木類だけ。煮炊きにはじまって、炭も雑木類から造る自家製でした。落ち葉はかき集めて堆肥の材料に。
しかし山が裸になるほど伐るわけではありませんし、適度な木々の新陳代謝と山の掃除にもなっていたのだと思います。そのころスギ一色の山、ヒノキ一色の山というのはあまり記憶にありません。

戦時中過度な伐採で禿山だらけになってしまいました。戦後山の復元に取組み、成長の早いカラマツ植林が盛んでした。ところが木材としてはほとんど役にたたないために、その後放置されたままのカラマツ林がたくさん残っています。

そして経済価値に重きが置かれた結果、落葉樹林が次々と伐採されて、そのあとにスギやヒノキが植えられていったのです。あっちもこっちも、山はスギやヒノキだけになっていきました。
スギやヒノキ以外に雑木一本見当たらないような単相林は、幼虫の食べる葉もありません。幼虫をエサにする小鳥もいません。森の動物や野鳥が食べる実もありません。「命溢れる森」どころか、スギ・ヒノキ以外に生き物は見当たらないと森となってしまいました。これは生き物が死に絶えた『死んだ森』です。

今でも山を歩いていると、落葉樹林を皆伐してスギやヒノキに造り変えている山を目にします。生きている山を死んだ山にしようとしているのです。それぞれに事情のあるのは百も承知しています。でもやはり悲しい。
森は生きている・・・・この言葉が通用しなくなった山はほんとうにたくさんあります。ブナやナラなどの広葉樹が豊かに茂り、昆虫や野鳥が集まる森、こんな森がもっともっと復元したらいいなあ、そう願っています。