九
森は穏やかな陽の光の中に沈んでいた。
鳥の囀りや、小動物の枝葉を駆け抜ける音、吹き抜ける風に枝を揺らす木々の騒めきが、森の息吹を伝える。
密やかな、濃密な生命の気配。
森を縫うように続く細い道を、バインドはゆっくりと歩いた。
右腕が痛む。じりじりと焦げる。
骨が軋み、肉が捻れる。
その痛みに身を浸すように意識を傾ける。
何を囁いている?
既に無い亡霊が。
何の意味も在りはしない。あの鳥達よりも無力な囀りだ。
だが、剣が無ければ、自分の生など更に意味はない。
バインドは薄い笑みを刷いた。
ふいに、その身体が弾かれたようによろめいた。
傍らの木の幹に背中を預け、バインドは何が起ったか理解しないまま、自分の腕を眺めた。
左腕を。
そこから振動が膨れ上がり、その衝撃に再びバインドは弾き飛ばされた。
積もった落ち葉の中に転がる。
「っ」
眼が、見開かれる。
みしり。
左腕の骨が鳴った。
「ぐ……あ」
みしり。
苦鳴を上げる為に開かれた口は喉の奥を鳴らすばかりで、呼吸さえ吐き出さない。
身体の下に押さえ込んだ左腕が跳ねる。
みし。
骨が、砕けた。
肉に突き刺さり、皮膚を破る。
慌てて左腕に眼を遣る。
違う。砕けてはいない。
苦痛の余りの錯覚だ。
だが、骨を揺すり、溶かし、形造ろうとしているもの、が。
肉を、神経を焼いていく。
倒れ込んだ身体と土の間から焔が洩れ出す。
土を舐めていた焔が腕を、背中を、脚を包む。バインドの身体が下生えと土の上を転げ回る。
押し殺されていた苦鳴が、堰を切ったように溢れ、森の中に響いた。
砕け捻れ溶け引き裂かれ、――形成される。
溢れ出した焔が、周囲の木々を焼き始め、辺りが瞬く間に紅く燃え上がった。
苦鳴が、ふいに止んだ。
暫くの間、火のはぜる音と、バインドの荒い息遣いだけが辺りに満ちていた。
やがて、俯せた喉の奥から擦れた笑い声が沸き上がった。
それは次第に大きくなり、炎を圧し、狂気を孕んだ哄笑に変わる。
ふらりと身を起こし、バインドは炎の海の中に立ち上がった。
細められた眼が、左腕に落とされる。
「ク……クク」
左腕から、焔が滴り落ちた。
それは肉から盛り上がった骨を伝い、研ぎ澄まされた刃を伝い、足元の地面に散る。
かつてバインドの右腕にあった、炎を纏う長剣――。
左腕から生えるそれを、バインドは一息に振るった。
衝撃が走り、木々を薙ぎ倒し、燃え盛る炎を掻き消した。
眼を閉じ、剣の感覚を確かめる。
全てが明瞭に、手に取るように感じられる。
小さな生き物達が蠢く様、獣の押し殺した足音と息遣い。川面を渡る風の騒めき。
全てが、明瞭だ。
たった一つを除いて。
それを聞き分けようとするかのように、バインドは眼を閉じたまま自分の感覚を探った。
何を探しているのか、自分すら理解していないままに、もはや聞こえるはずもないそれを追う。
樹の陰、川べり、森の小道。
剣が静かに明滅を繰り返す。
自分を呼び起こしたそれを追う。
一度だけ、剣は大きく炎を巻き上げ、そしてバインドの中に消えた。
――剣は守るものも選ぶ。
だがバインドがそれを理解する事はないだろう。
そして、理解するには既に遅い。
バインドは閉じていた眼を開けた。
既にその先に見ているのは、ただ一つの戦いのみだ。
未だ姿も見ず、名も知らず、生きているかどうかすら定かではないその相手が、何の疑いようもなく、いずれ自分の前に現れると、バインドはそう確信していた。
あの青い光。そこに見た力の片鱗――炎などでは死ぬまい。
自分の剣でしか、死ぬのは認めない。
あの剣士と剣を合わせ、切り裂いた時、それが自分にとって、最大の存在意義になるだろう。
冥い瞳に狂気にも似た光を宿し、バインドは笑った。
(了)
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