男の右腕は事ある毎に痛みを訴えた。
かつてバインドは、この国の王を警護する近衛師団にあり、一軍を率いた。 近衛師団第二大隊左軍中将。 それがかつてのバインドの地位だ。 近衛師団は王直属の精鋭部隊であり、その肩書きだけでも他を圧倒するに十分なものだった。 だがそれ以上に、バインドを際立たせていたもの。 生まれながらにその身に剣を宿す、『剣士』という特性。 『殺戮者』『切り裂く者』『戦うためのみに生まれる者』 バインドは右腕に焔を纏う剣を宿し、剣に於いては、その戦闘能力に比肩する者はいなかった。 それ故に――バインドは飽いていた。 対等に剣を交える相手がいない。 退屈と苛立ちが常に身に纏い付いていた。 切り裂き、剣を合わせる事に至上の喜びを見いだすバインドにとって、その事は自分の存在すら無意味に感じさせた。 紙を切り裂いているように感じる。 人形の手足を落としているようだ。 周囲は口々にバインドを称賛した。比類無き剣士、誇るべき剣士だと。 バインドはその称賛を冷めた眼で眺めていた。人形を斬って誉められるとはお笑いだ。 苛立ちは日毎夜毎にバインドの中に降り積もり、静かに、気付かれぬままに確実に、狂気を育てていった。 それはやがて、最悪な形を取って現われる。 ちょうど十四年前の冬、北方の辺境で反乱が起きた。反乱を起こしたのは、ある剣士の一族だった。 王は北方辺境軍約千名を投じ鎮圧に当たらせたが、彼等は雪解けの季節に至っても尚、反乱を鎮圧できずにいた。 それも当然の事だろう。剣士一人いれば、百の兵を抑えると言われる。 王都からただ戦況を眺めながら、バインドは内心、焦りすら覚えていた。 剣士。剣士だ。自分と同じ存在。 最強の剣士とだ謳われながら、バインドは剣士と剣を交えた事がない。それもまたお笑い草だと思ったが、剣士の数は少なく、その機会は与えられなかった。 彼等の事は聞いていた。雪深い黒森に居を構え、気まぐれに戦場に出た。かつての、大戦にも―― バインドの焦りを余所に、近衛師団が動かされる気配は無かった。総将へ進言したものの甲斐はなく、王への謁見は受け入れられなかった。 戦いが長引くほどにバインドは焦れた。 だが同時にそれは、バインドにとって、吉報でもあった。 彼らが剣を交えるに値する相手だと、取りも直さず証明しているではないか? やがて辺境の雪も溶け出す頃、ついに近衛師団第二大隊に王の命が下された時、バインドは眩暈のするほどの喜びを覚えた。 相手の力量はどれ程だ? 何合剣を合わせてくれる? 全員と戦ってもいい。 早く戦いたい。 早く。 早く――
剣士の一族は、たった一人が戦場にいるのみだった。 男の足元で呻きを上げる兵達は、だが誰一人死者はいない。 男は、バインドが来るのを待ち構えていたかのように笑った。 青白く光る剣がバインドの剣と呼応する。 何か男と言葉を交しただろうか。既に忘れた。 だが、その後の事は明瞭に覚えている。 バインドの初太刀は、男の剣に軽々と弾かれた。 驚愕と――身体の奥底から沸き上がる悦び。 それはバインドの中にあった本能を明確に浮き上がらせた。 ぎりぎりの生と死を垣間見る事、その戦いこそ、剣士の存在意義だ。 それ以外に意味はない。
怒りが、込み上げる。 足で土を蹴り上げ、右肩を樹の幹に激しく叩きつける。身体が勢い良く弾き返され、よろめき背後の幹に音を立てて凭れかかった。 「くそっ! あの野郎……何だってんだ!?」 俺に剣を合わせる価値が無いとでも? この俺に、この剣士バインドが、 全てを向けるだけの価値が無いと、そう言うのか!? ふいに、頭の中で嘲りの声が囁く。 (――剣士? 笑わせるな。剣を失って、何が剣士だ) (お前に価値は無い。価値があったのは私だ) (私を失ったお前に価値は無い) (くだらない生だ) 「うるせぇ! うるせぇ! うるせぇッ!」 右腕を振り上げ、目の前の岩目掛けて叩きつけようとして、ありもしない腕は当然のごとく空を切る。バインドは体勢を崩して岩の上に倒れ込んだ。身体が強かに岩に叩きつけられる。 一瞬呼吸を失った喉の奥から吐き出される息に、やがて低い笑いが忍び入る。 「……くッ、クク、ハハハ……」 くだらない生? いいじゃないか。 剣を失い、自分の生きている意味など無いと言うのなら、それもそうだろう。 自分が望んだ生でもない。 だが敢えて死ぬ気もない。 「死にたい奴が死ね。俺は別に、どっちでも構わねぇ」 確か、やりたい事があった。 