グレイシアー・ベイ紀行(その8・ウルフ)

8日目。今日も雨。引き潮は午後からだ。午前中はのんびり停滞。MSRをテントの中で燃やして、濡れものを乾かした。冬山用のベンチレーションが付きのテントだから使える芸当だ。そのうち面倒くさくなって、ラーメンをテントの中で作る。やってはいけない行為だが、本日は、すぐ出発だし、前回ここで、野営したときは動物らしい影は見なかったと言う安心感があった。濡れずに食事ができる誘惑に打ち勝つことができなかったのだ。
食事を終え、再び、靴下などの衣類をストーブで乾かす。もう何日も身につけている衣類はさすがに臭った。自分の臭いだからあつ程度は慣れているハズなのに、炎に燻られた臭いは強烈だった。野生動物を寄せ付けそうな臭いだ。食料よりもこちらの方に注意すべきだよなあ。
その時、テントの入り口から音を立てて一匹の蚊が進入して来て、そのまま額に止った。
血を吸われる前に潰したハズなのに、手と額が大量の血に染まった。
変だな。刺された記憶はないのに。こんなに血を吸っているなんて。
別の場所でも刺されていたのか。しかし、どこも痒いところはない。

そのとき、ある考えが頭に浮かんだ。
ひょっとして近くに別の動物がいて、そいつの血を吸ったばかりだとしたら?
自分の考えを、首をふって打ち消した。
まさかそんな事が…あるハズが…

その時、外からカサリという音が聞こえた。
不信に思ってテントから顔を出した瞬間、飛び上がってしまった。
真っ黒な生き物が目の前1mの距離にいたのだ!

「うあああああ!コラっ!なにやっとんじゃ!」

大声をだして、慌ててテントに入って、ベアスプレイを取り出した。
まだ、同じ場所にヤツはいた。

漆黒の体に、黄色く光る眼。
一匹の狼だった。
ベアスプレイを持ったことで、落ち着きを取りもどせ、じっくり観察できた。
大型犬よりもさらに一回り大きく、手足も太い。
その面構えは精悍で野生そのものだった。表情から驚きと逡巡が伺える。
こんどはカメラを取りに再びテントへ。
ファインダーを覗いた時には、もう去っていくところだった。
一度こちらを振り返ったが、そのまま原野に消えてしまった。しばらく震えが止まらなかった。

ウィルダネスの旅では動物との出会いがなにかのきっかけになることが少なくない。
これは出発を促す啓示じゃないか。出発。
上げ潮で逆潮だが、風は湾奥からの吹き降ろしで追い風だ。
午後になると風が逆転して向かい風になる。ここは潮より風を選ぶほうが上策だ。
読みどおり追い風を受けて、フネはハイペースで南下した。余裕があったので、往路ではショートカットして入り江沿いに漕ぎながら南にむかう。おしゃまなヤマセミ君たちが多い場所をみつけてバードウオッチングに興じた。彼らを追いかけながら岬を交わすと、岩に止った白頭鷲と鉢合わせてしまった。驚いて飛び立っていったが、こちらに気づく前に、雨に濡れて困った様にたたずむ姿を見逃さなかった。
おまえも、雨は苦手なんだな。アメリカの国鳥でもあるその精悍な姿は、近くだと大迫力だった。

アダムス入り江への分岐を超すと、ダブル艇のシーカヤッカーに出会った。
2日ぶりの会話。こらからの期待感に膨らむニューカマーの笑顔。
体験を振り替える経験者の笑顔。
いい旅を!と言い合って別れる。

Muir Pt.でとんでもない光景に出くわした。数え切れないほどのカモメの群れに遭遇。水面を叩く激しい音。ピンクサーモンも岸のすぐ側で飛んだり跳ねたりしていた。黒い絨毯が散ったり集まったりしているのが見える。釣った魚の胃袋にぎゅうぎゅうに入っていた小魚の群れだ。その小魚をみんな狙っているのだった。
スプーンを投げると一投めから当たりがきた。入れ食いだ。5匹目にかかったメスをキープ。締めてデッキに積んだ。午後2時にGarfoth Islandをかわす。対岸のMt.Wright直下の砂浜が、ピックアップ・ポイントだ。ここから出発地点のバートレット・コブキャンプ場までは約40km。2日間の行程だ。あと2日は時間があったが、最終日はさすがにゆっくりしたい。明日までにキャンプ場に帰り着きたかったので、がんばって、8km漕いでSturgess Islandに上陸する。

Sturgess Islandのレイン・フォレスト。
フカフカの苔のカーペットを踏むのは気持ち良い。
この日の航行距離30km。あと32kmならあんとか明日漕いで帰れる距離だ。浅瀬のBeardslee Islandsの水路は午後2時から5時までの下げ潮で越せる。朝早出すれば問題ないだろう。

久々の鮭つくしの夕食後、眠りについた。