八
腕が痛む。
バインドは閉じていた目を開き、痛む腕に視線を落とした。
右ではなく、左。
骨が、微かに軋んでいる。
「……勘弁しろよ。左までいかれたら洒落にならねぇ」
抗議の言葉を聞き入れたのか、痛みはすぐに治まった。
肩を竦めて立ち上がる。視界を巡らせたが、子供の姿は見当たらなかった。
先程一度起きた時にも姿は無かった。目を覚ませばそこにいるのが、ここのところずっと続いていた。何を言う訳でもなく、ただバインドが視線を向けると嬉しそうに笑う。
ただそれだけの事に、いつの間にか慣れてしまっている自分に気付き、バインドは呆れたように嗤った。
ふらりと歩き出す。
特に意識した訳ではなかったが、気の赴くまま、バインドは森の外に向かって足を進めた。
薄暗い森から出ると、明るい陽射しが身体を包む。
久しぶりに受ける遮るもののないその光に、バインドは眼を細めた。
この森に入ってから、既に十日余りが経過している。これまでなんと言う事も無く、ただ赴くままに居場所を変えて彷徨ってきたが、この森は悪くは無い。暫くはここに留まっても良かった。
石畳の敷き詰められた街道のすぐそこに、アス・ウィアンの街が見える。街道は街の横を抜けて、更に南へ、王都へと続いているはずだ。
今更そこに興味も無いが。
ふと、街の門の前が騒がしい事に気付き、バインドは視線を向けた。
その眼が、ゆっくりと細められる。
門の前に人だかりができているのが見て取れた。
石畳の上に降り、バインドは門に向かって歩き出した。
嗅ぎ慣れた匂いが風に交じる。
幾度と無く、数え切れないほど自分の手で流した、血の匂いだ。
門の前まで歩み寄り、人だかりを押しのけてその中心に出ると、バインドは足を止め、それを見下ろした。
石畳の隙間に、流れたばかりの血が染み込んでいく。
割れた壜から零れた紅い液体に混じり、僅かに陽光を弾いていた。
「はぁー」
溜息にも似たそれは、どこか感心しているようにすら響いた。
ざわめく人だかりに構わず、バインドは爪先で子供の身体を転がし、仰向けた。
見開かれた緑の瞳には、既に生命の欠片すらない。痩せた身体のあちこちに、ひどく殴られた痕が見える。骨もいくつか折れているのだろう。
だが致命傷は背中の太刀傷だ。血がここに大量に散っている。ここまで逃げてきて斬られたか、運ばれて斬られたか。
どちらにしろ、自分いた森までは、そう距離はない。
バインドはすぐ背後に生い茂る森を眺めた。
(――俺の名でも、呼んだか?)
足元の身体を見下ろし、それが出来るはずのない事に気付いて、小さく嗤った。
「クク……名なんざ知らねぇか」
バインドも、子供の名前など知らない。
耳元で煩く喚く声に気付き、バインドは漸く視線を上げた。
そういえば先程から、数人が何かを喚いている。外見からすると、この街の衛兵だ。
「おい、貴様、このガキの仲間か?」
衛兵達はふらりと現れた男の姿を、どこか薄気味悪そうに眺めた。その右腕が無い事に気付き、眉を顰める。
バインドは黙ったまま、彼らに視線を向けた。
武装した衛兵達が、何かに圧されるように、数歩後退る。だが目の前にいるのは、粗末な服を纏っただけの、武器すら持たないただの男だ。
衛兵達は羞恥を押し隠すように殊更に声を上げ、改めてバインドを取り囲んだ。
「仲間かと聞いている!」
「名を名乗れ!」
鬱陶しそうに彼らを眺め渡し、バインドは再び視線を落とした。
ふと、口元に笑みを浮かべる。
「俺の名か。――そうだな」
教えておいてやってもいい。
最早意味も無い話だが。
「――バインド。フレイ・バインドだ」
焔が一筋走り、子供の身体を包み込む。
呑まれたように立ち尽くしている人々を尻目に、バインドは踵を返した。
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