「なんだっけかなぁ」 起き上がり、額に手を当てて思考を巡らせる。 そうだ、あの男。あの剣士を殺すのだ。 今度こそ完璧に、あの剣を抑えて殺す。 (もういない。私が斬った) 「そうだ。俺が斬った。あれは楽しかった」 (殺せ) 「誰をだよ」 (私を斬り落とした剣士) 「焼け死んださ」 (殺せ) 「けっ」 よろめきながら立ち上がり、バインドは当ても無く歩き始めた。 樹々の間を抜け歩く内、不意に細い道に出る。 その道へ一歩踏み込んだ途端、高い悲鳴が耳を打った。 悲鳴のした方へ顔を向けると、緑の瞳と視線がぶつかった。 恐怖に見開かれた瞳に視線を合わせたまま、バインドはその眼を細めた。 「何だ、てめぇは」 威嚇する荒々しい声に、漸くその場にまだ他の者達がいる事に気付き、バインドは緑の瞳から視線を動かした。 三人の男達が抜き身の剣を提げて、一人の子供を足元に押さえつけている。子供の手から転がり落ちたボロボロの袋から、僅かな食料が覗いていた。だが汚らしい袋に、どう見ても似つかわしくない品物だ。押さえつけられている子供が、どこかから盗んできたのだろう。 今いる道を辿ると、北の街道沿いのちょっとした街がある。 バインドは男達の姿を眺めた。これまた、街の警備隊という訳でも無さそうだ。 子供がどこからか盗んだ食料を、更に山賊達が奪い盗る、といったところか。 「クク」 低く嗤い、背を向けて歩き出そうとしたバインドに、男達の一人が立ち上がる。 「何笑ってやがる、てめェ」 だがバインドが止まる気配を見せない事に苛立ったのか、手にした剣をこれ見よがしに振り翳し、男は荒々しい足音と共に近寄った。男の腕が、バインドの右肩に掛かる。 バインドの足が止まった。 男はバインドの肩にかけた手を、ぎょっと振り払った。 「何だぁ、こいつ、片腕がねぇ」 「腕なんかどうでもいいじゃねぇか。そいつは何か持ってねぇのか、とっとと」 ふいに、バインドに手をかけた男の身体が跳ね飛び、残りの二人の足元に叩きつけられた。 男達が驚愕の表情を浮かべ、転がった仲間を見つめる。それから、まだ子供を押さえつけたままの体勢から、バインドを呆然と見上げた。 「……て、てめェ、何やってんだ……」 バインドは無言で近寄ると、片足を振り上げ、転がった男の腹を蹴った。男がくぐもった呻き声を上げて転がるのを追って、頭を、背中を、腕を蹴りつける。 肉が裂け、骨が砕ける。 「や、止めろっ!」 慌てて立ち上がった男の一人が、バインドの背中に振り上げた短剣を突き立てた。 肉に深く突き刺さるはずの刃はバインドの身体に触れた瞬間、音を立てて折れた。 「……っひ」 信じ難いものを目にして、男達が呆然と立ち竦む。 振り向きもせず、転がった男を再び蹴りつけ仰向けにすると、バインドは男の喉に足を掛けた。 ぐ、と体重を乗せると、悲鳴さえ上がらないまま、鈍く砕ける音が響く。すぐには絶命せず、男は痙攣のように手足をばたつかせている。 その姿から面白くも無さそうな視線を外し、バインドは漸く背後の残りの二人に向けた。自分の足元に落ちた砕けた刃に気付いて、薄く嗤う。 「――何だ。俺を斬るのに、この程度の短剣か?」 感情の欠落した寒々しい響きに気圧され、残りの二人が後退った。 「う、うわっ」 バインドは一歩踏み出した。手を伸ばし、もう一人の持っていた剣の刃を握り込む。それはボキリと、枯れ木のように折れた。バインドの口元が冥い笑みに吊り上る。 「……おいおい、もっとましな剣を見せてくれよ」 「ひぃっ、く、来るなっ」 男達は絡まる足で土を掻くように背を向けると、転げるようにして我先に森の中へ駆け込んだ。 バインドは彼等の後姿に首を巡らせたものの、すぐに興味を失ったように視線を戻し、足元に蹲ったまま震えている子供にその視線を落とした。それから、その傍に落ちていた袋に手を伸ばしてそれを拾い上げた。 ずしりと重い袋を逆さに振ると果物や干し肉が幾つかと、それから壜が一本、柔らかい土の上に転がり落ちる。 「おっと、葡萄酒なんて入ってんじゃねぇか。それなりの品だな」 拾い上げ、手の中で放りながら、怯えたままの子供に眼を向けた。おおよそ五、六歳程度か、薄汚れた顔と手足に、いつ洗ったのかも分からない汚い服を着ている。 「おいガキ。こんなもん持ってるからそんな目に合うんだ。どうせ盗むなら、今度から俺に持って来いよ」 ひとつ嗤うと立ち上がり、バインドは森の奥に足を向けた。 |