グレイシアー・ベイ紀行(その1・ハンプバック・ホエール)

「フオゴー」

ダース・ベイダーの呼吸音に似た音がスプルースの森の向こうから聞こえてくる。

思わずレインフォレストのカーペットを踏み、光る海に駆け出してしまった。森を抜け、聞こえてきた方に目をやった。
雲が流れ、北の青空がどんどん広がっていく。
遠くに4000mを越える万年雪を頂いたフェアウエザー山脈の連なりまで見える。

その手前の静かな入り江。キラキラ輝く波涛の中。
黒い物体がゆっくり現われ海中に消えた。水蒸気の霧と呼吸音を残して。

「ザトウクジラだ!」

フォールディング・カヤックを急いで組み立て、海面に滑り出る。
潮を吹き上げる巨大な生き物にむかって、ぐいぐいパドルを漕いだ。

その距離が、およそ100mに狭まった。
パドルを止め、ビノキュラーをとりだした。
体長は10mから15mくらいだろうか。大きい。
眺めていると、浮上のサイクルがパタリと止まった。
しばらく海は、静かなままだった。

どうしたんだろう?深く潜行してしまったのだろうか?
やがて僕のカヤックの周りにカモメが集まり始め、海中に急降下を始めた。
ナブラ(魚の群れ)がよってきたのだろう。
狂乱のようなカモメ達の捕食が始まった。

「まてよ…とう言うことは…」

心臓がドキリと大きな鼓動を刻む。

「当然この魚の群れを追って…」

その瞬間10mくらい左前方から2頭のザトウクジラが垂直に飛び出した!

水飛沫を上げながら、ゆっくり海中へと没する。
映像がスローモションのように眼に焼き付いた。
心臓が、そのまま開いた口から飛びだしそうになる。
興奮と感動でしばらく口がきけない。
ブルブル震える指から、無理やりパドルをコーミングに引き放す。

「すげえええー」

両手を開いたり握ったりを繰り返す。

「すげえ、すげえ、クジラだ、クジラだあ」

そのまま両手を天空に突き上げ、叫んでしまった。
こんどは右前方に姿を表した1頭がゆっくり体を回し、尾をパタパタさせながら潜っていく。
別のやつが、正面から近づいてきて、フネの前方で潜り、後方へと抜けていいった。きちんと。こちらを避けてくれているようだ。
一人ぽっちで海上に浮かんで、夕日をバックに鯨との邂逅をしばし楽しんだ。
ニコニコしながら、夕暮れの中をキャンプ場へ漕いだ。

東南アラスカ、グレイシアーベイの入り口、ガスティバスにあるバートレット・コブ・キャンプ場での出来事。

このキャンプ場の前まで、クジラが何頭もやって来る。岸からわずか10mのところを悠々とフィーディングをしていく時もある。先日はシャチも舞い込んできたそうだ。
キャンプサイトは、高いスプルース(トウヒ)の森の中。
木漏れ日の中でメープル(かえで)や栂の幼木が茂り、苔類の繁茂したレインフォレストになっている。
アカリスやマーモット、そしてポーキュパイン(ヤマアラシ)、時にはブラックベアも訪れる。使用料は無料。最高のキャンプ場のひとつだ。

グレイシアー・ベイ・ロッジまで足を伸ばせば、暖かい料理やカキーンと冷えたビールがそろっている。素晴らしいではないか!

到着したキャンパーは全員、キャンプ場の入り口にあるレンジャー・ステーションで、バックカントリーに入る登録をする。20分間のビデオで、公園内での熊対策や氷河、氷山、潮流、大型船のおこす波などの危険性とその回避方法のレクチャーを受けた後、シーカヤックで湾の奥までいく人にはレンジャーが、お進めの場所やキャンプサイト、危険個所、上陸禁止地区などを丁寧に教えてくれる。

旅する日程、フネとPDFの色、捜索開始日、ピックアップやドロップオフの有無をパソコンで入力した後、何があっても自分の責任ですという例の誓約書にサインし、登録完了。

何度も繰り返し注意されたのは、食料の熊対策について。
食料や匂いの出るものはすべてベアコンテナにビニールで密封して入れろとのこと。石鹸や歯磨き粉でさえ危険だと言う。
これは、キャンパーの安全もさることながら、熊にエリア以外の食事の味を覚えさせない意味がある。それが彼らを守ることにも繋がるのだ。逃げ出したサルに餌を与えてよろこんでいるどこかの国民とは基本的に考え方が違う。 コンテナはいくつでも無料で貸し出してくれるのも泣かせる。

今回、グレイシアーベイの旅に同行するのは、ジュノーで知り合ったカズ。32歳。釣りとアラスカと星野道夫氏の文章をこよなく愛する青年だ。

「僕まだアラスカらしいアラスカみてないような気がするんです」
との言葉に、グレイシアー・ベイの旅に誘うと、ふたつ返事で乗ってきた。シーカヤックはシトカで一度やっただけだが、その時大きなハリバット(おひょう)をシーカヤックで釣り上げた経験を持つ。
途中まで釣りやキャンプをしながら北上して、カズはピックアップでキャンプ場に戻り、僕は氷河を見に入り江の奥まで行く計画を立てた。釣りが上手いカズが一緒ならメシのおかずに困ることはあるまい。

グレイシアー・ベイはクルーズシップが毎日、定刻に湾内の3個所で、シーカヤッカーやキャンパーをドロップオフやピックアップをしてくれる。日数や行きたいエリアによって効率的に周ることができる優れたシステムだ。
氷河は入り江の奥にあるので、湾の入口のバートレット・コブから漕いでいくには、4日から5日は必要は必要だ。往復ならこの倍の日数がかかる。ドロップオフを使えば、行程を片路2日分短縮できるのだが、せっかく神秘のグレイシアに会いに行くのにスキップしたのでは気分がしっくりこない。そこに至るまでも、森と野生動物の宝庫である絶好のフィールドなのだ。

今回グレイシアー・ベイ一個所に絞って来たので、期間は10日間と十分ある。バートレット・コブのキャンプ場からそのまま出発して、湾の右腕を形成するミュアー・インレットを目指すことにした。

湾の左腕にあたる入り江には豪華客船やクルーズシップが毎日ひっきりなしに現れるが、ミュアー入り江は限られた動力船しか入ってこれず、静かなのでシーカヤッカーには人気が高い。

出発前にキャンプ場で、「グレイト・ジャーニー」の関野吉晴氏をアシストしていた渡部純一郎氏と短い時間だが会うことができて、熊や燃料対策等、貴重なアドバイスをいただいた。
さあて、出発準備は整った。あとは出航するだけだ。